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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
131/242

30



「俺の命と引き換えに何を取引したんだ?リュクレス」

こんこんと眠り続ける娘は答えない。

疲れを滲ませる悲しい顔。

「お前は…お前だけは倒れてはいけなかったよ。ヴィルヘルム」

普段のような怠惰な表情でも先程までの険しい口調でもなく、ヤンの声は重たいほどの真剣さを含んで呟いた。

ヴィルヘルムは幼馴染のその音色の変化に顔を上げる。

「守ると決めたのならば、しっかり心まで守ってやれ。お前がこの娘を縛り付けたんだ。支える腕を与えたのならば、決して離すな」

ヤンはリュクレスを見つめていた。

どんな怪我を負った者にさえ、無遠慮な程容赦なく手を伸ばす医者が、まるで生まれたての赤子を手に取るような、壊れ物を扱うような慎重な気配で彼女を見つめる。

その意味が分からずに、ヴィルヘルムは柳眉を寄せた。

「…何があった?」

ヴィルヘルムの冷静さは、ヤンの心を逆撫でした。ぎりっと睨みつけるような瞳は、怒りすら含んで、吐き捨てるかのように言葉を放つ。

「…この娘が壊れるところを見るところだったんだ…っ!ふざけるなよ。あんなものっ、二度と見せるな」

らしくもなく感情的なヤンに、ヴィルヘルムは少女に視線を落とした。

この、小さく寝息を立てる娘が、壊れようとしていたのか?

その姿が、どれほどに痛々しいものだったか想像して、息が詰まる。

ヤンは医者だ。人を治すために医者になった。

だが、人の心は治せない。

目の前で壊れようとする娘に、どれほどの無力感を感じたのか、彼がヴィルヘルムに怒りの矛先を向けたのは当然のことだ。

「あれ。俺より先に、先生がお説教してくれてたの?」

唐突に挟み込まれた場違いなほど暢気な声に、ぴんと糸を張ったような緊張がたわんで切れた。

沈黙の後、室内の二人が注視したその先には、屈託のない表情を浮かべたチャリオットが扉の間から、空気も読まずに顔を覗かせていた。ノックさえしない不躾な来訪者に、振り向いたヤンが目を座らせているにも関わらず、能天気な男はにへらと笑って部屋に入ってくると、軽い足取りで寝台の側まで歩み寄り、リュクレスの寝顔を覗き込んだ。

「こんなに五月蝿いのに、全然起きないんだね」

「起こそうとするな。チャリオット」

リュクレスの護衛にしておいたはずの男は、ヴィルヘルムに向かって、にこりと笑う。

その癖、目にはヤンと大差ない剣呑な光が浮かんでいた。

今まで何をしていたのかと、ヴィルヘルムは尋ねることはしない。

彼は彼なりにリュクレスを守ろうとしていたはずだから。

傍に居たからこそ、彼にも何か言いたいことがあるようだった。

それは間違いなく、ヴィルヘルムを責める言葉なのだろう。そう予想して。

彼がもたらした言葉は、ヴィルヘルムの顔を強ばらせるのに十分なものだった。

「リュクレス嬢は、将軍の元から離れるつもりだよ」

「…どういうことだ?」

「その選択しかさせなかったのは敵さんと、将軍、貴方だ。彼女を責めたら怒るからな?」

「…俺が、追い詰めたのか?」

「貴方の性格と、彼女の性格を相手はよく研究してきたみたいだね?わざと貴方を生死の境に追い詰めておきながら殺さず、取引の道具にしたんだから」

「取引の内容は毒と解毒薬の答えか」

ぶっきらぼうに尋ねるヤンに向かって、チャリオットは「はずれ」と、首を横に振る。面白くなさそうに、自分の髪をかき上げる。

「そうじゃないのが相手の嫌なところだな。さて、問題です。将軍が手負いであることに益があるのは誰でしょう?…欲を出す国があってもおかしくないよね?」

「…俺が負傷した情報を他国へ流さないというのが、取引条件か」

目が眩みそうな程の怒りに僅かに声が掠れた。

「そ。また、戦争を仄めかすのがえげつない。戦争で母を亡くして、どれほどたくさんの人が巻き込まれるのかも、この子は知っているんだよ?自分が相手のもとへ行けば、将軍の命も守られて、戦争も回避できる。…行かないでって泣いたのにね。一人にしないでって…」

せり上がってきた感情が喉につかえて、思わずチャリオットは言葉を切った。


空に帰らないで…!


