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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
三部  黄色い薔薇の、花言葉
154/242

8




ヴィルヘルムの前から逃げ出してから、数日。


醜い嫉妬が恥ずかしくて、辛くて。あの女性を見つめるその笑顔を思い出しては、切なくなって苦しさに立ち止まる。

顔をまともに見られなくて、リュクレスは彼から逃げだしたままだった。

王城内のそれも王妃や王女の側いる今、少ない接触をわざと避けてしまえば、ヴィルヘルムとは当然、会う機会はなくなる。

それに安心するような、泣きそうになりそうな。

自分の愚かさに、会いたいと胸が軋む。

けれど、もし、彼があの美しい人を選んでいたら。

そう思うと怖くて、どんな顔をして会えばいいのかわからなくて、そんなジレンマの中で、日にちだけが無常にも過ぎて行く。


どことなく肩を落としたまま、リュクレスは王妃と王女のところを行ったり来たりしていた。何か言ったわけではないのに、最近はお使い事が多くなった。じっとしていると落ち込んでしまいそうになるリュクレスに気付いているのだろう。その理由にさえ。二人してヴィルヘルムへの使いだけは決して頼まないのだから、やはりリュクレスは隠し事には向いていないようだ。

口にされないふたりの気遣いが、情けないながらも今はとても有り難い。

王妃の部屋へ向かう通路は宮殿の最奥だけあって、人の行き来は少ない。

静かで広々とした廊下の天井を精霊たちが伸び伸びと空を舞う。その姿をぼんやりと目に映しながら歩いていたリュクレスがひとつの部屋の前を行き過ぎようとしたとき、唐突に扉が開いた。

開いた、と認識した時にはもう腕を取られ、部屋の中に引きずり込まれる。たたらすら踏ませず、強引に引き寄せられて、驚きに声もなく身を強ばらせたリュクレスは、無理矢理、上を向かされて目を見開いた。


見下ろしていたのは、ずっと会いたいと望んでいた人。

でも、一番会いたくなかった…人、だ。


「ヴィルヘルム、様…?」

呆然として、囁きのようなかすかな声が男の名を紡ぐ。

どこかが痛むかのように、男は一瞬だけ顔を歪め、直ぐに厳しい顔になった。

「何故避けるのです?」

「!」

前置きもなくかけられた言葉に、いつもの穏やかさはない。

目の前が真っ白になっていたリュクレスは、男の余裕のなさに全く気づかなかった。

気がつかれていた?

それだけで、血の気が引いていく。

男の隠そうともしないその語気の鋭さに、リュクレスは顔色をなくした。

否定が返らないことに皮肉気な笑みを浮かべ、ヴィルヘルムが閉じた扉に殊更ゆっくりと手を付く。

両側を男の腕に塞がれ、背中には扉の硬い感触。退路はない。

「気がつかないとでも、思っていましたか?」

久しく見なかった凍えそうなほど冷たい瞳。

その中にある正反対のどろりとした熱がリュクレスを焼き尽くさんばかりに支配する。

ヴィルヘルムが、目の前にいる。

怒らせてしまっているのに、彼の感情がリュクレスだけ向けられることにどこか安堵する自分と、そんな醜い独占欲に慄く心。

そして、その灰色の瞳に映る自分のその眼に宿るものを見つけてしまった瞬間、リュクレスは愕然として、両手で顔を覆って下を向いた。

「だ、だめですっ!」

悲鳴のような声が、静寂を壊した。

「…リュクレス?」

訝しむような、心配するような声が頭の上に落ちてくる。

「ごめんなさい。お願いです、見ないで…」


滑稽で、愚かで、醜い。


…恥ずかしくて、こんなに情けない姿を見せたくなかった。

弱々しく首を横に振り、向き合うことを拒絶して。

震える声で、その腕から逃れることを願ってしまう。

だが、冷酷な男はそれを許さず、力ずくでその手を外させた。

「目を開けなさい」

冷ややかな声音は、逆らうことを許さない。

震えが走り、身が竦んだ。


彼への恐れ?

否。

怖いのは、醜い己をその灰色の瞳に晒すこと。

呆れないで。

失望しないで。


「お願いだから…嫌いにならないで…っ」


怖々と怯えながら、彼を好きだという気持ちは湧水のように渇くことなく、心を満たして溢れんばかり。どうしようもない想いを抱えて、リュクレスは目をぎゅっと瞑ったまま祈るように懇願した。

驚いたように男が大きく目を瞠り、じっと下を向いて震える恋人を見下ろす。

彼を覆っていた怒りは消えて、ただ、やるせなさに息を漏らす。ヴィルヘルムは覆いかぶさるように、リュクレスの肩に額を押し付けた。

「君を嫌うことなんて有り得ない」

耳に届いた吐息のような声。

「また、閉じ込めようかと思ったんだ…君を手放すことなんて、もう、無理だ」

吐き出されるその言葉に、リュクレスははっとして目を開けた。

「…ごめんなさい」

呪縛から解かれたようにどっと押し寄せる後悔に、謝罪の言葉が口をついた。

伏せられた顔にその表情はうかがい知ることが出来ない。それでもその声音を聞けば彼を傷付けてしまったことはわかるから。

そろそろと手を伸ばし、肩口にあるそのさらりとした紺青の髪に、許しを求めるようにそっと触れる。


本当に、ごめんなさい。


言葉ではうまく伝えられない、音にならない謝罪が、掌を通じて男へと伝わるように。

ヴィルヘルムが大人だから、甘えてしまっていた。

もし逆の立場ならば。

突然避けられたりしたら、リュクレスはきっと悲しくて泣いてしまっただろう。ヴィルヘルムだって同じなのだ。理由も分からずに避けられたりしたら、傷つく。

「……何故、私から逃げたのか、教えてもらえませんか?どうして、嫌うなどと?」

静かな問いに、大きく息を吸って、リュクレスは覚悟を決めた。

…それでも、吐息さえ震えるのを止められない。戦慄く唇をゆっくりと開いた。

「逃げ出したかったのは、ヴィルヘルム様からじゃなくて…自分から、なんです。少し前に庭でとても綺麗な人と話していましたよね?…ヴィルヘルム様が、本当に愛おしそうに、大切そうにその人を見つめていたから…、怖くなったんです。ちゃんと話をしないといけないって思うのに、……その女性が大切だと言われるのが、怖くて…。…嫉妬して、自分勝手な思いばっかり膨らんでしまうそんな自分が情けなくて、心の中がぐちゃぐちゃになって、合わせる顔がなくて…」

