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形の良い頭を撫で、さらりと手触りの良い髪を指先で梳く。髪を纏め上げていたリボンは男の手で解かれ、頭元に置かれていた。
このまま休ませてやりたい反面、柔らかな光を湛える藍緑の瞳が見たい。そんな葛藤を胸に秘め、剣を振るう無骨な男のその手は、優しく娘に触れる。指先からこぼれ落ちる絹糸のような髪。飽くこともなく、柔らかにその行為は繰り返される。
髪を撫でる指先の感触に覚醒は促されたか、ぴくりとリュクレスの肩が揺れた。
深い眠りであったのに微睡むこともなく、驚いたように顔を上げた娘は、言葉もなくヴィルヘルムを食い入るように見つめた。
撫でていた手を、残念そうに下ろして、ヴィルヘルムはやんわりと微笑む。
視線が交差して、リュクレスの眉が何かを耐えるかのように、きゅっと顰められた。瞳がゆらりと潤み、水の膜が張られる。溢れ出した感情は、あっという間に涙となって零れ落ちた。不安や恐怖、孤独、全てが安堵に溶けて濁流のように、彼女を襲っているのだ。流されていってしまわぬようヴィルヘルムは、嗚咽をもらすその頼りない身体を引き寄せる。眠っていた時のように優しく髪を梳けば、喉が枯れてしまいそうなほど声を上げて、リュクレスは子供のように泣きじゃくった。
(本当に、すまない)
これほどに悲しませたのだ。…辛い思いをさせたのだ。
それなのに、まだ血の滴るような生々しいこの傷を抉るかのような選択をさせる怪物に、ヴィルヘルムは燃え立つような怒りを覚えた。
守りたいのだ。…この手で。
感情を押し殺すくらいなら泣いて欲しい。
そして、雨の降ったあとには晴れた空が広がるように。
(…君に笑って欲しいんだ)
腕の中で、震える娘はいつも与えるばかりなのに。
なぜ、こうも幸せを奪われることばかり起こるのだろう。
母を失い、孤児となり、柔らかに辛いことを受け止めるその心は温かく、そして強い。
それでも、心は傷つき、痛みを訴える。
その痛みを知っているからこそ、この娘は、包み込むように優しいのだ。
その笑顔は、周りを幸せにするのだろう。
ゆっくりとリュクレスの身体から力が抜けていく。感情の暴走は酷く体力を消費するから仕方のないことだ。眠りに落ちた娘を大切に抱き上げると、靴を脱がせて寝台の自分の横に寝かせた。
たったそれだけの動きで鈍重なる己の身体は、自分の意志とは裏腹に、寝台の上に張り付くようだった。
吐き出す息が熱い。額を滑る汗に、内に籠る不快な熱さ。
考えることは山のようにある。焦燥感と、苛立ちは胸を焼く。
それでも、今はただ、休むべきだとヴィルヘルムは自分に言い聞かせる。
次に目を開けたとき、己の足で立ち、この宝物を守るために走りきれるように。
崩れるように身体を横たえると、ヴィルヘルムは隣に眠る華奢な身体に腕を回し、身体の望むまま休息を受け入れた。
浮上する感覚に、ヴィルヘルムはゆっくりと目を開けた。
眠る前と変わらない、まとわり付くような倦怠感に溜息を漏らすと、視線を下ろす。
腕の中には眠る前と変わらずにそこにいる眠り姫。彼女の覚醒も近い。長い睫毛が小さく震えると、芒とした瞳が現れ、緩慢な動きで焦点を結んでゆく。
ぽやんとした表情があまりにもあどけなくて、小さく笑うと、吐息を感じてリュクレスが顔を上げた。寝ぼけたその様子に誘われて、ヴィルヘルムは滑らかな額に口づけを落とした。
「ふぇ?!」
ようやく目が覚めたようなその反応に、男は喉の奥で笑いをこらえる。
逃げ出そうとする身体が寝台から落ちそうで、加減もせずに引き寄せた。
「狭いベッドなので、それ以上離れると落ちてしまいますよ」
起き抜けの掠れた自分の声が、我知らず甘さを含む。
「なんで、私一緒に寝てるんですか…?」
困ったように戸惑う姿が、いつものように可愛らしくて、ヴィルヘルムはまるで日常に戻ったかのような安堵感に口元を緩めた。起き出して腕から抜け出そうとする娘を腕一本で容易く押さえ込む。
「珍しく、怪我人ですから。怪我人らしく甘えてるんです。…逃げないで」
耳朶に唇を触れさせて囁けば、胸に手を置き突っ張るようにしていた腕から力が抜ける。
まるで離宮にいた頃のような距離で、愛しい人はすぐそばにいるのに。
「君が助けてくれたのですね。…ありがとう」
感謝の言葉に、リュクレスが余りにも儚く綺麗な微笑みを見せるから。
日常に戻れてなどいないのだと、ヴィルヘルムは心得違いを思い知らされた。
その笑顔が、男にどれほどに痛みを齎すのか知りもしないで、娘は笑う。
心臓を握り潰されるような痛みに彼は胸に手をやった。
「ヴィルヘルム様、まだ身体辛い?」
ヴィルヘルムを気遣うその表情を見ればわかってしまう。
彼女は一人で抱えていく気なのだ。
取引のことを、どれ程追及しようとも決して答えないだろう。
その理由が、自分であるとヴィルヘルムは既に知っている。
後悔が胸を占める。その思いを痛みと共に否定する。
後悔?
