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隠し扉の奥を降りた先にある地下の部屋は暗く、明かり取りの小さな小窓が高い位置にあるだけの閉鎖的な部屋だった。
長閑な田園に屋敷を構えた元の持ち主も壊れた人物だったのだろう。買い取った直後には、この地下には誰かが監禁されていた跡が生々しく残っていた。怪物には相応しい居城だと、男はうっすらと笑みを刷く。
甘く饐えた臭いは夢幻香だ。
濃厚な芳香が漂い、燭台から白い煙を燻らせていた。
長時間吸っていていれば人格を崩壊させる夢幻香の毒も、男には身体に馴染みすぎて、もう何の影響も与えない。
狂える父の余りにも激しい憎悪に、その興奮を鎮めようと使いだした麻薬だったが、夢幻香を持ってしても、その狂気は完全には鎮めることができないでいた。
それでも、咽るような香りは思考を散漫にし、僅かばかりに身を焼く憎しみから遠ざける。
ぼんやりと、そこに座る老人が怪物と言われる首魁だと、誰が思う?
枯れ木のような身体に、しかし、光が宿れば一国の主であった男は人の心を巧みに操る。
商才と財力、そして人心を操る力。
国を滅ぼすほどの、影響力。
それを恐ろしいとも、醜悪だとも男は思わなかった。
だが、存在するべきではないのだろう。
「父上」
「どうした、ヴィスタリオ」
父親は警戒を抱くことなく、歩み寄る息子の名を呼んだ。不自由になってきた身体を椅子に沈み込ませたまま、その顔をゆっくりと上げる。白濁した眼球はどこか焦点が合わず、漆黒だった髪は、今はもう艶のない白髪だ。容易く折れてしまいそうなほど細く衰弱した身体は、その生命力さえも憎しみに替えて使ってしまっているかのようだった。
ゆったりと距離を縮めた男は、腰に帯剣した短剣を引き抜くと、流れるような動作で父の肩を引き、上半身を起こした背にその刃を突き立てる。
「!…何を」
驚愕に目を見開く父親を、男は静かに、悲痛な眼差しで見下ろした。
「我々が居なくなれば、組織は上手く稼働しますまい。浮き足立つ組織を、オルフェルノの将軍は見過ごしはしないでしょうから。…これで、この汚泥のような存在は消え去る」
「…汚泥、だと」
「ええ、腐った腐肉のような組織だ。肉を削ぎ落として憎悪と、悲哀しか生み出さない。
貴方だとてこれが美しいものでないと知っているはずだ。裏切りへの復讐にしてはいささか無関係の人々を巻き込み過ぎた。そして、余りにも人の笑顔を奪いすぎる」
アリシアの笑みが脳裏に浮かぶ。
崩れそうになる父の身体を支え、男は諭すように呟いた。
「父上、母は貴方に笑って欲しいと願っていた。不器用な貴方の笑顔を愛していたから。…もっと早く、それを伝えるべきだった。私たちは憎悪にまみれて、伝えるべき言葉を見失ってしまっていた。いつの間にか人の不幸や幸福に酷く鈍感になってしまったようです」
昔、父親が王であるということを除けば、平穏で優しい普通の一家だった。
おっとりした母に、時折お忍びでやってくる穏やかな父のもと、安穏と育ち、商人として国を出た自分。
自分の扱う商品が人を笑顔にするのが、嬉しくて商人になったのではなかったか。
穏やかに生活する民を見つめる父と、それを隣で微笑んで見守る母。
「…何を、言っている」
茫然と、訝しむような声音。瞳に、光は戻らない。
母の言葉は、思い出は、父にはもう届かないようだった。
悲しそうに微笑んで、ヴィスタリオは父親に向き直った。
彼の手が握り締めた短剣は深々と父親の背中を差し貫いていた。
傷から流れ落ちる赤い血が、緋色の絨毯に染みてゆく。
肺は破れただろう。剣を抜けば話せなくなる。だから、剣を突き立てたまま、話し続ける。
「父上。私の娘は…貴方の孫は、人の幸せを願うことの出来る娘でしたよ。とても、優しい子だ。あの子には幸せになってもらいたいのです。…幸せにできなかったアリシアの分まで。ですから。…共に冥府へと参りましょう。お供します」
彼女へ与えられたのは悲しみや辛さばかりであったはずなのに、それでも娘は最後にヴィスタリオに手を伸ばそうとした。
卓の上に灯されたランプを無造作に引き倒す。
パリンと軽い音を立て硝子が割れる。横たわるランプから溢れた油が絨毯に染み込み、あるいは上を弾くように転がり、それを追いかけるように火は舐めるように燃え広がって勢いよく炎を上げた。
炎の明かりが、親子の姿を照らし出す。肌を焼く熱が、部屋の中に充満した。
危機迫る部屋の中、男はひどく穏やかに微笑んだ。
そこには怪物と言われた狂気はすっかりと削ぎ落ちて、親愛の情を持って父親を見つめる息子が一人。
「お前…」
老人の澱のように霞んでいた瞳が生彩を取り戻す。背中から肺を貫かれ掠れた声にけれど憎悪は浮かんでいない。それが嬉しくて、ヴィスタリオは父親の手を取った。
「最後まで私は貴方を裏切りません。でも、これ以上他の人を不幸にはできない。貴方はもう止まれないから…私が止めます。許してくれますか…?」
膨張した空気に、窓硝子が割れた。入ってきた風に煽られ巻き上がる炎の音に父の言葉は掻き消され、ただあの不器用な笑みが皺皺の顔にさらに深い皺を刻んだ。
ゆっくりと瞼を下ろし、炎に巻かれる前に老人は静かに絶命した。
安堵するように、男は肩を落とす。
これでよかったのだ。
こうでしか、父も自分も救われなかった。
将軍に守られた娘を思い出し、知らず口元に笑みが浮かんだ。
「リュクレス、お前は幸せになれ」
一度たりとも、呼べなかった娘の名前を口にして、幸いを願う。
「仕方のない人ね」
耳元で囁かれる言葉に、男ははっと顔をあげる。だが、炎が包むばかりでそこには望む者の姿はない。
ゆるりと苦く笑みを漏らす。
「アリシア…愛してたんだ。君に、会いたいよ」
頬を伝う涙さえ燃え盛る炎が焼き尽くすような灼熱の痛みの中。
「本当に、仕方のない人。…でも許してあげる。ヴィスタリオ」
最後の瞬間、男を抱きしめたものは、幻想か、それとも。
轟々と音を立て、屋敷は燃え盛り、一晩燃え続けた。
業火に焼かれ怪物たちは静かに、煉獄へと帰っていった。