あの悲痛な叫びは、未だにチャリオットの胸に刺さったままだ。

笑っていたから、あんな弱さを隠しているとは思わなかった。

ヤンではないけれど、あんなの二度と見たくない。


「母親を亡くしたリュクレス嬢にとって大切な人をなくす痛みは想像じゃない。現実そのものだ。その彼女に貴方は亡くす恐怖を思い起こさせた。将軍、あの子を責められないよ」

「…わかっている」

重々しく言うヴィルヘルムに、チャリオットは言葉を止めない。

ヴィルヘルムに護衛を託されたあの時から、嫌な予感はあった。

ふたりが離れた時を狙って相手が仕掛けてくることもわかっていて、それなのに、こんなふうにリュクレスを傷つけた。守るなんて簡単に請け負った自分が情けない。

だからこれは八つ当たり。

けれど、自分たちの失敗をちゃんと受け止めないと、守るべきものを守れない。

…今みたいに。

「将軍を守るために、彼女は行動した。死にそうな貴方のために泥だらけになって薬草を探して、貴方の命が助かった時の彼女の心情は想像するに余りあるよね。その貴方がまた命を懸け、怪我を押して前線に出るとなったら止めたいと願うだろう。だが、この子は貴方の性格を知っている」

そして、彼女自身、戦場で将軍に助けられたのだ。

…止められるわけがない。

だから、戦争自体を回避する可能性を提示した男に、ついていくことを選ぶしかなかった。

「貴方を信じていないと詰るかい?それほど弱くない、見くびるなって。でも、現に将軍、貴方は怪我をして、命を失おうとした。神の名を戴いても所詮は人間だ。唐突に失う命があることを知っている彼女の前で不用意に怪我をした。それは、貴方の罪だ」

傍にいろと望み、リュクレスはヴィルヘルムの傍にいたいと言った。それを先に破ろうとしたのはヴィルヘルムの方だ。

「ちょっと待て。チャリオット。なんでそんなに詳しい…、…っ!お前その取引聞いていたんだな?なぜ止めなかった?!」

ヤンがどこか苦々しく男を見つめる。伝令騎士は飄々として首をすくめた。

「だって、止めたところでしょうがないでしょ?怪物が誰なのかも分かっていないんだから。俺の勘は、接触してきたあの男が怪物だと言ってるけど、もし違っていたら?もう一人の怪物だって野放しのままだし。万が一にも間違っていたなら、接触してきた男を捕らえて今回阻止したとしても、次はもっと巧妙な手で来るかもしれないじゃない?だったら、彼女を手に入れさせてみようと思って。そしたら必ず怪物の所にたどり着く。…怪物を退治するか、怪物が諦めるかしないことには、辛い思いを繰り返しさせられるのはこの子だもん」

そんなことをさせたくはない。

「この状況で王城の中に囲ったところで、彼女は辛い。自分を守るために、戦争が起こる、大切な人が命の危険にさらされるって知ってるんだから。…リュクレスを本気で守るのであれば、接触してきたこの機会を利用して、一気に怪物まで迫るしかない」

「また、囮に使えと?」

「そうなるね。でも、これが一番彼女の負担が少ない方法だと思うよ。それに、彼女に危害が加わらないよう絶対の準備が、将軍になら出来るでしょ?」

チャリオットとて、危険な賭けであることは理解している。

それでも、培われた将軍への信頼が賭けの成功を信じさせるから。

ヴィルヘルムは迷いを断ち切るように静かに目を閉じた。

そして。

…次に開かれ、現れたのは、永久凍土の厳とした灰色の瞳。

「…ルード」

「にゃぁ」

何処からともなく、黒い猫が現れた。するりとしなやかな身体をしならせて、寝台の足元に飛び乗る。琥珀の瞳が真っ直ぐに灰色の瞳を見つめた。

「リュクレスについて行け。今までどおり気付かれるな。ただし、害を成す者がいたのなら、構わない。喉笛を食いちぎれ」

「わぁお。そこにも護衛がいたのか」

チャリオットが感嘆の声を上げる。自分が傍に居られない代わりにソルが大切な少女に残した相棒。

ルードもまた今まで沈黙を守っていたのは、相手がリュクレスに直接的な危害を加えようとはしなかったからだ。必要があれば暗殺すらも行うソルの相棒は、猫でありながら、高い殺傷能力を持つ。

ルードは一度だけ、ふさりとその尻尾を揺らした。ゆっくりとリュクレスに近づき、シーツの上に力なく置かれたその手の甲をぺろりと舐めると、気遣うように額を摺り寄せる。

じっと一点を見つめる猫の瞳孔が細くなる。

顔を上げた黒猫は音も立てずに寝台を飛び降りると、するりと死角に滑り込み姿を消した。目だけでそれを追い、ヴィルヘルムは、今度はチャリオットに命令を出した。

「伝令を飛ばせ。各地の検問の強化とその周囲の警戒。それから、足の速い騎馬で固めた小隊を一つ用意しておけ。指揮はバルロスに任せる。怪物退治だ、精鋭を揃えろ」

「承知しました。…ね、将軍。あの子にさ、傍にいて欲しいって、貴方に行かないでって言わせて?できないなら、あの子を手放すべきだよ。彼女は待つ側になるんだから。行かないでと言わせる位の甲斐性をみせようよ」


言われるまでもない。


やってきた時と同じように、ふらりと部屋を出て行った伝令騎士に心の中で返す。

我慢ばかりが得意な娘に、これ以上、我慢などさせやしない。






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