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アリューシャは、すんと鼻を鳴らして、涙の溜まった目元を指先で拭った。

物憂なため息を付き、頬杖をついた窓辺で、冷たい硝子に頭を軽く預ける。外からの冷気が紅潮した頬を冷やすけれど、窓に映るその目はまだ赤いままだ。

ふわふわと波打つ金色の髪と、とろりと濃厚な蜂蜜色の瞳が硝子に映り込む。

フメラシュ公国の深窓の姫は、その噂に違わず、とても可憐で蜜のように甘やかな少女だった。

化粧の栄える目鼻立ちの整った容貌は鋭さのない柔らかなもので、少し垂れ気味の大きな目がどこか庇護欲を誘う。まろみを帯びた女性らしい身体に、甘く香る香油の匂い。

今、その姿は痛ましいほどに憔悴していた。

それでも、憂いを帯びた面持ちは元来の愛らしさを失っておらず、金色の睫毛が伏せがちに影を落とすのが、また哀れを誘う。

使節団の正使としてオルフェルノ国王との謁見を果たしたクラウスが、滞在を許されたこの王宮の一室にやってきたのは、つい、数時間前のことだ。

今にも踊りだしそうなほどはしゃいでいたアリューシャに、兄は憐憫の眼差しを向けると、縁談が無くなったことを告げた。


将軍に婚約者がいることも。


その時の衝撃と言ったら、雷に大地が裂けて、空が落ちてきたかのようだった。

アリューシャだけでなく、部屋に居た侍女たちさえ凍ったように動きを止めた。

天真爛漫な明るさで、使用人にさえ無邪気に微笑みかけるそんな公女は、フメラシュの誰からも愛されていた。

その自慢の姫の望んだ結婚が断られるなど、誰ひとり予想していなかったのだ。

「そんな…、姫様が不憫すぎますわ」

アリューシャを慮る侍女の言葉が、逆に、否定したい破談(それ)が現実であることを突きつける。

突き刺さった刃は、心を傷つけて、目に見えぬ血の代わりに、涙が頬を伝った。


この恋は、アリューシャにとって生まれて初めてのものだった。

今までも、憧れる男性や、惹かれる相手が居なかった訳では無い。

けれど、彼に出会った時、アリューシャの中に走った衝撃たるや言葉にならない程に強烈で、心が持っていかれるような、高いところから突き落とされたような引力は、経験したこともない、抗いがたいものだった。


グランブランド王国の舞踏会の場で見た、あの灰色の瞳。

貴公子然とした、すらりと麗しくも凛々しいその立ち姿。

穏やかで、静かなのに、反面、惹きつけられる魅力的で華やかな微笑み。

全てが脳裏に焼き付いて離れない。


心を盗まれた。いや、そんな生ぬるいものじゃない。

まさに、奪われてしまったのだ。


アリューシャを恋に突き落としたのは、オルフェルノ王国の若き将軍だった。


他国の将軍への降嫁など、本来であれば許されないとわかっていた。

それでも、どうしても。

初めて手にした恋を諦めることが出来ずに、アリューシャは父へと告げた。

「彼に嫁げないであれば、修道女になります」

涙を浮かべ、切々と伝えた彼女の思いに、父は折れ、降嫁を認めてくれた。


それなのに。


縁談は断られたのだという。

絶望という奈落の底に叩き落とされ、崩れ落ちる。

嗚咽を零し、口元を覆って泣き始めたアリューシャには、遠巻きに見守る侍女たちの視線を感じていても、声を掛ける余裕すらなかった。

今はもう涙も枯れ、疲れきって、放心したように窓際で冷たい窓硝子に頬を寄せるだけ。

窓の外に広がる真白な世界をその瞳が映すことはなく、アリューシャの心は塞いだままだ。

侍女の一人が静かに近づくと、俯いたアリューシャの前で膝をついた。

ぼんやりとしたままのアリューシャを元気付けるように、彼女は微笑む。

「諦めるのはまだ早いです。まだ、将軍と会ってもいないではありませんか。彼の人もきっと、殿下をお知りになれば、心も変わるに違いありません。晩餐会ではいつも以上に姫を美しく着飾ってみせます。ですから、どうか、いつものように笑っていて下さい」

侍女は心から、確信に満ちた瞳でそう言った。

はっと、アリューシャは顔を上げて、侍女を見つめる。

まじまじと美しい瞳に見つめられて、侍女の顔が薄らと赤くなった。


暗闇が広がる悲しみの中、落ち込むアリューシャを、侍女の言葉が一条の光のように照らし出す。


そう。まだ、諦めるには早すぎる。


励ましをくれる侍女に、彼女はふわりと微笑んだ。

金色の髪が揺れ、匂い立つような甘い瞳が明るく輝く。

両手を合わせて、アリューシャが目を細めた。

「そう、そうですわね。将軍は私のことを全く知らないのですもの。お断りされても仕方なかったのですね。ですが、そのために私はここまで来たのでしたわ。ちゃんとお会いして、お話をして、お互いを知り合えば、きっと。私に心を通わせてくれますよね」

「勿論ですとも」

「ありがとう、皆さん。いつも私を支えてくれて」

アリューシャは自分を心配げに見守る侍女たちを見回し、とても嬉しそうに、感謝の言葉を口にした。

「勿体無いお言葉です、殿下」

恭しく頭を垂れる侍女たちに、アリューシャは優しく頷く。

「では、お願い。私を、ヴィルヘルム様に好いていただけるような素敵な女性にしてくれる?」

「かしこましました」

ようやく見ることの出来たアリューシャの笑顔に、彼女たちは朗らかに笑って、頭を上げた。







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