1
「待って下さいませ」
背中にかけられた、甘やかな声。
ヴィルヘルムは瞳に浮かんだ酷薄な光を消し去ると、ゆっくりと振り返った。
そこには砂糖菓子のような少女が立っていた。
とろけるような無邪気な仕草、純粋無垢な蜂蜜色の眼差し。
お菓子のように甘い匂い、綿菓子のようにふわふわな金髪。
果実のように瑞々しい唇。
柔らかく女性らしい身体に乙女色のドレスを纏う彼女は、まさしく童話の中に登場するお姫様のようだった。
花も恥じらう微笑みは、可憐でとても愛くるしい。
宮殿の奥で大切に、大切に育てられた娘は、ケーキの上に飾られた可愛らしいお人形のような汚れのなさで微笑む。
その笑みは貴賎の差別なく向けられると言われ、親しみやすく、慈愛に満ちていた。
アリューシャ・クリスティ・フメラシュ
ヴィルヘルムは、氷の微笑で彼女を迎えた。
****
「謁見の許可を頂きありがとうございます。国王陛下」
青年は丁寧な所作で一礼し、頭を上げた。一段上の玉座に座るアルムクヴァイドに向けられる瞳は琥珀というよりは、鼈甲のように濃淡のある虹彩で一度見たら忘れられない色をしている。すらすらと口上を述べる物慣れた様子と、誠実で、ともすれば純粋にさえ見えるその瞳がどこかちぐはぐな気がして、アルムクヴァイドは興味深そうに、フメラシュの公子を見つめていた。
クラウス・アウリオ・フメラシュ第二公子。
次期元首となるルシウス公子の双子の弟である彼は、現在、フメラシュの外交の一部を担っている。噂に聞く彼の外交能力は非常に高い。柔軟な交渉術、親しみをもたれるその雰囲気と巧みな話術が、彼の武器なのだろう。父である公爵の才能を確かに彼は受け継いでいた。
だが、如何せん、まだ経験が足りない。
内心を覗かせず、蒼天の深い蒼を細め、王はひとつ頷く。
「遥々、ようこそ参られた。長旅で疲れただろう。晩餐の場を設けさせてもらった。それまで、まずはゆっくりと休まれよ」
鷹揚に労いの言葉を掛ける王に、公子は華のある笑みを浮かべた。
「お気遣い痛み入ります。ただ、叶いますならば、先に妹と共に、将軍への挨拶をさせて頂きたいと思うのですが、…如何でしょうか?」
まず初めにその話か。
性急な事の進め方に、アルムクヴァイドは内心で鼻白む。だが、公子の表情を見る限り、真面目に仕事をしている感は変わらない。
「なぜそれほど急いておられる?」
素直に問えば、公子は表情を変え、しまったとばかりに、拳を胸に当て非礼を詫びた。
「礼がなっておりませんでした。私はただ兄として妹の思慕を思い、早く愛しい方に会わせてあげたいと、そう思っただけなのです。他意はありません、ご無礼をどうかお許しください」
深く頭を下げる彼に、王は態と聞こえるようにため息を漏らす。
顔を上げた公子に向かい、躊躇することなく言葉を発した。
「その件についてだが、縁談の話が届いてから、貴殿らがこの国へ来られるまでの間があまりにも短すぎた。返事はすれ違いになっただろう。率直に言おう。将軍は公女の下賜を望んでいない」
「…と、申しますと?」
「断り状は既に送った。縁がなかったな。将軍には婚約者がいる。彼女以外を妻に望むことはないだろう」
「初耳、なのですが…。我が国の情報不足であったのならば、大変失礼なことを致しました」
「いや、今はまだ公にはしていない」
「何か理由が?お聞かせ願ってもよろしいでしょうか?」
「将軍が妻にと望んだのが、市井の娘だからだ」
あっけにとられた公子は、まじまじと王を見つめた。
フメラシュでは有り得ないことなのだろう。
確かにこの国でも、身分の低い者を娶れば、それは侮りの理由となり、ほかの貴族たちに付け入る隙を与えることになる。それは事実だ。
…隙となるならば、の話だが。
「将軍は辺境伯を叙爵された程のお方。貴賤結婚になりましょう。失礼ながら、国王ともあろう方がそれを許されるのですか?」
俄かには信じがたいと、彼は怪訝として問う。アルムクヴァイドは玉座の手すりに頬杖を付き、目を眇めた。
それだけで、謁見の間の空気が変わる。
穏やかさは一転、じりじりと焼け付くような緊張感に、公子は息を詰まらせた。
恫喝をしているわけでも威圧するわけでもない。ただ圧倒的な存在感でこの場を支配する王は、静かに口を開いた。
「何か問題か?高貴なる血などと言うが、平民も貴族も母の腹から生まれる同じ同胞。役割が違うだけだ。それを貴賤などと、愚かしいことではないか。教会も身分差の結婚を否定してはいない。それにな、クラウス公子」
「…なんでしょう」
「その言葉を将軍に言ったならば、彼は躊躇いなく爵位を捨てるだろう。切り捨てられて困るのは私であり、貴族たちであり、この国の民だ。それだけの価値をあの男はこの国の全ての人間に認めさせた稀有なる人物でもある。身分差などというものに振り回されたりはせんよ」
激昂するわけでも、語気を荒げるわけでもなく、淡々と王はそう応えた。しかし、それは反論を許さない強さを持って公子に届く。