(…いや、するにはまだ早い)
「…大丈夫ですよ。頑丈なのが取り柄なのですから」
彼女の決意に気が付きながら。ヴィルヘルムは細心の注意を払って笑みを浮かべた。
気が付いていない振りを演じるために。
ヴィルヘルムの身を案じるリュクレスを安心させるように寝たふりを決め込むと、そろそろと腕を抜け出し、リュクレスが身体を起こした。
深い眠りにあるように目を閉じて、それに気づかないふりをする。じっと見下ろされる視線を瞼の裏に感じていると、か細い指先が柔らかく目元を撫でた。
「人間なんですから、ちゃんと休まないと駄目なんですよ…?」
慮るようなその声音に、少しだけ混じる迷いのようなもの。
「…離れたくない」
小さな囁きは、ヴィルヘルムに聴かせるわけでなく、こぼれ落ちてしまった彼女の本音だった。
「だめだよ…」
泣きそうな声が、それを否定して。
「…やだ、よう……忘れて欲しくなんてない…っ」
否定しきれない想いが涙の代わりに嗚咽となってぽろりと落ちた。
ぎゅっとシーツを握り締めるその拳を上から包み込み、リュクレスを抱きしめて、忘れてなどやらないと伝えたい。
胸を押さえつける苦しさに、その衝動をヴィルヘルムは必死に押さえつける。
名を、呼んで欲しい。
傍にいたい。暖かいその手を離したくない。
その思い全てに蓋をして、全部我慢するのか。
「離れていても、私の全て貴方を思うから。ヴィルヘルム様、だからどうか。お願いだから、生きていて…」
涙とともに祈りを零し、リュクレスがヴィルヘルムから離れていく。
さよならと去ってゆくあの夢のようだ。
しかし、泣き声は聞こえない。声もなく、あの子は泣くから。
『さようなら。探さないで、忘れてください』
彼女の文字で書かれた言葉に羅列。
どんな顔をして、どんな想いでこれを書いた?
くしゃりと紙片を握り締める。
いつか、手紙を出し合おうかと約束をした。その約束は果たされないまま。
「これが君からの初めての手紙だなんて…ひどい話だ」
まだリュクレスの感触が腕の中に残る。すぐさま取り戻しに行きたい。
今ならば追えば捕らえられる。誘惑を、拳を作って堪える。
「これは俺への罰か」
苦い自嘲が胸を焼く。
自分の命を軽視しすぎた自分への罰。
要領よく生きてきたヴィルヘルムは守ることはあっても、守られている感覚は乏しかった。あれほどに大切に、懸命に守ろうとしてくれたリュクレスの想いさえ、結果を見れば軽んじてしまった。
(まだだ、…耐えろ。あの子を取り戻すために)
忘れてと書きながら、忘れて欲しくないと泣いた娘。
離れたくないと、あれが本当の声だ。
―――離れていても、私の全て貴方を思うから。
その想いがこの手紙を書かせたのであれば、ヴィルヘルムは責められない。
彼女を失いたくないと思う気持ちも、彼女がヴィルヘルムを失いたくないと思った気持ちも両方が大切な思いだ。
どちらもないがしろにはしない。
待っていてなどとは望まない。
来るなと言われようが、迎えに行こう。
決して離さないといった。その誓いは決して口だけのものじゃない。
そばに彼女が居なければ、感情がともなわない。…ヴィルヘルムとて笑えない。
灰色に戻ったこの世界で、一体なにが美しいと思う?
冷気のような気配が男を包む。眼光は鋭く睨みつけるように前を見据えた。
―――必ず、取り返す。




