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「お嬢さん!無事で良かったっ」
ばたーんっと扉を壊しそうな勢いで開く遠慮のない男といえば、やはりというか、なんというか。姿を現したのは笑顔の伝令騎士チャリオットだった。
嬉しそうに声を弾ませ、手を振る彼の相変わらず人懐っこい表情に、リュクレスも思わず笑みを返す。無警戒だった娘は、広げられた両手の意図を読み取れず、目の前に来た彼に強い力で抱きしめられた。
「ふえっ?!」
驚いて声を上げた瞬間、がつっと、とても痛い音がしてチャリオットの腕が緩み、足元に沈む。
「いって~~~っ!」
「自業自得だ。俺のリュクレスに触るな」
頭を抱えて座り込むチャリオットの後ろには威嚇するような笑顔で拳を握るヴィルヘルムの姿。唖然として立ち竦むリュクレスに、ヴィルヘルムが手を差し伸べて、チャリオットから離れるように導いた。
「大丈夫ですか?」
「あ、えっと…はい」
驚いただけだから、何も大丈夫でないことはないのだが、…それよりも。
リュクレスは、ヴィルヘルムの「俺の」発言にじわじわと顔を赤くした。
言った本人は気にした様子もなく、綺麗な顔で平然としたものだ。けれども、リュクレスは、誰かの前でこんなふうに所有欲を露わにされることが初めてだったから、とにかく恥ずかしい。…なのに、むず痒いような嬉しさがじわりと胸を温めて、隠しようもなく心が踊る。顔は熱いくらいなのに、心はほんのり暖かくて、頬の熱を冷ますように両手を当てれば、そんな行動にリュクレスの気持ちなど、ヴィルヘルムにはお見通しのようで、ゆるりと口角が引き上げられて弧を描くから、頭に血が上りすぎて眩暈がする。
「おーい、俺が居ること忘れないでね?」
「はっはいっ!」
チャリオットの情けないようなその声に、リュクレスは飛び上がるように背筋を伸ばした。
…すみません、ちょっとの間だけど、すっかり忘れてました。
まだ座り込んだまま、リュクレスを見上げるチャリオットに、心の中で謝罪する。
裏返った声とその表情に彼女の心情など一目瞭然だったのだろう。チャリオットは可笑しそうに笑った。
「お嬢さんはわかりやすくていいなぁ。将軍も見習ったら~?」
からかうように将軍を仰ぎ見る。すると彼は不愉快そうだった美貌に、ゆっくりと凄みのある笑みを浮かべた。
それはそれは、とても質の悪い微笑みで、付き合いの短くないチャリオットは非常に嫌な予感に襲われる。
これは。
……非常に、まずい。
そうは思えども、口から出た言葉はしっかりと記憶されてしまったようである。
「ほお。これ以上わかりやすくしてもいいのか?では遠慮をするのはやめておこう」
わざとらしいくらいの清々しさで将軍は頷いた。
「すみません、嘘です。遠慮してください。お願いします」
からかったつもりが、自分で自分の首を絞めたことに気がついて、チャリオットは将軍の悪意ある厚意を本気で辞退した。
が、しかし。そんな彼に味方はいなかった。
「いいです、貴方は邪険に扱われてください」
さらりとひどい言葉が、扉の方から重ねられる。
抑揚の少ない声音は冷たいようなのに、その声の主はとっても優しいのだ。リュクレスは驚いて顔を上げ、扉の前に立つ青年と目が合うと、瞳を輝かせて彼に向かってぱたぱたと駆け出した。
「ソル様!」
溢れ落ちるのは、蕾の綻ぶ花の笑顔。ソルの大切にしているリュクレスのそれ。
頼りない足取りで駆け寄るその身体を引き寄せると、本当に珍しくソルはリュクレスを優しく抱きとめた。
「無事で良かった」
そう言って、華奢な背中をぽんぽんと叩く。
ソルの腕の中はヴィルヘルムとは違う、ほっと安心できる微睡みのような暖かさ。
懐くようにリュクレスはその胸に擦り寄る。
少女の後ろで、
「あれはいいんですか?」
「…あれは兄妹のようなものだからね」
腕の中から走り出していってしまった恋人と従者の微笑ましいやり取りを、不本意そうな表情を隠しもせず、眉間に皺を刻んでしぶしぶ容認するヴィルヘルムと、納得のいかなそうなチャリオットとの不毛な会話など背を向けていたリュクレスは全く知らず。気が付いていながら、ソルは見て見ぬふりを決め込んだ。そんな大人たちに気がつくことなく、リュクレスは顔を上げた。
「よく頑張りましたね」
合わされた漆黒の瞳が穏やかに細められ、優しく頭を撫でられて、思わず目が潤む。
ソルのその労いの言葉は、リュクレスの行動も、その気持ちも全て肯定してくれるから。
リュクレスも素直に感謝の思いを口にすることが出来た。
「ルードさんがずっと傍にいてくれたって聞きました。ソル様ありがとう」
「…傍に居ますって約束破ることになってしまったから」
「そんなこと…。お仕事だったんだから気にしないでください」
曇った表情はそんな言葉では変わらなかった。
そうですか、なんて納得のできる性格ならきっと楽なのに、ソルは優しいから絶対そんな風に思えないに違いない。
(どうすればいいんだろう?)
