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グランフェルトで一時的に身体を休めたヴィルヘルムは王城には戻らなかった。

今、リュクレスたちが滞在をしているのは、ドレイチェクの領都にある領主館、つまりはヴィルヘルムの屋敷である。実際のところは、ヴィルヘルム自身は殆ど不在のため、事実上館の主はジルヴェスターなのだが。

彼の瑠璃色の髪はヴィルヘルムのそれよりも明るく、瞳は青灰色。寡黙で泰然としたジルヴェスターは厳めしい印象で、ヴィルヘルムに彼が弟だと紹介された時、リュクレスは初め兄弟揃って軍人なのかと勘違いをしてしまったくらいだった。実は元学者で本の虫、荒事には無縁だと彼自身は言ってはいたが、ヴィルヘルムが苦笑していたからそんなこともないのだろう。

「王城には戻らないんですか?」

わざわざアズラエンを迂回し、ドレイチェクまで移動したのはどうしてなのか。

不思議に思って尋ねると、ヴィルヘルムは穏やかに答えた。

「今回のことで懲りましたから、少々細工をしてきたのですよ」

「懲りた…?」

よくわからなくて繰り返せば、彼が柔らかい笑みを見せる。

「仕掛けは上々、あとは仕上げを待つばかりです。それまで、君は私と待機ですよ」

詳しいことは話す気がないらしい。ただ、心配はいらないと彼の瞳がそう告げるから、リュクレスはそれを信じて頷いた。

「あのままグランフェルトで待機しても良かったのですが、面倒な男が出てきそうだったからね」

「面倒な人、ですか?」

「ええ、兄です」

「お兄さん?」

一度だけ聞いたことがある。彼の両親は既に他界しており、ヴィルヘルムは三人兄弟の次男だと。だが、兄弟仲まで語ることはなかった。

「…あまり、空気を読むことが出来ない人だからね」

少し意外だ。弟のジルヴェスターとはとても仲良さそうだったから、ヴィルヘルムの兄に対する言葉の温度差に少しだけ困惑する。

「仲が悪いわけではありませんよ。心配しないで」

彼は作った表情でなく、リュクレスに当たり前に見せるようになった穏やかな微笑みを向けた。


離れていた時間を取り戻すかのように、今まで以上にヴィルヘルムはリュクレスの傍に居てくれたから、今みたいに一人でいるのは久しぶりだ。

鈍色の空が降らせる雪が、羽のようにふうわりと風に踊る。

元から冷たい身体は、どうにも寒さに鈍感だ。

寂しい頃の癖のようなものかもしれない。

熱を奪う雪は、リュクレスにとって優しい冬の旅人だった。悲しさも孤独も、一緒に連れて行ってくれる気がするのだ。

そっと触れては、涙の代わりに溶け出して、リュクレスの頬を伝って流れ落ちる。

「泣いているのですか?」

…今、孤独を払拭してくれる逞しいこの腕は、いつだってリュクレスの寂しさをその温度で溶かしてしまうから。

リュクレスは静かに首を振った。

囚われた腕の中で、その温もりがとても大切で愛おしい。

「違うんです。あまりに綺麗だったから…懐かしかっただけなんです」

「懐かしい、ですか?」

持ってきたショールで包むようにリュクレスを後ろから抱きしめる男は、少しだけ身を屈めて恋人の顔を覗き込んだ。

「子供の頃、ひとりは寂しくて…でも、雪は誰の上にも平等に降り積もるから、なんだかひとりじゃない気がして慰められたんです」

そして、雪は、冬の代名詞。それは冬狼を思い起こさせる。

「真っ白な雪の中には、…どこかに冬狼様がいるような気がして」

「…私では不足ですか?まだ、寂しい?」

腕の中で向きを変え、リュクレスはヴィルヘルムに向かい合った。

眼鏡の硝子にはチラチラと雪が反射して写っているのに、灰色の瞳はリュクレスだけを写し取る。雪よりも冷たく、けれど触れたら火傷しそうな零下の輝きが、心を射抜く。

冬狼の異名を持つ男が柔らかく包み込むだけの優しい人でないと知っている。それでも。

その腕が、その唇が酷く熱をもって、娘の心も身体も蕩けさせるから。

伝えたい想い言葉にならず、はくはくと吐息だけが零れ落ち、湖水の瞳を潤ませた。

それがどんな風に映るのかなど気づかずに、男の心の琴線をかき乱す。

「…!君は…どこまで俺をのめり込ませるつもりだ」

精悍な顔を僅かに歪め、何かを耐えるようにヴィルヘルムはリュクレスを引き寄せた。

「…言葉は、苦手で。いつも、うまく伝えられないけど…ヴィルヘルム様が大好きで、もう、寂しくなんて、ないはずなのに。傍にいてくれるのに…どうしてかな?幸せなのに泣きそうになるんです」

ヴィルヘルムの胸元に顔を埋めて、ようやく言葉で伝えられる。

頭の上で漏らされた深い溜息は、どこかほっとしたような雰囲気を滲ませた。

「泣くのなら…私の腕の中にしてください。それなら構わない」

「泣き止むのに時間がかかっちゃうかもしれません」

「それこそ慣れています。私は君を泣かせてばかりいたからな」

「う、すみません…」

くすくすと、ヴィルヘルムが笑った。

「泣いていいよ。私を想って泣くのなら。…その涙はとても甘そうだ」

その眼が飴玉のように溶けて、甘い雫を落とすのを男は勿体無いとでも言うように唇で掬う。

ようやく笑えるようになったリュクレスは、けれどどこか不安定で脆弱だ。

彼女がいくら芯の強い娘であろうとも、罅の入った心は酷く脆い。

喪失の恐怖は、それほど容易く消えはしない。

その不安を隠そうと誤魔化して笑うことを、ヴィルヘルムは許さなかった。

まるで幼子の手を取り歩く親のように、いつでも手の先にいるリュクレスをヴィルヘルムは気にかける。

(我慢ぜず、泣けばいい)

最後に曇りなく笑えるならば、いつだってその涙を受け止めよう。

冷たい雪の中などに安らぎを求めなくてもいい。

「雪が全ての者に降り注ぐならば、私の想いは君にだけ注ぎ込むよ。だから、一緒に部屋に戻ってくれますか?」

願うような男の言葉に、「はい」と泣き声混じりの応えが返る。

その声は、ほっとするほどに、嬉しさを滲ませた柔らかいものだった。







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