8
夜の静寂に紛れるようにして、ヴィルヘルムは寝室へと戻った。
古い割に建て付けの良い部屋の扉は、音もなく滑るように開く。
部屋の灯火はすでに消され、ぼんやりと室内を照らしているのは、暖炉の暖かな炎だった。
ゆらゆらと揺らめく灯りの中を足音もなく寝台に向かえば、居るはずの娘の姿はそこにない。
もう夜も更け、いつもであれば夢路を彷徨っている頃合なはずだ。
だが、寝台のシーツは綺麗に整えられたまま、彼女が横になった形跡は全くなかった。
眠れなかったのか、そう思うと一人にしてしまったことを後悔する。
くるりと部屋の中を見回した視線が彼女を捉えたのは、窓越しのバルコニーだ。線の細いその背中を見つめ、眉間に軽く皺を刻む。どうにも寒さに無頓着な娘は、何度か注意をした甲斐があって、ショールを使うようにはなったらしい。だが、夜空の下、白いものがちらつく冷たい外気にそれがどこまで役に立っているのかは甚だ疑問だ。男は大股で恋人のもとへ向かった。
少し軋んだ音をさせてバルコニーの扉が開き、その音に気がついたリュクレスは振り返ると肩越しに微笑んだ。その顔に暗い影はない。
「お疲れ様でした。お仕事のお話は終わりましたか?」
「ええ、先ほど。で、こんなとことで君は何をしているのかな?」
少しだけ角のある口調に、自分の行動が咎められていることを気がついていないはずもないだろうに、彼女はのんびりと嬉しそうに答えた。
「月夜なのに雪が降っているんです。ほら見てください。すごく、綺麗」
ふわりと浮かんだ表情は久しぶりに無邪気な笑顔。
不意に、行かないでと泣いた顔が重なる。
泣いてはいない、涙もない。その表情は穏やかですらあるのに。
その瞳は空に向かい、濃藍の夜を見つめていた。青白い月が明るく、藍緑の瞳を暗闇に沈ませることなくきらきらと煌かせた。
その横顔の穏やかさは雪が与えたものか、それとも。
吐く息が白くたゆたう。
月影に白華がぼんやりと輝きながら、緩やかに舞い降りる幻想のようなその情景。
儚く清浄な気配の中で、触れることを禁忌に感じさせるほどの清廉さを纏い、そこに佇む娘。
その瞳が追いかけるのは冬の精だ。
ヴィルヘルムはリュクレスの視線を奪う月下の白雪にさえ嫉妬を覚えた。
「ヴィルヘルム様?」
ゆっくりと空から流されて、ヴィルヘルムを捉えたその瞳にはほんのりと暖かい光が浮かぶ。返事のないヴィルヘルムの名を呼んでリュクレスから差し出されるその手に、ヴィルヘルムは無言で手を伸ばした。繋いだ手で、ひどく冷たい白い手を包み込む。
「いったいいつから外に居たのですか…こんなにも冷えて」
「あ、冷たいですか?」
手を離そうとするつれない恋人の、その手を強引に引いて腕の中へと引き寄せた。すっぽりと抱き込める細く小さな身体。
見上げる娘の頤に手を添えて、その瞳を覗き込む。
黒髪はまるで夜の帳のように肩を滑り、瞳は水鏡のように月を映した。
空に浮かぶ月よりも、そこにある光の愛おしさに。
男はただ、静かに娘を見つめた。
「月を手に入れたかったら、君を奪えばいいな」
「…?」
「君の瞳の中に月があるよ。とても、美しい」
慣れない賛美の言葉にうっすらと頬を染める娘が、甘露のように酷く、甘い。
「月も雪も確かに綺麗ですが、私にとっては君が何よりも魅力的です。その瞳も、その心根も、柔らかなこの身体も、全て」
惹かれてやまない、野の花の素朴な美しさ。
そして、彼女自身がヴィルヘルムにとって胸が痛むほど穏やかな原風景だ。
大切にしたいのに、手折りたい。
「君に触れていたい」
「ヴィルヘルム様」
「君の全てを暴いてしまいたい」
