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「待ってくださいませ」


すらりとした姿勢の良い背中を追いかけて、アリューシャは秘めやかに声を掛けた。

男が足を止め、静かに振り返る。

たったそれだけのことでアリューシャの胸は高鳴った。

均整の取れたその体躯に、凛々しい立ち姿。

髪色と同じ色をした式典用の軍装と胸元に燦然と輝く勲章が、彼を華々しく飾るのとは対照的に、着崩すことなくきっちりと着こなされた詰襟と白い手袋が、どこか禁欲的で端然とした雰囲気を与えている。

オルフェルノの将軍は、眼鏡越しにアリューシャの存在を認めると、淀みのない所作で恭しく礼をした。


「これは…公女殿下。どうかされましたか?」

「わかっていらっしゃるくせに」

アリューシャは、もじもじとして言葉を切った。

頬を薄らと赤らめて、その瞳はきらきらと無垢に輝く。


「ずっと、貴方にだけ、お会いしたかったの」


気恥ずかしげにそう言って、一歩前に出た。

その手を取ろうと、甘えた仕草で手を伸ばす。

それを遮ったのは、彼自身だった。


「淑女がそうも容易く男に触れようとするものではありませんよ」

半身を引いた将軍は、やんわりとそう言って微笑んだ。

「好きな殿方に触れようとするのは、悪いことですか?」

真っ直ぐに、アリューシャはそう訊ねる。一途な姫の言葉に、彼は苦笑したようだった。

「私には婚約者がいます。その話は伝わっておりませんか?」

冬狼と呼ばれる男は、伸ばされようとする手を取ろうとはしなかった。

抱擁どころかアリューシャに触れることすら、禁忌であるかのように。

白魚のような繊細な手が小刻みに震えているのを見ても、潤んだ蜂蜜色の瞳に求めるように見つめられても、彼はただ穏やかに微笑みを浮かべるだけ。

拒絶するわけでもないが、受け入れることもない。


何か、おかしい。

なぜ、彼は私の手を取らないのかしら?

彼も私を望んでいるはずなのに。


「…私を選んで頂けないのですか?」

滑らかな頬に涙が伝った。しな垂れかかろうとするアリューシャの身体を、男はそっと紳士的に、けれど明確な意志で遠ざける。

「私は既にたった一人を選んでしまったものですから」

童話の中のお姫様のようなアリューシャに、今までであれば必ず伸ばされたはずの手。

神殿に立ち並ぶ彫像のように目鼻立ちの整った極上の男は、遠ざかることはなくとも、決して近づいて涙を流すアリューシャを抱きしめたりはしなかった。

紺青の髪がさらさらと風に揺れ、灰色の瞳は思慮深く理知的な光を湛えている。

その瞳が己に向けられていることに、そして、意のままにならないその男らしさに、彼女は夢見るような心地で彼を見つめた。

アリューシャにおもねる事のない男は、けれど踵を返して彼女を置き去りにはしないから。この想いは、一方通行ではないと、姫は確信する。


(やはりこの方の妻になるのは私しかいないわ)


潤む瞳のその意味は変わり、うっとりと幸福に酔いしれる。

彼に婚約者がいるということなど、本来ならば何の障害にもなりはしない。

それはアリューシャと出会う前に決まった話であり、…そう、ふたりは巡り合ってしまったのだ。今大切なのはこれからのふたりのことではないのだろうか。


…婚約者という市井の娘。

靴の中の小石のような存在が、ふたりを分かつ。


私ならば。


隣に立つに相応しい容姿と、賛美される性格を持ち、多くのものを将軍に与えられる公女に妻の座を明け渡すのが当然だと思う。そして幸せになるように祈るだろう。

「出会いが先か後かの話ならば…少々短絡的ですわ」

先に出会っていたのであれば、なんの迷いもなく彼は私を妻に迎えたのだろうに。

きっとこんなにも彼が困ることはなかった。


なんて紳士的で誠実な人なのだろう。


自分の幸せでなく、約束を優先しようとする将軍の清廉さが、アリューシャには好ましい。

…貴族でもない娘を選ぶ謙虚さは実に素晴らしいが、そんな風に遠慮する必要はないはずだ。相手の娘とて彼のことを思えば、身を引くだろう。引かない様な我儘な娘ならば、それこそ彼には相応しくないではないか。

彼の誠実さが彼を苦悩に陥れるのであれば、その元凶を、婚約者・・・として私が何とかして差し上げなければ。

本来であれば、彼は平民などに煩わされて良い人間ではないのだ。

(なんて気の利かない愚かな女性。この話が伝わった時点で身を引くべきでしょうに。…いえ、でも、仕方ないのだわ。彼女は無知なる市井の娘。物の道理も何も知らないのだから、哀れに思って、諭してあげなければ。それが高貴なるものの務め)



アリューシャは高揚する使命感に、公女らしく、高慢に、そして罪のない微笑みを浮かべた。








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