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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
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36



半日馬を走らせて目的地に到着した頃には、ヴィルヘルムの腕の中でリュクレスの顔色は蒼白になっていた。

「気分が悪いなら悪いと…」

そう言いかけて、言えるような精神状態でなかったことを思い出す。ヴィルヘルムは、リュクレスを馬から降ろすと彼女を横抱きにして屋敷の中に入った。

「お久しぶりでございます。ヴィルヘルム様」

扉を開けて、綺麗な礼で出迎えたのはこの屋敷の使用人だ。ヴィルヘルムが行き先に定め辿り着いたこの屋敷は、グランフェルト領のオルヴィスタム家の別宅であり、両親をなくしてから彼が弟とともに住んでいた屋敷でもある。

「突然で済まない。部屋を使わせてくれ」

「貴方のお部屋でしたらそのままにしてありますが」

「そこでいい。冷たい水と…それから医者を頼む。この子の具合が悪い」

侍女姿の娘を腕に抱く男に意外そうな顔をして、だが無用の詮索をすることなく使用人は頷いた。

「手配いたします」

慣れた動きで、ヴィルヘルムの部屋だった扉を開け、一礼すると扉を閉めて去っていく。

昔から気の利く男だ。後の必要なものは言わなくても準備しておいてくれるだろう。

寝台へリュクレスを横たえると、彼女は身体を起こそうとした。

「無理をしなくていい。寝ていなさい」

「い、やです」

その言葉にヴィルヘルムは少し驚く。遠慮ならともかく、リュクレスが拒否することはとても珍しい。

「休むなら、ヴィルヘルム様です。…私は、迷惑かけただけなのに。…ちゃんとお話も、ごめんなさいも言ってない、のに」

いつにもまして頑ななのは、ヴィルヘルムに無理をさせているという気持ちからなのか。いや、それだけではない。感情の不安定さ、時折焦点のぶれる視線に、思いつくのはあの屋敷に漂っていた匂い。あれは一種の麻薬だ。

短時間であっても、慣れない身体には影響が出てもおかしくはない。長時間の乗馬が重なって気分も悪くなったのだろう。

急展開する状況に、リュクレスの心がついてきていない事は見ればわかる。哀しい思いや辛い思いを抱え、さらに罪悪感に心を塞がれて、その重たさに、今にも潰れそうに男の目には映る。

寄りかかることのできないその不器用さが愛おしいながらも、どうにも焦れったい。


いっそ無理にでも腕を引きこの腕に抱いてしまおうか。


だが、彼女の中の罪悪感を消し去らなければ、あの曇りのない笑顔を見ることができないから。

ヴィルヘルムはリュクレスの手を取って、優しく握り締めた。

「私も、君とちゃんと話したい。だからお互いに身体を休めて、それから話をしよう。医者に来てもらう。私も見てもらうから、君もちゃんと見てもらうこと。いいね?」

話をしたいというのに、話をすることをどこか怯える娘は、悄然として頷いた。

(君を手放すなんてこと、絶対ないのに…無駄なことを考える)

リュクレスは父親の罪に、決別を脳裏に描きながらもそれを口に出したくないのだ。

傍に居たいと願った想いは決して彼女の中から消えてはいない。

…そう、リュクレスの想いは変わらない。

一途にヴィルヘルムを想い、想うが故に、自分の想いを押し殺して、彼女はヴィルヘルムの元から去ろうとするのだ。


守ると決めた。

身体も心も、全て。

ならば、彼女が守ろうとしてくれたように、今度はヴィルヘルムが支える番だ。


後で、と言ったのに。

沈黙はリュクレスに余計なことを考える余裕を与えてしまったようだった。

「ヴィルヘルム様、ごめんなさい。私が傍にいたから…。私のお父さんが、ヴィルヘルム様を殺そうとしたんですね。…私」

むくむくと膨らんだ悲しさに、彼女の口から謝罪がこぼれた。謝罪だけならヴィルヘルムも受け取ろう。だが。

「傍に居られない、なんてこと、言わないですよね?」

「……っ」

寝台の端に片膝をつき、ヴィルヘルムは言葉を遮るようにリュクレスに囁いた。

「その言葉だけは聞かない。逃げようとするなら、ここで強引に俺のものにする。泣こうが叫ぼうが、嫌がろうが構わない。今ここで君の全てを奪おう。あの男のように、君を縛り付ける。…俺を、そんな卑劣な男にさせないでくれ」

戦慄く身体を両腕に囲い、その柔らかな暖かさに息をつく。

この愛おしい存在を手放すことなど、何があろうと出来はしない。

別れの言葉など、胸を引き裂く凶器でしかない。

それはお互いを傷つけるだけだ。

「あの男の罪はあの男のものであって、君のものじゃない。君に罪があるとすれば、忘れろなんてひどい書置きを残して、私の傍を離れたことだけだ」

そう言いながらも、どこか遠慮があるのは、守るつもりが、リュクレスの心を砕くところだったと知っているからだ。ヴィルヘルムには彼女の行為は責められない。

自分の目を抉ろうとするほどに、追い詰めてしまったのだ。

顔色の悪い娘が、男の触れる手に震え、悲しげに翳を落とすのを見てしまえば、悪戯に触れることさえためらいを生む。

だが、リュクレスも離れたくないのだ。

離れなければいけないと思いながらもそれを言葉にできない。そんな葛藤が、彼女から笑顔を奪う。共に居たいと望む娘の想いを免罪符に、ヴィルヘルムは寝台の上に腰を下ろし、リュクレスの頭をそっと撫でた。


