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扉を開けたベルンハルトは、その部屋に充満する不穏な空気に、一瞬動きを止めた。
正面には執務机に座る将軍の姿があるだけで、室内にこれといって異常はない。
入室者に気付いているだろうに、顔を上げることもなく、時折カツカツと指で机を弾きながら、書類を淡々と目を通す姿は、いつもの冷静沈着な彼そのものだ。綺麗な姿勢でさらさらと書類にペンを走らせる何気ない行為さえ優雅で、戦場を離れると、軍人らしい荒っぽさととことん無縁の男である。
が、しかし。
(これは、吹雪のような荒れ具合だな)
彼の背後には凍えんばかりの暴風が吹き荒れていた。まさしく冬の嵐だ。
ベルンハルトは顔を顰めた。
「何か用か?」
入ってきてから一度も言葉を発しない部下に、ヴィルヘルムは書類から視線を離すことなく口を開いた。
ベルンハルトは諌めるように彼を見る。
「忠言をしに来たんだ。兵士達が、何事かと心配をしていた」
表情を出すようでいて、ヴィルヘルムのそれは計算されたものが多い。優しい穏やかさも、厳しい冷酷さも。必要があれば、始終無表情でも、笑顔でもいられる男だ。
大抵、彼が緊張感を纏わせるのは、その剣を抜く必要のあるときばかり。兵士たちが気にするのも無理はない。
だが、国内外ともに今、不穏な動きはない。兵を動かすような情勢ではないのだ。
そうであるならば、冬狼と言われる男の心を揺らすのはただひとり。
ペンを置き、ヴィルヘルムはようやく顔を上げた。椅子に身体を沈め、ゆっくりと息を吐く。個人的な感情に、部下を振り回している自覚はあるらしい。
「わかっている。だから、部屋に籠っているんだ。八つ当たりなんぞ、いくらなんでもする気はないからな」
「王城に上げて随分経つのに、今更独占欲か?」
ベルンハルトの予想は外れていなかったらしい。悪友の口から否定の言葉が返ってくることはなかった。
「…一度自分の手に取り戻すと、手放したくなくなる」
ドレイチェクでの時間が蜜のように甘く、あの手が届く距離が恋しい。
「わからんなぁ。王妃のところなら変な虫が付くこともない。どこよりも安全だろうが」
「王妃にすら渡したくないんだよ、俺は」
どんと鈍い音を立てて押し寄せる疲労感に、ベルンハルトは思わず呻いた。
それは…すました顔でいうことか?
「スナヴァールの王女が帰国するまで、なんだろう?我慢しろよ」
「我慢か。さて、できるかな。…何故だか避けられているようだし」
灰色の瞳には、どこか物騒な光がちらついている。
それに見て見ぬ振りができずに、ベルンハルトは疑いの眼差しを彼に向けた。
「何したんだ?」
「何も」
「何もしていなくて、避けるような子じゃないだろう」
それほど付き合いはないにしても、あの娘の性格はなんとなしに理解している。
「そうは言われても、な。考えられるとすれば…公女からの求婚の話が伝わったか」
「話していなかったのか?」
「どうせ受ける気はないんだ。余計なことを話して煩わせる必要もないだろう」
平然としていう男に、呆れてものが言えなくなる。彼の従者も言っていたが、自分を想う相手の気持ちというものを、この男は全く理解していない。
「そういうところは、お前の良くないところだな。逆に全てを隠されたとしてお前なら耐えられるのか?理由が分からず避けられただけで、こんなになってるのに」
「……」
ヴィルヘルムは返す言葉もなく、沈黙する。
こういうことは、俺は門外漢なんだがと、ぼそり零しながら、ベルンハルトは悪友に忠告をしてやった。
「夫婦になるんだろう?全てを話せとは言わない。だが、彼女を囲って何も知らせないことがいいとは思えない。手を取り合って生きていくのなら、彼女を信頼してもっと話をしてやらないと…お前の自己完結は、相手の存在意義を消してしまうぞ?何のために傍にいるのか、傍に居てもいいのかと、あの娘に疑問を抱かせてもいいのか?」
「お前といい、ソルといい…なんでそんなに女心に詳しいんだ」
苦虫を潰したかのような悪友に、ベルンハルトはげんなりと首を振ってみせた。
「お前が、気にしなさすぎたんだ。まったく、完全無欠みたいな男のくせして、惚れた女にはとことんダメ男とは…一体何の冗談だ。とりあえずは、そのイライラを彼女にぶつけてしまう前に適度に発散くらいしておけ。お前に相手にしてもらいたい若いのならいくらでもいる」
顎をしゃくって訓練場を示すベルンハルトに、ヴィルヘルムは珍しく乱暴に髪を掻き回し、立ち上がった。
確かにここで燻っているよりは、剣を振るって気を晴らしたほうが建設的のようだ。
剣を掴んだ手に思った以上に力が入る。
呆れるほどに、煮詰まっている自分を自覚して、ヴィルヘルムはため息を漏らした。