しばらく悩んだ末、リュクレスはソルの手を取った。言葉だけでなくその接触で傍にいることを伝えるように、確かな温度を伝播する。
驚いたように声もなく黒曜石の目が見開かれるのに、まっすぐな視線を返した。
「ソル様、ほら私なら無事です。ちゃんと此処にいます。それは、ソル様やヴィルヘルム様、チャリオット様…皆さんのお陰なんですよ?だから、そんな顔しないでほしいです」
「どんな顔してます?」
「落ち込んだ顔してます」
「……貴女は…」
言葉を詰まらせたソルがもどかしげに続きを話し出すのを、リュクレスは静かに待った。
「辛い思いをしたのは、君でしょ?」
諦めたように弱々しく言葉を零した青年に、リュクレスはゆっくりと視線を落とした。
このもやもやとした気持ちを言葉に変換することはとても難しい。
それでも、大切なことを伝えるためには、言葉を惜しんではいけないのだ。
たどたどしくても、上手に話せなくても。
伝えようとすることだけは、諦めるべきじゃない。
「大切な人が居なくなるのは、とても辛い……あんな思い、絶対に慣れることも忘れることもできないって思います。失う可能性を考えることさえしたくない、怖いんです。今はまだ怖いばかりで、心配をかけてしまってるって知っていても。わかっていても、どうしようもなくて。ヴィルヘルム様の大丈夫って言葉を信じていないわけではないのに、怯えてしまう。…心は自分では自由にできないから。ソル様が悔やむ気持ちも、きっと同じ。自由にできない心、ですよね」
触れている手が震える。その手にソルがそっと手を重ねてくれたから、リュクレスはもう一度視線を上げた。
「それでも…何も失っていないんですよ。失わずに済んだんです。それを良かったと思って、今を大切にすることのほうが、怯え続けるより、悔いるより…ずっと大事だと思うんです」
「リュクレス…」
「だから、もう少しだけ時間をください。無理してじゃなく、ちゃんと笑えるから。ソル様もどうか、少しずつでいいから…」
「もう、いいです。…分かりましたから」
懸命に紡がれる言葉をソルは途中で遮った。基本的に表情をあまり見せない彼だが、たまに見せる感情はとても魅力的で。
今も苦笑気味だけれど浮かんでいるのは優しい笑顔。
言葉を遮ったのもその先を聞きたくないわけではなく、皆まで言うな、ということなのだろう。
残念ながらその表情はすぐに隠されてしまい、先程までの落ち込んだ様子もなく、ソルは平素の顔でしみじみとリュクレスを見た。
「俺が沈むと余計に貴女が落ち込むことだけはわかりました。…落ち込むのはやめて、代わりに徹底的に貴女を甘やかすことにします。そしたら、俺の罪悪感も軽くなるし、貴女もそんな泣きそうな顔をしなくて済むでしょう?だから、遠慮はしないでくださいね」
…それは開き直りというやつでしょうか?
ぽかんとした顔が可笑しかったのか、押し殺した声でソルが笑った。その憑き物が落ちたようなすっきりとした様子に、リュクレスはほっと肩の力を抜く。
ソルに言ったことは痩せ我慢ではなく、本当に思っていることだ。前を向く準備は出来ている。少しだけ弱虫な心が足踏みをしているだけなのだ。
こんなにも周りに恵まれて、大切にされて、いつまでも怖がっているなんて情けないから。
不意に金褐色の瞳の男を思い出した。辛い思いをする原因を作った人だが、恨むことはできない。あの最後の微笑みが、とても優しかったから。
あの人のことも、ちゃんと知らなければいけないと思う。
「どうしました?」
ソルの呼びかけに、リュクレスは少し遠くなった思考を引き戻した。
「あ、いえ、なんでもないんです。ソル様、まだ言ってませんでした」
「はい?」
「お帰りなさい」
「…ただ今帰りました」
少しずつ日常が戻ってくる感触に、リュクレスは安堵して表情を和らげた。




