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「…あの人は……。私の…父は、今回の誘拐事件や人身売買に携わっていたんですね?」
「リュクレス」
「アリオの誘拐事件があったチェルニにあの人がいたこと、警戒厳重なスヴェライエに入ってこられたこと。ヴィルヘルム様が名無しの盗賊団の討伐で怪我を負ったことや受けた毒の種類を知っていたこと。私に掛かっていた賞金の話。あの屋敷の中の…感情を無くした人たち。彼は、ルウェリントン子爵のように人身売買を介して貴族と深い繋がりを持ち、それを利用して王城に入ってきたのではないですか?そして、盗賊団にヴィルヘルム様の命を狙わせた。…なら、怪物ってなんですか?彼も、カフェリナという国と関わっているんですか?」
チャリオットと、ソルは小さく息を飲んだ。
彼女の持っている情報は断片的でとても少ないものだったはずだ。
それでも組み立てられた推論は的を射ている。
思っていた以上にリュクレスは頭の回転が早い。
おっとりとしているように見えて、その実、彼女は非常に聡明だった。
奴隷、人身売買、そこにカフェリナとの繋がりを予測するあたり、彼女を誤魔化すことはなかなかに難しいのかもしれない。
「怪物というのは闇ギルドの首魁です。とても警戒心が強く、長く正体がしれない人物でした。奴隷商が彼の仕事の中心で、他にもいろいろ扱っていたようです。…仔細は脇に置いておきましょう。彼はカフェリナで活動していた。彼が多くの奴隷たちを国内に流入させ、巧みに暴動を先導した結果、カフェリナは崩壊を迎えた。国一つを滅ぼして彼は『カフェリナの怪物』と言われるようになった」
息すらすることを忘れたように、ヴィルヘルムの声を聞くリュクレスに、彼は一度言葉を切った。呼吸を促すように、掴んだ彼女の手を握る。
「君が誤解をしたのも無理はない。怪物は確かにあの屋敷の中にいた。だが、彼のことではありません」
「え…?」
「そこからは俺が話しましょう。貴女の母親のことを調べてきました。どうして娘にさえ父親のこと話さなかったのか。貴女もそれが不安だったんでしょう?」
話を引き継いで、ソルはリュクレスに尋ねた。真正面に座る褐色の肌の青年の優しげな眼差しに、リュクレスは素直に頷く。愛し合った人の道を外れた行いに耐えかねて、母はひとりでリュクレスを生んだのではないか。だが、母は死ぬまで彼を愛していた。
それなら、どうして、あの優しい母は彼の悪行を止めなかったのだろう。
母は逃げ出す人ではなかった。自分の身を顧みず、何があろうとも止めたと思う。そうしなかった理由があるとするならば。…考えられるのはお腹にいたリュクレスを守るため。
本当のところは分からない。答えてくれる母はもういない。それでも。
堂々巡りをするだけとわかっていても、……もしかしてと思うことは止められない。
「彼は確かに闇ギルドの商人です。ですが、怪物本人ではなく、彼に協力していたに過ぎません。そして、貴女の母親と知り合った頃にはただの駆け出しの商人だったそうです」
「商人?」
「そう。交渉で失敗して叩き出された彼を介抱し、医者に見せたというのが貴女のお母さんで、彼との出会いだったそうです。どこにも後暗いことなどなかったんですよ」
「…じゃあ、何故ふたりは離れてしまったんですか?誰にも…私にも父親のことを話してくれなかったのは、どうして?」
「貴女の母親の心を踏みにじったルウェリントン子爵のせいです。彼に乱暴されたのは、残念ながら事実でした。…貴女がお腹にいると知ったとき、彼女は医者にこう言ったそうです。どちらの子かわからないけれど、新しい命をそれでも大切にしたい。けれど、穢された自分を愛してくれた大切な人にこれ以上甘えたくはない、と。お互いが大切だったのに、どこか遠慮してしまった。自分の主人がルウェリントン子爵との望まぬ結婚生活を強いられている中で、自分だけが恋に落ち、幸せを感じてしまったことに対して罪悪感があったのかもしれません。だから、誰にも彼のことを告げず、彼女は彼の元から去った。ふたりのことを知っていたのは、彼を治療した医師だけでした」
