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その日は朝から空一面、曇り空だった。


空向こうに広がった雲は複雑に色が混ざり合い、青灰色に変化して空と見紛うが、頭上にある重たげなそれは、太陽の在り処すら隠して、ただ時の流れを知らせるように、ゆったりと形を変えてゆく。

白と灰色の斑な雲の塊は寄る辺なく行き過ぎて、数時間もすればまるで違う姿を見せるに違いない。


カタリと、軽い音を立てて扉が開き、庭先に出てきたのはひとりの少女だった。

数日前からこの屋敷で世話になっている彼女は慣れない様子で周りを見渡す。

寒さはあまり気にしていないようだ。そして、何かに気づいたように天を仰いだ。

凍える空気に、吐き出した息が白くふわりと現れては空に溶ける。それを目で追う彼女の頬に、吐息を掠めるようにして白い雪片が舞い降りた。

泣き出しそうだった曇天の雲が、とうとう降らせることに決めたのは、雨ではなく、雪の結晶だったようだ。香らずの花は薄暗い世界を淡く白く染めながら、地面に落ちては染みだけ残して姿を消してゆく。


しんしんと音もなく、手のひらに、肩に、鼻の上に。

くすぐったいほど軽やかに落ちては体温を奪い、溶けては肌を濡らす。


空を見上げた藍緑の瞳が降ってくる綿雪を写して、受け止めるように両手は自然に前に差し出された。

音もなく雪は舞い、風はささやか過ぎて、葉音すら届けない。

頑迷で重厚な屋敷はどっしりとそこに建つのに、潔いほど装飾とは無縁の外装のせいか、その存在感は過度な主張をせずどこか寡黙だ。鳥も巣に戻ったのか、もとより閑静な屋敷の庭は、いつにもまして静けさを湛えている。


そんな空気を揺らし静寂に乗って彼女の耳に届いたのは、優柔なる笛の調べだった。


戯れる真白な雪よりもどこか心惹かれるその旋律に、きょろきょろと視線を彷徨わせ源を探す。低く刈り込まれた生垣の庭園を抜け、音色を手繰り寄せるようにゆっくりと歩いていくと、辿り着いたのは庭の端に建てられた小さな四阿だった。

そこに見つけたのは建物の柱に預けられた大きな背中。手には横笛を構えている。

後ろ姿に顔は見えなくとも瑠璃色の短い髪が、音色を奏でる主の正体を知らせていた。

領地不在の領主に成り代わり、ドレイチェクを管理する領主代理。

冬狼将軍の弟である彼の名はジルヴェスターと言う。

体格に見合った大きな手には銀色の横笛が小さく映る。その割に違和感もなく、しっくりと馴染んでいるは、慣れ親しんだ様子でそれを操るからだろう。

無骨に見えるその指先が奏でるのは伸びやかでとても繊細な音色。

巧みに紡がれる旋律は聴く者を魅了する。

無心に音を紡ぎ出す彼は聴衆に気がつかず、演奏は続けられる。

雪に吸収されて音は遠くまで届かない。雪のカーテンが視界を遮り、隔絶されたこの場所が、まるで秘めやかな演奏会の様相を呈して、少女は盗み聞きをしているような後ろめたさを感じてしまう。

それでも、優しく心地よい調べに心を奪われて、ひっそりとその場に立ち尽くし、流れるようなその旋律を止めてしまわぬよう息を潜める。吐息で空気を揺らすことさえも厭うように細く息を吐き、目を閉じて、ただ静かに美しい旋律に耳を傾けた。

曲が終わり、余韻を響かせ笛の音がなりやんでも。

耳に残る音色が心を揺さぶり、喝采の拍手さえするのも忘れて、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。

計ったかのような拍子で、演奏を終え立ち上がった男と目が合う。

彼は四阿から出ようとして、初めて彼女の存在に気が付いたようだ。

娘の黒髪は薄らと雪に飾られ、寒さと感動が頬を紅潮させていた。我知らずゆらゆらと水面のように光を乱反射する瞳。子供のようにわかりやすく感情を露わにするその姿に目を丸くして、奏者は小さな聴衆へと歩み寄った。

「聴いてたんですか」

「あ…あの、音色にひかれて…つい聞き入ってしまいました。勝手にごめんなさい」

「いや。手慰みに吹いていただけだから。大した腕ではないしな」

「そんなことないです。とっても素敵でした」

まるで、降雪さえその音色に惹かれて天から降るようだと。

なんの衒いもない賞賛の言葉に、気恥ずかしげに男は苦笑いをした。

「俺には過分な評価だが、ありがとう」

面映そうに頬を掻き、それから見上げる娘の髪や肩に積もる雪を手で払った。粉のような雪はふわりと簡単に払い落とせたが、その身体は冷たく、その髪はしっとり湿気を含む。

「外は冷える、屋敷に入ろう。君に風邪でも引かせては兄さんの過保護っぷりにますます拍車がかかりそうだ」

笑い混じりにそう屋敷の中に誘導する彼に向かい、少女はそこに佇んだままおずおずとお願いをする。

「もう少しだけ、ここにいては…駄目ですか?」


雪の中のこの静かな冷たい空気が嫌いではないから。

降り止みそうもない雪の中にもう少しだけ…と。


「…温かいものを準備してくる。その間だけなら」

「はい、ありがとうございます」

彼女の気まぐれをそう言って許し、彼、ジルヴェルターは屋敷の中に戻っていった。








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