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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
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ノックの音に次いで告げられた医者の来訪に、直様反応したのはリュクレスだった。動物のような耳があったなら、ぴこりと立ち上がっただろうわかりやすい反応に、ヴィルヘルムはふたりの時間を邪魔された忌々しさをこっそりと飲み込んだ。

距離を埋めていくような穏やかな会話はひどく心地よくて、もう少し微睡むように浸っていたかったというのが本音だ。けれど、ヴィルヘルムの身体を気遣うリュクレスの一途な眼差しを受け止めると、招き入れるしかないだろうと内心で溜息を付く。

自分で医者を呼べと言ったことは、あっさりと棚の上だ。

扉を開けて入ってきたのは、ヴィルヘルムにとっては幼い頃からの掛かり付け医。

白い髭と、白い髪。恰幅の良いふくよかな身体に少しくたびれた白衣を纏う彼は、年を経た温厚さを含んだ目でにっこりとリュクレスへ笑いかけた。それから、ヴィルヘルムにどこか面白がっているような風情で向かい合う。

医者嫌いのヴィルヘルムが、自分を呼んだことが可笑しいのだろう。

彼とてリュクレスのことがなければ、必要以上に医者に頼りたくはない。

が、しかし。愛しい娘はとても心配そうに男を見るから。

医者に見てもらうと言ってしまった手前、ヴィルヘルムは端的に自分の怪我のことを話した。ふむふむと聞いていた医者は、聴き終わると呆れるでもなく、苦笑しながら賞賛の言葉を口にした。

「相変わらず無茶をなさる。…まあ、しかし、愛する女性のためというところは買いましょう。合格点を差し上げましょうかな」

「…貴方に合格をもらうのは初めての気がするな」

ヴィルヘルムが意外そうな顔をすると、彼はにやりと笑った。その笑顔を、リュクレスはどこか見たことがあるような気もしたが、それよりもヴィルヘルムの身体が心配でそんな疑問はするりとどこかに消え去ってしまう。

