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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
三部  黄色い薔薇の、花言葉
155/242

9



「君は自分がどれほど魅力的なのかちゃんと知るべきだ。確かにまだ心配になるほどに君は痩せているけれど、出会った頃のように子供のようなとは言い難いよ。とても可愛らしく美しい女性になった。いつだって、私は誰かに奪われてしまわないか心配で、君を繋ぎ止めようと必死なのに。…自分の魅力に心配になるようなことがあるのなら、いつでも私のもとに来なさい。頭からつま先まで、全力で愛してあげる。もう我慢などしてやらない」

欲情の滲む甘い声、熱の篭る灰色の瞳にリュクレスは蛇に睨まれた蛙のような心境に陥った。

本気だと分かってしまえば、尚更に視線が外せない。…囚われる。

男はいつものように優しくは微笑まなかった。

守る者ではなく、そこにいたのは飢えた獣だ。

男の手が、動けないリュクレスの襟元のリボンをするりと解き、馴れた手付きでボタンを二つ外した。露わになったその白い肌に意図して指を滑らせ、胸元をくつろげると顔を近づける。

鎖骨の上に、落とされた唇。

ちくりとした痛みに、リュクレスは身体を戦慄かせた。


―――本当に、食べられてしまいそうだ。


男が動くたびに、髪が肌を擽り、吐息が、唇が、滑らかな肌を掠める。

時折、軽く歯を立てながら、その熱い舌が鎖骨から首筋にかけて、味わうように丹念に這わされる。

リュクレスは逃げることもできず、男に肌を許してただ、身を震わせるだけ。

ヴィルヘルムは、居竦む恋人の耳朶を名残惜しげに嬲り、音を立てて口づけを残してから。

身体を起こし、震える身体を逃がすことなく抱きしめた。

「私を疑って、避けた罰です。思い知ってください」

耳元の囁きに耐え切れず、リュクレスの膝がかくりと折れた。

二度としないでくださいねという言葉にただ、こくこくと頷いて。

立っていられなくなったリュクレスはヴィルヘルムに身体を預けるしかないのに。

彼は年上の余裕など失くし、その瞳に猛々しい光を浮かべて、追い詰めるように微笑んだ。

「逃がさないよ。君は俺のものだといっただろう?忘れないように、いつだって思い出せるように、所有印を付けておく。君が自覚するまで何度でも繰り返すから、覚悟しろ」





リュクレスを抱き上げたヴィルヘルムは、部屋に置かれたソファに向かった。そのまま彼女を抱いて腰を下ろすと、抵抗を忘れた身体を軽々と持ち上げ、男の大腿を跨ぐように向かい合わせに座らせる。捲れ上がったスカートの裾から覗く膝頭が、どこか艶かしい。

向かい合うその至近距離も、男を跨ぐ姿勢も、頭が沸騰しそうなくらいに恥ずかしくて逃げを打つ身体は、けれど逃がしてはもらえない。

だが、ここは離宮ではなく、彼の執務室でもなく、王宮の一室だ。

いつ、誰が入ってくるかもわからないのに。

「お願いですっ。お、下ろしてください」

「駄目です。これも君への罰だからね」

「重たいですよ?足が痺れちゃいます。それにこんなところ、ヴィルヘルム様見られたら…」

ここまで来ても、男の心配をしてしまうリュクレスの人の良さに、ヴィルヘルムは昏い感情を持ち続けることが出来なかった。

「軽い君程度で、どうにかなるほど鍛錬を怠ってはいませんよ。それに鍵なら掛けました。だから、少し話をしましょう」

「こ、このまま…?」

「そう、このまま」

居心地わるそうに、身動ぎするリュクレスの羞恥に顔を赤らめる姿が、太腿に伝わる温かさと柔らかさが、男の忍耐を試す。しかし、それを綺麗に隠してヴィルヘルムは笑った。

ベルンハルトの忠告通りだ。

仕事であれば冷静に判断できることでも、恋愛感情などというものが絡むと、冷静ではいられない。信頼とは別の問題で、こうまでも振り回されるのかと、しみじみと実感する。

「君を守るつもりで、結局不安にさせていたのなら、本末転倒だな。全部は話せない。それでも、これからは君にも話せることは話すようにしたいと思う。だから、どうか私を助けてくれますか?」

