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…歌が聞こえる。
柔らかい歌声が紡ぐのは子守唄。耳に心地よい甘い声音。
とんとんと鼓動に同調するリズム。
…どうやら寝かしつけられていたようだ。
「…まるで、子供相手だな」
寝起きのその声は掠れて、笑いを含む。掛布の上乗せられていた手を掴み、逃げようとするリュクレスを身体の上に引き寄せる。
「すみません、起こしちゃいましたか?」
囁くような声が耳を擽る。柔らかな気遣いはヴィルヘルムを甘やかす。
自覚のない娘に、ヴィルヘルムは和やかに微笑んだ。
「いや、ちょうど起きたところです。子守唄なんて…子供の頃以来だな。いつもは歌っていませんよね」
「…なんだか、険しい顔で寝てたので…」
「そう、ですか」
起き抜けの身体は軽く、意識はすっきりとしている。
重たい眠りは、彼女の歌に心地よい眠りに換えられたのだろうか。
身体を起こせば、乱れた紺青の髪がさらりと額に落ちた。
顔にかかる前髪にリュクレスが手を伸ばす。小さな手でかき上げられ、視界が開けた。
その手を掴んで、口づけたいと不意に思う。
気遣う藍緑の瞳、影を落とす長い睫毛に、その瞼に感謝のキスを落としたい。
それは男にとって意外な程、愛おしく柔らかな親愛の感情だった。
しかし、肌理の細かい肌が滑らかな手触りであることを、ヴィルヘルムは知っている。彼女が年頃の娘であることも。幼子ならばともかく、信頼する相手にはどこか無防備な少女に、これ以上の接触はやましい気持ちがなくとも良くはないだろうと、ヴィルヘルムは自身を戒めた。
捕まえたままの片方の手首は、折れてしまいそうなほどに細い。
そこに居るのは、3か月前よりは柔らかさを取り戻し、どこか子どもっぽさが薄らいだ娘。
まだ、華奢というよりもとにかく細い身体からは、痛ましさは消え、痩せこけた頬も、少しふっくらとして、健康的な赤みも取り戻していた。
これも料理長とソルの涙ぐましい努力のたまものだろう。
髪に触れたまま、触れ合える距離で娘は男を見つめる。いつもならこんな距離で視線が合えば赤い顔をして逃げ出してしまうのに、今はそう、その距離感に気が付いていない。
「随分髪が伸びましたね」
「…そのようです」
「切ったりはしないんですか?」
「そうですね…前髪だけでもどうにかしたいのですが、何分暇がありません。もうしばらくはこのままでしょうね」
ヴィルヘルム自身は、普段は後ろに流しているから大して気にもしていない。
片目を閉じて、前髪を摘まむ。
「あの、私で良ければ…」
「ん?」
「修道院では皆の髪を切るのは私だったんです。そういうの、たぶん得意です」
「たぶん、ですか」
その言い方が可笑しくて、ヴィルヘルムは笑う。
「あ、えっと。本当ですよ?なので、整えるくらいなら、きっと、全然いけると思うんですが…」
自信があるのかないのか。
子守唄といい、整髪といい、リュクレスはまるで小さな母親の様だ。
「では、今度来たときにお願いしましょうか」
「はい!」
無邪気に笑う少女の横でもう一度寝台に寝転がる。
甘い花の匂い。
幽かに香るそれが、リュクレスから移り香となってヴィルヘルムの服からも匂う。
淫らな行為など、どこにもないのに…どこか秘めやかな密室の中。
「もう一度、さっきの歌を聞かせてくれませんか?」
「…子守唄、ですよ?」
「眠るために歌ってもらうなら、それで間違いはないでしょう?」
困らせるように甘い声で囁く。掴んだままの手を、繋ぐように指を絡めて。
眼を閉じれば、たどたどしく、細い指が髪を撫でる感触。
心地よい優しい調べが、耳に届いた。
少し甘く響く、ささやかな歌声。
柔らかな音色。
「人の声というのは最高の楽器だと思わないか?」
以前、アルムクヴァイドがそう言い、ヴィルヘルムは「さあな」と、軽く返したが。
ああ、確かに。
素晴らしく、魅了される楽器だと、今になって納得する。
誰もが知っている、その歌が。
愛おしく感じるほどに、耳に心地よい。
それは、素直に眠りへと誘う。
全てのフレーズを聞き終わる前に、ヴィルヘルムは穏やかな眠りの中に落ちていった。
眠れ、森の王
囁きは風が運び
陽の光は 彼を包む
眠れ、優しき王よ
もう誰も涙することはない
歓喜の声は 空を包む
眠れ、森の王
花と共に 緑の丘で
蝶と共に穏やかに