違和感でも覚えたかのように、ヴィルヘルムが顔を上げた。

「…大切そうに女性を見つめていた?何のことです?」

リュクレスはどうしても、その名前を言い出せなかった。

本気で分からないようで、ヴィルヘルムは眉間に皺を寄せた。

「…結婚の約束をしていると、聞きました」

震える声は、そう言い加えるだけで精一杯だ。

とても和やかに楽しそうに話していたのに、本当に覚えていないのだろうか?あんなに愛おしそうな目を相手に向けていたのに。

…嫌だな。まだ、嫉妬している。情けない。

下を向いてしまおうとするリュクレスの頤に手を当て、ヴィルヘルムは不安に揺れる瞳を覗き込んで微笑んだ。

その目にリュクレスの恐れた失望の色はない。

「君でも、そんな顔をするのですね。安心しました」

「…安、心?」

「常から、醜いほどの執着を抱いているのは私のほうだ。君の中に少しでも、私への執着を感じられることが、素直に嬉しい。私ばかりでないことに安心します」

ヴィルヘルムは、リュクレスの頬を両手で挟み込む。

「その女性というのは、ルーウェリンナ様のことですね?私と彼女のことは噂で聞いた?」

リュクレスは小さく頷いた。

「それならば誤解です。…私は君に嘘も隠し事もするでしょう。ですが、君に不誠実であったことは初めから一度もない。それだけは信じてほしい」

珍しいほど揺らいだ視線を逃がすことなく、灰色の瞳は真っ直ぐにリュクレス捉えた。

言葉だけでなく、信じてとその瞳が語るから、ぎこちなく、リュクレスはもう一度頷く。

リュクレスだって、信じている。信じたいのだ。

それでも、慣れない恋愛感情は勝手に不安になって、暴走して、逃げ出そうとする。

喉の奥に固くて鋭いものが詰まったかのように、痛くて苦しい。

リュクレスにとって無縁だった感情を沢山与えてくれる恋情はひどく我儘だ。

その我儘に振り回されて、リュクレスはその場にへたり込んでしまう。

初めての恋は離宮という、隔離されたお互いだけしかいない場所で柔らかく暖かいだけの想いを育てることができた。

だから、王城に来て、ヴィルヘルムが他の女性に秋波を送られ、それを流すように微笑む姿にもやもやしたり、ルーウェリンナとの関係を聞いて身動きが取れなくなってしまった。

頼りないリュクレスの眼差しに、ヴィルヘルムは切なげに囁いた。

「私もそれなりに生きて来ていますから、君以外の女性との関わりを否定はできない。リンとも恋人であったことは事実です」

「リン…」

愛称で呼ぶほどに親密な関係であったことを、ヴィルヘルムは隠そうとはしなかった。

「ですが、それは過去のことだ。今はお互いに共犯者の様なものです」

「共犯者…ですか?」

「ええ。ともに結婚が面倒だったので、そのまま恋人であるとの誤解を解かなかったのです。彼女とは互いに似た者同士で、若かった私達は友人の延長で躰まで繋いだ。だが、愛というものを本当に理解することができたのは、君と出会い、君に恋をしたからだ」

「……」

「リンも私に恋していたわけではない。今にして思えば、お互いの距離を間違えたのですね。それでも、今は良き友人です。そして、それ以上では決してない。二股など断じてしていないよ。真実、私が望むのは君だけだ」

彼女との出会いから別れまで、ヴィルヘルムはルーウェリンナとの関係を赤裸々に告げた。伝えなかったのは彼女がヴィルヘルムに手を伸ばし、彼がその手を取った理由だけ。清純な彼女には耳を塞ぎたくなるようなものかもしれなかった。聞きたくない事を聞かせている自覚はある。それでも、同じことを、自分以外の口から聞いて、リュクレスに迷って欲しくはなかった。

昔、来るもの拒まずだった己を殴りたい。それでも、過去は変えられないから、今後の誤解だけは避けたかった。

「大切そうにリンを見ていた、という覚えはありませんが、そう見えて君を不安にさせたのなら謝ります。…ですが、私が愛するのは君だけです。私が隣に居たいと望むのも」

「ルーウェリンナ様は、あんなに素敵な人なのに…?」

おずおずとした言葉は、リュクレスの自己評価が低いことを知らしめる。

自分のいいところなんて、案外、己が一番わからないのかもしれない。

それでも、ヴィルヘルムは少しだけ腹を立てていた。

…いや、相当、だったのかもしれない。

これほどに愛を告げているのに、愛しい恋人は自分の良さを誰よりも理解していないのだ。

男の愛情が、容易く翻ると思ってしまうほどに。


狼は、喉を鳴らした。

…思い知ればいい。

どれほどに、自分が人を惹きつけ、魅了するのか。

どれほどに、ヴィルヘルムがリュクレスに溺れているのか。

小憎らしい恋人に、ヴィルヘルムは牙を剥いた。










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