幕間 恋に恋して、その先に 後編
「ちょうどいいわ。皆でお茶にしましょうか?」
王妃の声に、はっとアスタリアは我に返った。
「では、準備してきますね」
王妃にお茶を入れるのは本来なら部屋付きの仕事だ。だが、リュクレスの入れるお茶は好評で、皆が揃っている時には必然的に彼女が入れることが定着してしまっていた。
「手伝いますわ」
お湯をもらいに部屋を出る彼女の小さなその背をさりげなく追いかけて、アスタリアは彼女とともに厨房へと足を向ける。長い廊下に差し掛かると、誰の目もないことを確認して問いかけた。
「ひとつ聞いても良いかしら?」
娘は、きょとりとその大きな眼を瞬かせる。
「?…はい」
足を止めると、アスタリアを見上げた。恫喝に容易く怯え逃げてしまいそうな小動物のような少女。その認識は変わらない。
「貴女は将軍が怖くはないの?剣を向けられたことがあると聞いたのだけれど」
アスタリアは理解できないように、リュクレスを見つめた。
まじまじと藍緑の瞳を向ける少女はいつものようにおっとりと首をかしげている。やはりこの幼い娘にあの将軍が受け止めることができるとは思えないのだ。
単純に天然と言われるものは恐怖にすら鈍感なのか。
その感情は少し歪に表に出たのだろう。将軍を慕っていたのは本当だ。孤高の彼に惹かれ、けれど彼が纏うのは冬の厳しさそのものだから。一度その凍土の冷たさを味わえば、彼の隣は望めない。
リュクレスは澄んだ色をした眼を少しだけ細めた。そこに宿るものをアスタリアは読みきれない。少女は静かに話し始めた。
「将軍様は、信念の人ですから。守ると決めたものを守るためには、割り切る強さを持っているんだと思います。でも、切り捨てることが出来るからって、なんとも思っていないわけじゃない。重たいものを全部背負う覚悟をもっていて…誰かの代わりに責任も怒りも、憎しみさえ背負うつもりでいるんです。そうやって沢山のものを守ってる。そんな人だって知ってしまったなら、怖いなんて思えないです。不器用なほど真っ直ぐで誠実な、とても優しい人。…時々ちょっと意地悪ですけど」
なんの戸惑いもなく、軽々と言ってのけ、彼女はほんのりと笑う。
「私に出来ることなんて些細なことしかありません。それでも、ヴィルヘルム様の味方でいることは出来る。守りたいし、少しでも支えになれるなら、…傍にいたい」
…鈍感なんかじゃない。誰よりも、将軍を理解しているのはこの娘なのだ。
あの鋭い氷のような冷たさを受け止めて、つい笑ってしまうくらいに、冬狼将軍をただの男にしてしまう。あの痛みすら伴う冷たさを受け止めて包み込むその包容力に、どこか呆然として、アスタリアは感嘆の言葉しか浮かばない。
「貴女、思っていた以上に大物でしたのね」
「…大物、ですか?」
不思議そうな顔をするリュクレスに気負った素振りはない。
恐ろしい吹雪を纏い戦う冬狼も、微睡み、花と戯れる冬狼も彼女にとっては同じもの。
恐れることなど何もないのだ。
「あんなに怖い人には貴女のような緩衝材がいてくれた方がありがたいのかもしれませんね」
「…将軍様はそんなに怖くないですよ?」
「貴女にとっては、ね。私は駄目だった。逃げ出してしまった」
「……アスタリア様は、将軍様が…いえ、ヴィルヘルム様を、好きだったんですね」
「ふふ。憧れを抜け出せないような、淡い恋よ。玉砕と思うこともないくらい。ただ単に私にはあの人を受け止めきれない。でも、貴女は。…それが出来るのね」
リュクレスは言葉に困ったように眉尻を下げた。
励ましも、慰めも。気遣う言葉は、彼女が言うべきではないと理解しているのだろう。
アスタリアはすっきりとした笑顔を向けた。
「大丈夫、失恋というよりは、自分への失望が強かったの。彼に多くのことを望むのであれば、私自身がそれに相応しくならなければならなかった。相手に自分の理想を押し付けるばかりでは失望されたのも当たり前ね」
リュクレスは無言でただ、告解のようなアスタリアの言葉を聴いていた。
無用の相槌すら打つことなく、ひたすら溶け込むようなその瞳が思いを飲み込んでくれる。
ああ、これがヴィルヘルムの望んだもの。
彼女は静かに佇んで、受け入れてくれる。受け止めてくれる。それは、沈殿する澱のような何かを昇華していく。
「ひとつ、貴女に謝らなければ」
「?」
「ただ、幼いだけの娘だと思っていたの。私の勘違い。貴女は貴重な人だわ」
「貴重…ですか?」
大物の次は貴重…なんだか大層な言葉ばかりを並べてしまった。
けれど大げさではない。
「ふふ、だって恋敵の想いをこんなふうに真剣に聞こうとするのだもの。恨み言でも貴女はこうやって飲み込むのでしょう?」
おろおろと目が泳いだ。多分自分でも否定しきれないのだろう。
それを可笑しそうに眺めて、彼女の肩にそっと手を置いた。
「ありがとう。すっきりしましたわ。…これ以上待たせると王妃が心配しますね。行きましょうか」
アスタリアはおっとりと、いつものように笑う。
それは無理なく、浮かび上がったものだった。




