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「お、お疲れ様です」
ぎゅうと力強い抱擁は、せっかく落ち着いた動揺をぶり返させた。彼にとってリュクレスは子供で、抱き枕のようなものだと理解してはいるものの、それでも、男性の温もりなど縁遠い生活をしていた彼女にとってこの接触はかなり高度なものだ。
ぎくしゃくと固まった少女をいつもの様に男は抱き上げると、寝台の上に座らせた。
手を伸ばし頭元の飾り紐を引く。天蓋から紗が下りて、外からの視界が遮断される。
まるで繭の中の様な寝台で、男はようやくフードを取った。
現れたのは紺青の髪、用意周到に仮面で目元を隠したヴィルヘルムだ。
「相変わらず抱き心地悪いですが、ちゃんと食べていますか?」
「た、食べてますっ。それに、3日程度でそんなに変わりませんっ」
「3ヶ月前から考えてもあんまり変わっていませんよ、君は。全く、料理人は腕のいいものを揃えているのだからもう少し、食べてもいいでしょうに。ソルから聞いています。猫よりも食事の量が少ないのでは太らせようがありませんと、ぼやいていましたよ」
あいつがぼやくなんて相当珍しいのですけどね。
そんなことを言われれば、リュクレスはしゅんとして下を向いた。
努力はしているつもりなのだけれど。一時無理をして食事をしていたら、酷く吐いてしまい、医者にかかる事態となってしまった。結局体重を増やすどころの話ではなくなって、それからは、ヴィルヘルムもソルも無理に量を増やすことはあきらめている。こうやってプレッシャーをかけることも良くないと医師から言われているから、ため息をつきながらも、ヴィルヘルムはリュクレスの形の良い頭を優しく撫でる。猫か何かになったかのようにも感じるが、その手は優しい。
「さて。どうしたら君は食事を美味しく食べてくれるのでしょうね?」
「美味しくですか…?料理はおいしいですよ?」
「そうですか?美味しそうに食べていないと聞きましたが」
この情報もソルからに違いない。彼は本当に良く見ている。
「えーっと。…一人の食事は味気なくて…。誰かと食べるだけで食事って美味しいじゃないですか。今までは大勢で食べてたから、一人で食べるのにまだ慣れないんです。アルバさんのご飯は本当にとってもおいしいんですよ?…だから、ちゃんと慣れます、大丈夫です!」
「なるほど、そういうことですか」
なんだか話がかみ合っていないような返事をもらって、顔を上げる。笑っているような、笑っていないようなヴィルヘルムの表情にきょとんとする。
「なんで怒ってるんですか?」
「…どうしてそう、君は人の感情読むのが上手いのでしょうね?」
「…さ、さあ?」
どうしよう…読んではいけない何かを読んでしまったようだ
リュクレスはぎこちない笑みでごまかす。
この3ヶ月、実際に王がここに来たこともあるが、ほとんどは王に扮したヴィルヘルムがやって来ている。王よりは細身だが、肩幅も上背もあるため着込んでしまえば体格は大して変わらない。姿勢もよく、元から歩き方は堂々としているから、王の行動を真似て歩けば、早々気が付かれることもないようだ。そうして部屋に籠り、適当に寝台を乱しておけばある程度信憑性はましていく。
ちなみに王はその間王妃の元へ隠れているから、夫婦の仲も一緒に育めて一石二鳥な計画になっている。
「…私が来るときには前もってソルに伝えておきます。一緒に食事をしましょう」
「いいんですか?」
驚いて見返した灰色の瞳は優しい色をして、リュクレスを覗き込む。その表情は、いつものように作ったものではなくて、とても穏やかで自然なものだった。
とても綺麗な容姿をした眼前の男の人が、なんの陰りもない笑顔を浮かべるとその破壊力は凄まじい。
時々からかったり、こちらの意思を量られたり、決して優しいばかりでない人なのに、時々見せる素の表情に、目が離せなくなる。
心臓がぎゅうと締め付けられて、自分のよくわからない感情を前に、リュクレスはいつも動揺し、立ち尽くしてしまう。
「それで君が丸々太って美味しそうになるなら全然かまいませんよ」
穏やかな口調で、少しおどけてみせるヴィルヘルムに、リュクレスは力なく笑った。
「…なんだか、本当に食べられてしまいそうですね」
へにゃりと笑うリュクレスにはこの会話の危険性などきっと理解できていないに違いない。相変わらず、無防備だなと、ヴィルヘルムは苦笑する。
本当のところを言えば、実際に「食べて」しまった方がいいのだ。
情交の跡のないシーツなどいつ囮がばれてもおかしくない。ソルがうまく片付けたり、事後の跡を捏造したりと、小細工をして凌いでいるが、それ自体不自然で危険なのだから。
数回そう思うこともあったが、結局ヴィルヘルムは躊躇った。
柔和な表情を浮かべる、この子供のような娘に、そういう意図を持って触れることも、彼女が泣くのも、見たくないとそう思ったのだ。
それはソルとも意見が一致して、今の状態に落ち着いているわけだが、その本人はと言えば。
無邪気に少しずつ信頼を寄せてくるから、時々わざと動揺させたくなる。
抱きしめて、耳元に睦言のような言葉を囁き、怯えたように逃げに転じるその身体を腕の中に封じる。
(男はみんな狼ですと、ちゃんと知っておいてくださいね?)
警戒心を抱かせたいと思う反面、自分へのこの信頼は少し甘い。
「まあ、余り大丈夫と我慢しない様に。君の大丈夫はあてにならないからな」
そう言って、外套や上着をベッドの頭元に脱ぎ捨てると、シャツ1枚の軽装になり、ベッドに転がった。片手で少女を招く。
多忙なヴィルヘルムは休憩の時間をあて、此処へ来ている。ここから出られない以上このまとまった時間で仮眠を取っているわけである。
気遣う言葉に少し嬉しそうに「はい」と返事をして、けれど、招かれるとリュクレスは躊躇いがちに、隣に潜り込む。
ヴィルヘルムは、その細く柔らかい身体に腕を回して、懐に抱き込んだ。
初めはパニックを起こしていたその抱擁も、それ以上は何もされないとわかったからか、今では、初めのうち緊張に身体を固くしているものの、少し落ち着くとその体温に緊張も不安も解けて、あっという間に夢の国へと旅立っていく。ヴィルヘルムもその呑気な寝顔に同じように意識を落とした。
眠りの浅い彼にとって、これほどあっさり眠りに落ちることは珍しい。
抱き心地が悪いなどと言いながら、この少女は安眠できる柔らかい存在だった。
欲しいものをそっと差し出されるような、押しつけのない思い。
言葉も行動も、欲しいものを与えてくれる。
彼女の傍は居心地がいいと、そう思いながら。
男はその感情から目をそらした。