傷の処置をされ新しい包帯を巻かれた腕を、はらはらと痛々しそうに見つめる、そんな彼女を安心させるように、医者は厚みのある手で優しく肩を叩いた。

「お嬢さん、そんなに心配せんでも、傷は浅い。この方は殺しても死なんよ。それより、あんたの顔色のほうが悪い。診たところ過労のようだ。ちゃんと横になって休みなさい」

「でも、ヴィルヘルム様まだ熱が下がっていないんです。私のは、…ただ単に病は気からに過ぎませんから」

昨日までベッドでの安静が必要だったのに、無理をしてここまでやってきたのだ。本当に休息を必要としているのはヴィルヘルムの方だ。

「病は気から?」

「…気持ちが負けちゃっただけだから。すぐよくなります。」

「もしかして、不安が過ぎて気分が悪くなったと思っているのですか?…だから、やたらと強情に大丈夫と言いはった?」

ヴィルヘルムが少しだけ眉間を寄せた。

「……すみません。心配ばかりかけて」

余りにも情けない事実に思わず、リュクレスは顔を伏せる。

「ははっ。お嬢さん、慣れない馬で半日も揺られれば、誰だって気分も悪くなる」

「それに、おそらくですが、あの屋敷で焚かれていた麻薬香の影響もあります」

「麻薬香?」

「夢幻香と言われる、吸い込む麻薬です。あの屋敷で甘い匂いがしていたでしょう?短い間とはいえ、吸い込んだ影響があってもおかしくはない」

そう、だからこそ、彼女のために医者を呼んだのだ。話の途中で、その影響は少ないと知ったが、それでもリュクレスには休息が必要だった。だが。

「で、でも、本当に大したことはないんです。私のことより、ヴィルヘルム様、ちゃんと休んでください」

こうなったら、頑なにリュクレスは自分の意志を曲げない。

それを分かっていて、ヴィルヘルムも折れる気はないのだ。

「ならば、一緒に寝ましょうか。そうしたら、君も休めるし、私も休める」

優しく言って、彼はポンポンと寝台を軽く叩く。にっこりと笑顔を浮かべるから、リュクレスは動揺して椅子から僅かに腰を浮かせた。

笑っていないのだ、目が。

冷たい灰色の瞳が、炎のような熱さを揺らめかせる。

「ヴィ、ヴィルヘルム様は、ベッドで寝てください。私なら、あの、ソファでも、ぜ、全然寝られますから」

「おや、私が君をそんなところに寝かせると本当に思っています?」

「あ、う…」

ゆっくりと細められたその目に、リュクレスは言うべき言葉を見失う。

「婚約者とは言え、未婚の女性を同じベッドに引きずり込もうとしている時点で紳士として失格ですよ」

「失格で結構」

しれっとして医者に返す男は、そうして、リュクレスから目を離さない。

熱の籠る視線に怖気付く感情と想い人を案じる思いに藍緑の瞳が揺れる。

「…ヴィルヘルム様、本当に休んでくれますか?」

優しい娘の天秤は、予想通り、彼の身体を配慮する方に傾いた。

おずおずと躊躇いながらも男の我儘を許す彼女に、ずるい大人は綺麗な笑みを向けた。

「もちろん」

「ちゃんと、休めますか…?」

心配するその声に、男の笑みは一層深まる。

「君が傍にいる方がよく休める。知っているでしょう?」

「…そうやって丸め込むのは感心せんがね」

「わかっているよ。反省はしないけれどね」

「せっかくの合格を取り消したほうがいいかな」

呆れ顔の医者に、ヴィルヘルムはふっと笑った。

「そう言えば、今回はヤンにも助けられた。礼を言う」

「愚息が役に立てたのであればようございました」

「…フェロー先生のお父様?」

「おや、お嬢さんも息子を知っているのですか。ええ、ヤンの父親ですな。そうそう、私もフェロー先生ですよ?」

「あ、そうか。すみません」

どこかで見たことがあると思ったのは、ヤンの笑い方によく似ていたからだ。まじまじと見つめていると、フェローはにっこりと毒のない笑みを浮かべた。ニヒルな笑みを浮かべるヤンとは全く違う表情なのに、印象が似ているのはやはり親子だからなのだろう。

ヴィルヘルムに向かってやれやれと肩をすくめながら、けれど医者は仕様がないと言わんがばかりに二人を見た。…どことなく可笑しそうな笑みが覗く、その顔はとても優しい。

「まあ、お二人共お互いに傍にいないと不安なようですから、今日は一緒におやすみなさい。ただし、ヴィルヘルム様。過度な運動は当然禁止ですからな」

「大丈夫です。ちゃんと安静にしてもらいますから」

真面目に答えるリュクレスに、二人の男は苦笑した。

これでは、狼も手の出しようがないだろう。

揶揄する医師でさえ、娘の男へ対する気遣いは余りにも純粋すぎて、自分が下世話だったと反省するばかりだ。

微笑ましい二人様子に、医師は薬渡すと安静を指示して、早々に撤収していった。



「君とこうやって眠るのはやっぱりいいな。」

抱きしめるその腕がまだ熱い。

ふと笑う男の熱を逃すように、リュクレスはヴィルヘルムの首筋に手をやった。

「君の手は相変わらず冷たいですね」

気持ち良さそうに目を細める男の役に立ちたいのに、小さな手はあっという間にヴィルヘルムの温度に馴染んでしまう。

せめて冷やすものでも準備しようにも、腕の中から抜け出すことを彼が許さない。

リュクレスは諦めて、ヴィルヘルムの腕の中で大人しくなった。

「ちゃんと、休めそうですか?」

「もちろん。君は?眠れそうですか?」

「私が眠っても、どこにも行かないですよね…?」

不安を滲ませる声に、その表情に、ヴィルヘルムは柔らかに微笑んだ。

額を寄せ、こつりと、お互いのそれを触れ合わせる。

「約束したでしょう?どこにも行きません。だから、君も。…どこにも行かないでくださいね?」

「…はい」

額を離し、至近距離でヴィルヘルムは自分の首筋に触れる可愛らしい手を取る。手を繋ぎ合ってようやく安心したように、リュクレスは目を閉じた。その額に今度は口づけを落として。

おやすみと囁く、低い声。

ゆっくりと、リュクレスは眠りの中に落ちてゆく。純粋な信頼を寄せる彼女への愛おしさに、繋ぎあった手と逆の腕で彼女を抱き寄せて、ヴィルヘルムも安堵感に任せて意識を手放した。

まだ夕暮れの明るさの中で眠りに落ち、驚くことにヴィルヘルでさえ翌朝、朝日が昇るまで、全く目を覚ますことはなく。

起き抜けの寝ぼけたようなリュクレスの解けた笑顔に、ヴィルヘルムが感極まって痛いほどに彼女を抱きしめたのは、早朝の寝台の中のことだった。







「夜の帳と水鏡」終了です。

題名が示すのは、そのままリュクレスの両親のことでした。

次章、後日談です。

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