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「ここからなら、グランフェルトの領地の方が近いか」
ヴィルヘルムは少し考え込んだ様子を見せた後、行き先を決めたらしく、安心させるようにリュクレスに微笑んでから手を伸ばした。軽々と身体を抱き上げ、馬の背に乗せる。
馬上の高くなった視界で、ヴィルヘルムの視線を追うように、少女は屋敷の2階の窓を見上げた。
窓辺に人影はない。
屋敷の中に居るはずの、リュクレスを娘と呼んだ男は、今何を思うのだろう。
姿の見えない男を思い浮かべ、その姿を探すようにリュクレスは視線を泳がせる。
どこを探そうとも、彼は窓辺に姿を見せはしなかった。
一抹の寂しさが、胸に去来する。
もっと、ちゃんと、話をしてみたかった。
彼がどんな人だったのか、リュクレスは全く知らないから。
彼のことも、母のことも、もっと聞きたかった。
ふたりがどんな出会いをして、共にどんな時間を過ごし、そして、リュクレスを授かったのか。
…お互い想い合っていたのに、どうして一緒に居られなかったのか。
聞きたいことは、たくさんあった。本当に、たくさん。
けれど。
その機会は決して訪れないだろう。
きっと、彼は二度とリュクレスの前には姿を現さない。
…彼の言葉は、別れの挨拶に他ならなかったから。
リュクレスがヴィルヘルムに視線を戻すと、彼は軽快な動きで馬に乗り、彼女の身体と共に手綱を引き寄せた。
「ヴィルヘルム様。怪物って、一体なんのことですか?」
「…どこでその名を?」
ヴィルヘルムの声が、本当に少しだけ、硬くなる。
「あの人が…こんな所に怪物がいるとは思わないと」
遠慮がちに答えるリュクレスに、彼は納得したように「なるほど」と小さく呟いたが、その答えを返すことはしなかった。
「そうですか。…その話はいずれ、また。まずは、ここを離れます。休めるところへ向かいましょう」
代わりに返された言葉にヴィルヘルムの気遣いを感じて、リュクレスは声を詰まらせる。
「…でも…、あの…」
彼が、謝罪を求めていないのはわかっている。それに甘えてばかりいたくないと思っているのに。リュクレスは謝罪を口にしようとして、怖気付く。物言いたげなリュクレスに気がついていないはずはない彼が、しかし、言いかけた言葉を静かな声音で遮り、言わせまいとするから。リュクレスはどこかほっとして口を閉ざした。
背中にヴィルヘルムの温度を感じることに安堵しながら、反面、落ち込む気持ちに歯止めをかけることができない。
(何をしているんだろう…ヴィルヘルム様に、迷惑をかけただけ、だなんて)
黒髪のあの男の人の言葉が真実であったのなら、ヴィルヘルムを殺そうとしたのはリュクレスの父親なのだ。
傍になんて、居てはいけなかったのかもしれない。
こんなふうに守られてなんて、いてはいけないのかもしれない。
…それなのに、離れたく、ない。
やっぱり、傍にいたいと、願ってしまう。
「余計なことは考えないで、ただ景色でも見ていなさい」
ぐいっと、身体が引き寄せられた。それでなくても馬上である。密着する身体をさらに引き寄せられて、隙間などどこにもないくらいの近い距離。馬の揺れと落ち込む思考に気を取られていたが、ヴィルヘルムの吐息と心音に気づいてしまえば、気持ちは一気にそちらに向かってしまう。右手で手綱を引いて、左手は逃がさないとでも言うように、リュクレスのお腹に回されたまま。寒さをあまり感じなかったのは、ヴィルヘルムの外套に包まれて、リュクレスはすっぽりと風から守られていたからだ。
ヴィルヘルムの愛馬は白い息を弾ませて、颯爽と駆ける。
空は厚い雲に覆われ、白と灰色が重なり合って濃淡の陰影を作り、僅かに薄くなった雲のカーテンの向こうが少しだけ明るかった。
灰色の空と丘の流線に向かって伸びる白い道。先が見えない、それだけでどこか不安になる。まるで、自分のことみたいだ。
リュクレスはぐったりとして目を閉じた。考えることも、悲しむことも、…色々とありすぎて、出来もしないのに、投げ出してしまいたい気持ちになる。
…気持ちが悪い。
冷や汗がうっすらと、額に浮かぶ。長い乗馬に、慣れない身体中がどことなく痛んだ。
顔から血の気が引いていくのがわかる。冷たくなっていく手のひらに、リュクレスは自嘲した。
(なんて弱い心だろう)
ヴィルヘルムに拒絶されることが怖くて、身体が先に弱ってる。こんな姿見たら、ヴィルヘルムは怒ることすらできなくなってしまうのに。
(本当にずるいなぁ)
冷たい空気を吸って、吐いて。目を開けば、目眩が襲う。
ヴィルヘルムの言うように景色を見ていることすらできなくて、リュクレスは瞼を閉じると背中を彼に預けた。