一方的に守ろうとするから失敗する。

リュクレスを信じていても、何も言わず避けられたことはヴィルヘルムの不安を煽った。

リュクレスも同じなのだ。

ヴィルヘルムの想いを信じていても、それでも不安に陥る。

人の心は目に見えず、形のない陽炎のようなもの。

移ろいやすく、揺らめき、想いすら霞のように消えてしまうことさえある。

反面、金剛石のように輝いて、消して砕けない強さも併せ持つ。

だからこそ、心がどちらを呈しているのか伝えることをしなければ、大切なものを見失ってしまうのだろう。

信頼に胡座をかいてばかりはいられない。

リュクレスは、じっとヴィルヘルムを見つめた。

言葉にされた信頼をリュクレスは確かに受け止めて、頷く。

「頼りにしています」

ヴィルヘルムがそう言って、リュクレスはようやく笑った。

嬉しそうなその顔が愛おしくて、ヴィルヘルムはその額に口付ける。

一緒に戦ってくれようとする恋人の伸ばした手を、しっかり掴んだ。

安堵は、男に良くない質を思い起こさせる。

「それにしても。私を振り回すなんて、君ほどの悪女はいないな」

彼はその美声で、意地悪に囁いた。

悪女という言葉に驚き、責められているのかとリュクレスの顔に申し訳なさが浮かぶ。目に見えて落ち込んだ少女に、ヴィルヘルムは少しだけ罪悪感を覚えて前言を撤回する。しかし、言い換えられた言葉も「嘘ですよ、君の場合は天然ですからね」という、なんとも微妙なものだった。

「あ、あの、逃げ出してごめんなさい」

おずおずとした謝罪に、

「まあ、男は逃げられると、追いたくなる生き物ですから」

どこか可笑しそうに、けれど諦観を含んで男は苦笑した。

「逃げるから、追うんですか?」

なんだかよくわからなくなって、リュクレスは困惑する。

逃げるべきなのか、それとも、逃げてはいけないと言われているのか。

リュクレスにはわからない。

男女の駆け引きなど彼女には縁のないものだ。恋すらも無縁だったのだ。

時には引いて、相手の気を引く女性は多い。が、リュクレスにそのつもりはない。

無意識だからこそ、尚更、質が悪い。思惑のない行動に嵌まり込む。

つい、悪女などと言ったものの、その言葉と最も対照的な存在であることはヴィルヘルム自身が誰よりもよくわかっている。

それでも、これほどに彼を振り回す存在は、彼女の他にいないから。

らしくないことをしていると思ってはいても、諦めるしかない。

まったくもって、恋とはなんと厄介で、素晴らしくも甘美な代物なのだろう。

「ずっと君に逃げられては、追い続けているでしょう?」

そうだろうか?とリュクレスは首をかしげる。でも、もしも、そうならば。

「…逃げなくなったら、もう追いかけてはもらえない…?」

それは、好きでいてもらえないということなのだろうか?不安になって、上目遣いに想い人を見上げる。

身長差故の上目遣いだとはわかっているが、この距離で。

そんな可愛らしい顔でそれをヴィルヘルムに聞いてしまうあたり、リュクレスには警戒が足りない。

それでも、その言葉は追いかけて欲しいという意味に違いなく。

男はその美貌を嬉しそうに蕩けさせた。

「追いかける必要がないでしょう?逃げずに君が、こうして私の腕の中にいるならば」

満足気に感嘆を漏らして、ヴィルヘルムは愛しい娘を抱き寄せる。

恋人の腕の中に囚われて、胸に身体を預けていたリュクレスは、ぽろりと何かを呟いた。

「ん?今なんと?」

耳聡い男は語尾だけを拾って尋ねる。

「な、何でもないですっ」

リュクレスは少し顔を赤らめて慌てて首を振った。だが、ヴィルヘルムは納得しない。

「おや、恋人に隠し事ですか?寂しいですね」

「ちがっ!…え、えっと…」

「では、続きをどうぞ?」

「お、怒らないで、くださいね?」

「おや、私の悪口だったのかな?」

おずおずとした恋人の様子に、人の悪い男は傷心のふりをする。

哀れな娘はこれで話すしかなくなった。

「そういう訳では…ただ…お腹いっぱいの、狼さんみたいだなって」

リュクレスが連想したのは、お腹が膨れて満足げに伏せる狼の姿。肉食獣は、空腹でなければ、人を襲うことはない。いつもの険しい冷たさでなく、喉を鳴らすかのような満足気な穏やかさに、里山の動物を思い出してそう言ったのだが、彼はその言葉に目を丸くした。

それから、ゆっくりと、その目に獲物を見つけた時の獰猛さが甦る。

(…あれ、よ、余計なこと言ったかな?)

男女の機微には疎くても、身の危険には敏感なのだ。

逃げ出しそうになるけれど、最初の話ではないが、逃げれば追われる。

なら、逃げなければ?

男の膝の上で、リュクレスは自分が追い詰められていることを自覚しつつ。

ふと、そんな言葉が頭を掠めた。

「逃げなければ、美味しくいただくだけですよ?」

逃げそびれたリュクレスは、蜜のようにとろりと甘い囁きを流し込まれ、綺麗な指先で再び頤を掴まれる。顔を上げさせられたと思った瞬間、目を閉じる前に食らいつくように口付けられた。


くらくらと、目眩に目を開けていられない。

顔が、身体が熱い。壊れそうなほど激しい鼓動が胸を叩く。

唇に合わさせる男のそれが、腰に回された不埒な手が、リュクレスを翻弄する。

舌を絡め、吐息すら飲み込もうとする、執拗な口付けに、もう。


…息が止まりそうだ。







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