「君は私の傍にいて笑っていてくれただけだよ?」

「…」

「君は私を幸せにしてくれただけだ」

「……」

ぽつり、ぽつりと落とされる言葉にリュクレスの睫毛が揺れる。

「私が怪我をして君は心配をしてくれた。私を守ろうと、あの男の元に行ったことも知っている。…だから、君が私のそばにいてはいけない理由なんて、どこにもないんだ」

「…で、も」

「私だって君の想いを無視して勝手に助けに来ただけだ。君が離れたくないと望んでくれたように、俺だって離れたくない」

びくりと、リュクレスの肩が揺れた。円な眼がゆっくりと見開かれる。

「ヴィ、ルヘルム、様…き、いて、いたの…?」

眠っているヴィルヘルムにこぼした彼女の本音。

彼は切なさを滲ませて、リュクレスを見つめた。

「…狡い男だと、知っているでしょう?君の隠し事を知りたかった。あんな言葉を聞いて、忘れられるはずがない。手放せるわけないだろう」

ヴィルヘルムは両手でリュクレスの頬を包み込み、揺れる瞳を覗き込んだ。

「謝るならば、俺のほうだ。君が大切な人を失ったことがあると知っていたはずなのに…すまなかった。こんなふうに辛い思いをさせるつもりはなかったんだ」

お前だけは倒れてはいけなかったんだと、ヤンに言われてどれほどに後悔したことか。軍人としてヴィルヘルムが、今後も戦場に立つことをリュクレスは覚悟している。だが、万が一、ヴィルヘルムに何かあった場合、それが彼女を壊すことになると、ヴィルヘルムは思ってもみなかった。

壊れてしまうならば、己の執着のまま、望むことを告げても良いだろうか。

そこまでの執着が果たして愛と呼べるのか、ヴィルヘルムにもわからない。

それでも、自分が居ない世界で、ひとりで静かに壊れてしまうくらいならば。

灰色の瞳に強い光が宿る。

ヴィルヘルムはこの身勝手な望みを言葉にすることを、躊躇わない。

「もう二度とこんな思いはさせない。万が一俺に何かあった場合…君も連れて行く。許してくれるか?」

そう請えば、リュクレスは大きな眼をさらに大きく見開いた。零れてしまいそうだと思いながら見つめれば、娘はひどく、ゆっくりと。

…今にも泣きそうな顔で微笑んだ。

儚く綺麗なその笑みは、余りにも切なく。

繊細な硝子細工のようなそれに、ヴィルヘルムは息を飲んだ。胸を襲う引きちぎられるような痛みにこらえきれず、リュクレスを強く抱きしめる。

泣かれるよりも、その笑みはヴィルヘルムの胸を抉った。

こんな姿を見てしまえば、置いていくことなど絶対に出来はしない。

守ると約束したならば、自分の命も精一杯守らなければならなかったのだ。

「…っ!」

嗚咽を堪えるように息を飲み、娘がぎゅっとしがみついた。

「ヴィルヘルム様…傍にいて。もう、おいていかないで…っ」

震える手が、悲鳴のような懇願が、切実な響きを持ってヴィルヘルムの鼓膜を揺らす。

初めてだと、男は気づく。

そばにいたいと望んでも、そばにいて欲しいと望むことをどこか遠慮していた娘が、初めてヴィルヘルムに傍にいて欲しいと願ってくれた。

二世よりも何よりも。

リュクレスが望むのは、ともに笑い、泣き、悩み、話し、慈しみ合える明日なのだ。

その明日がずっと続いて未来になる。

そんな当たり前のことを、彼女は理解して、とても大切にしてくれていたのだ。

華奢な身体を、もう離すまいとするように、ヴィルヘルムはきつく抱きしめる。

「…傍にいる。明日も明後日も、君と人生を歩もう。俺を見送らせたりはしない」

こくりと頷く娘は、はらはらと涙を流して、頬を濡らす。

「…ごはん、一緒に食べたいです」

まるで子供同士の約束のようなそれに、どれほどの想いが含まれているかなど二人にだけがわかっていればそれでいい。

笑ってくれと心から願う。

「いいですね。…君が食べさせて?」

「…?」

「夏のあの日のように」

強い陽射し、川のほとりの鮮やかな美しさが甦る。木苺の甘酸っぱささえも、鮮明に。

そうやって、今までの距離を思い出すように、ふたりは静かに身を寄せ合って、ぽつりぽつりとささやかな約束を交わし合う。


それは、ノックの音に遮られるまで、秘めやかに続けられた。







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