「…では、何故公になされないのですか」
「他でもない、娘を守るためだ。残念なことだが、この国にも差別はある。彼女が傷つけられることを将軍は望まない。ずっと、隠し通す気はないのだが、いかんせんまだ準備中だったのでな。ただ、外聞を気にしてではないことだけははっきりと言っておく」
公子は呆然と王を見つめ、それから肩を落として頭を垂れた。
「私は、どうやら自分が思う以上に高慢だったようです。奴隷を廃止し、公平な国を求めていたはずなのに…私自身が差別を捨てきれていない。未熟者の言葉、どうかご容赦ください」
傲りを恥じ謝罪するクラウスに、アルムクヴァイドは口元を緩めた。
自分を正当化することなく、素直に自分の非を認めることはそれほど簡単なことではない。
その素直さは若さゆえかもしれないが、彼自身が生真面目で純朴なのだろう。
「いや、理解してもらえたなら構わない。国を統べる者として、国民の誇りであるために、気高さは必要だろう。だが、どうか国民に寄り添う心を忘れないで欲しい」
「心致します」
「私としては貴方の国とは友好的に付き合っていきたいと思っている。フメラシュ公は尊敬できるお方だ。交易の面でも、フメラシュの稀少な果実、多彩な薬草は産物として貴重であるし、薬学の専門的知識も、とても興味深く素晴らしいものだ。できれば宮廷薬師を貴国で学ばせたいとも考えている。代わりに、以前公爵が希望されたそちらの騎士と我が国の騎士団の交流については調整がついた。こちらはいつでも受け入れられる。どうかな?考慮願えるか?」
年若く頼りなさを隠し持つ公子を、アルムクヴァイドは侮ることはしなかった。対等な立場を崩さず、彼の謝罪を頷きひとつで許すと、あっさりと話を進める。
交渉や話し合いというのは常に誠実であるべきで、足元など見たところで良い結果は齎されないと知っているからだ。
対する公子も正使として、真摯な態度でオルフェルノと向き合おうとしている。
彼は少しだけ考える素振りを見せてから、了承した。
「わかりました。薬師の受け入れに関しては、早急に手配致します。今後の交易に対してはこちらからも、いくつか要望書を持ってきておりますので、後日会談でこのお話を進めさせて頂きたく存じます。縁談については取り下げさせてください」
「構わない」
口さがない者たちがすでに公女と将軍の結婚の噂を広めているが、公に破談にするよりは、縁談自体をなかったことにしたほうが、公女の名誉は守られる。
妹を思う兄の言葉に、差し出された要望書が近侍に渡るのを見ながら、アルムクヴァイドはそれを承知した。
「それでは、これにて失礼いたします」
「ゆっくり休まれよ」
謁見の間を下がる公子の後ろ姿を見送った王は口の中だけでぼそりと呟く。
「援護はここまでだ。後はなんとかしろよ、ヴィルヘルム」
とりあえずは、これでひとつ、縁談は消えた。
だが、問題はこれからだ。ヴィルヘルムと結びたい者たちにとって、今後、婚約者の存在は邪魔にしかならないだろう。それが貴族でない娘だと知れれば、尚更排除することに躊躇いはなくなる。
だからと言ってアルムクヴァイドが口を出せば、余計に彼女が悪目立ちしてしまう。
擁護すると逆に問題が生じかねないのだ。王は時に沈黙を守ったほうが、上手くいく。
(まあ、いらぬ世話だろうしな)
どうせ、彼女を守る準備は着実に進んでいるに違いないのだ。
策略や策謀というのは、もとよりアルムクヴァイドより、ヴィルヘルムが得意とする分野である。
それに。
王城の中にも彼女の味方は多い。妻のルクレツィア、義妹のフェリージアは言うに及ばず、侍女や近衛騎士、人の良い彼女に絆された人間は少なくない。
自らが動かなくとも、彼女が守られるとアルムクヴァイドは確信していた。
「さて、次は誰だ?」
「リディアム侯です。ハラヴィナ港の警備体制について陳情のようですが…」
「ふむ。ならば、話を聞いてから将軍を呼ぶとするか。通せ」
「はっ」
ならば、アルムクヴァイドがするべきは、己の責務を全うすること。
幼い日、王になると決意したのは、自分を守ってくれた皆のためだ。彼らは、この国をアルムクヴァイドに託して死んでいった。
彼らは多くを望まなかった。
過ぎる日常を、身近な家族や友人を、とても大切にしていた。
幸せの意味など人によって違う。
求めるものもきっとそうだ。
幸せな国の定義など、こうと決まってありはしない。
それでも。
戦争で人が死ぬことがない国を、飢えることのない国を。
隣にいる誰かに手を差し延べることのできる、希望のある国であることを、アルムクヴァイドは希求する。
この国に住む全ての民のために、王はいるのだ。
オルフェルノ王国が、豊かで平和な国となり、彼らが穏やかに幸せに過ごせるように。
それは、きっと、親友とあの娘を幸せにすることに繋がるはずだから。