余りにも欲を帯びた直接的な言葉に、リュクレスは言葉を失う。その様子に苦笑を漏らして、安心させるように頤から手を離しその手の甲で頬を撫でる。
「…それが本音なのも事実なのだけれど。君が傍にいるだけで満たされるんだ。俺は、君と会うまで自分の心が乾いていると知らなかった。君が俺に、世界がこんなにも色鮮やかなのだと教えてくれたんだ。与えられ続けた心は君なしではいられない。君がいないと苦しい」
まだ清らかな少女に、赤裸々に男の欲望を晒しておいて、救いを求める。
この愚かさは恋ゆえに。
けれど、その愚かささえも柔らかく、年下の恋人は受け止めようとする。
「知っていますか?ヴィルヘルム様の瞳は、普段は灰色の落ち着いた色なのに月明かりの下では銀色に輝くんです。まるでヴィルヘルム様がお月様みたい。だから、月の下にいればヴィルヘルム様が傍にいてくれるようで安心する。…でも、月には手が届かないから。今こうやって、触れられる距離がとても嬉しい」
ヴィルヘルムの紺青の髪は夜闇に、月下に瞳の色は銀灰色に変化する。その彫像のように整った容姿、冷然とした雰囲気はまさに月の化身のようだ。
その姿にどこか敬虔な思いさえ浮かべながら、リュクレスは誓うように彼に応えた。
「我儘を貫き通すことを決めました。…ヴィルヘルム様が自分のことを省みないなら、私がヴィルヘルム様を守ります。危ないことしちゃ駄目だって言うなら、ヴィルヘルム様も、ちゃんと自分のことを大切にしてください。…危ないことをしないでとは言えないから、お願いです。どんな怪我をしようとも、どんな姿になろうとも。…生きて、帰ってきてください。できれば、本当は。…怪我もしないでくれると嬉しいです」
「……」
「じゃないと、私ヴィルヘルム様を助けに行っちゃいます。もう、我慢しません」
娘に出来ることなど些細なことだろう。だが、ただ、待つばかりではいないとリュクレスは決めたようだった。
まっすぐな眼差しは、あの時のまま。
『私は、王様にも幸せになってもらいたいです。だから、家族を壊すようなことに協力することは、出来ません』
…そうだ。
彼女は、剣を抜いたヴィルヘルムへの本気の殺気にさえ屈しない頑固者だった。
「…君がお転婆な、無茶をする子だと知っていなければ…言葉だけだと思えるのに。君は有言実行の人だから、言ったからには無茶するんだろうな」
苦笑というにはあまりに重いため息の後、ヴィルヘルムは折れた。仕方がなさそうな素振りを見せながら、その顔はどこか嬉しそうに見える。
「私に何かあれば君を連れて行くと約束した。できるなら、生きて幸せになりたいからね。ちゃんと自分の身もしっかり守ります」
ヴィルヘルムの力強い答えに、リュクレスは、はにかんで頷いた。
「はい」
花が咲いた。
ぽんと小さな音を立てて開花する花のように、微笑みが愛らしいかんばせを飾る。
それは、冷たいばかりのヴィルヘルムの心を、柔らかい思いで満たした。
守ると決めて立ち直る当たりリュクレスらしい。
当たり前にヴィルヘルムを守ろうとするリュクレスに、彼は娘の読んでいた童話を思い出した。
『どんなところに貴方が行こうとも、春になれば私は貴方のそばで咲きましょう。
どこに行っても私の姿があるように、たくさんたくさん種を飛ばしましょう。
貴方のために私は咲くのです』
寂しがりやの狼の心を守ろうとするあの花は、孤高の狼のさみしさが少しでも減らせるよう、遠くからでも狼が見つけられるように、黄色い色も鮮やかに草原に咲くのだろう。
そして、ふわりと優しい綿毛は、彼を慰め、空を舞うのだ。
戦場で共に戦う強さはなくとも、彼女がその強さで守るのは。
帰らなければいけないと思う、否、帰りたいと願うヴィルヘルムの心、だ。