「君の母親らしいと言えばらしいな。君たちは人のことばかり考えて、自分の幸せが誰かを幸せにすると気がついてくれない」
「ヴィルヘルム様…」
「君の母親を幸せに出来なかった彼は、ずっと、君の母親を忘れられなかったのでしょう。もし、彼女が自分の幸せを望み、彼の元を去っていなかったのならば、彼らの人生は変わっていたのかもしれない」
仮定の話ほど無意味のないものはない。変えられない過去をどうこう言いたいわけではないのだ。ヴィルヘルムが伝えたいのは、彼らは間違えたのだということ。
そして、ヴィルヘルムは間違えたくないのだということ。
「君に執着する俺と君の母に執着した彼、自分の幸せにどこか疎い君たち母娘はどこか似ているな。だが、同じじゃない。俺は絶対に君を手離したりはしない。だから、君も、何があっても離さないでくれ。俺の幸せを望んでくれるなら。君が俺の隣で、幸せでいてくれなければ意味がないんだ」
初めて想いを通わせた時と、彼の言葉は何ら変わらない。何度迷っても、ヴィルヘルムは言葉を惜しまず、リュクレスに根気強く訴え続ける。
すれ違ってしまった両親を思うと胸が痛い。大切な人だから迷惑をかけたくないという気持ちはとてもよくわかるのに、その結果をこうして見てみれば…その相手は幸せになんてなれていないのだ。第三者の位置だからこそよくわかる。
リュクレスを娘と呼んだあの人は、ちっとも幸せそうじゃなかった。あの金褐色の瞳には深い孤独が影を落としていた。
「商人として彼は闇に堕ちた。彼は光を見失ってしまったからかもしれません。…主も結構不器用な人なんですよ。だから、貴女の隣に居るその人を、どうか幸せにしてあげてください。こんなにも必死に口説いているんだから、そろそろ落ちてあげてもいいと思うんですけどね?」
片目を瞑り、少しだけ茶目っ気を覗かせたのは驚いたことにソルだった。
ソルを見て、それからヴィルヘルムを見つめる。
彼は真っ直ぐにリュクレスを見つめていた。視線が絡み合う。
幸せになろうと約束した。
特別なことなど必要なくて、ただ傍にいて隣で、泣いたり笑ったり。
望むことはたわいもない日常。
それに自分が手を伸ばしてもいいのかと、躊躇いはまだ心の中に残るけれど。
…その問い掛けをヴィルヘルムにするほどリュクレスは無神経にはなれなかった。
聞かなくても、その答えなら、ずっと彼のその手とともに目の前に差し出されている。
「君が壊れなかったのは、君の心が優しく柔らかだったからだ。鋭い痛みも傷つけようとする思いさえ柔らかく受け止める。だから、俺はいつも心配になる。そんな風に受け止めなくていいと言いたくなる。だが、それが君だと知っているから。変われとは言わない。受け止め過ぎて、その心が硬く凍えてしまわないように、穏やかに優しくあれるように、君の心を守らせて欲しい。…もう二度と一人で我慢させたりしたくない。」
ヴィルヘルムが重ねる懇願に、自分の想いを押し殺し続けることがとても難しい。
「守ってくれています。本当に、こんなにも大切にされていいのかと、戸惑うくらいに」
「戸惑わないでくれ。当たり前に受け止めて欲しい。君以外など要らないんだ」
執着を隠しもしないその眼差し、無意識に背中にゾクゾクとした震えが走るほど直情的なその光。欲しいものを欲しいと言い続ける男の、その我儘な感情にリュクレスはいつも救われる。
悲しげに笑った父。
この人に、あんな顔をさせたくない。
自分のこの我儘が、彼を幸せにするのなら。
リュクレスの幸せを自分の幸せだと言ってくれる人を、幸せにしたいと思った。
灰色の瞳に映る自分の姿に勇気をもらって、橙色の星降る空の下、伝えた言葉をもう一度口にする。
「ヴィルヘルム様、愛しています。…どうか、受け取って、もらえますか…?」
「当たり前だ…っ」
おずおずと、けれど真摯に届けたひたむきな恋慕の情に返されたのは。
乱暴なほど荒々しく力強い、抱擁だった。
お互いに、一緒にいなければ幸せになれないのだ。
どうせ悩むなら、どうすれば一緒にいられるかということを悩めばいい。
リュクレスはようやく躊躇いを捨てて、ヴィルヘルムを抱きしめた。




