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巧緻な蔦の意匠、技巧を凝らした美しい鉄の鳥籠は、鳥を住まわせるためのものではない。その大きさは寝台が置かれてなお余裕があり、高さは天井に届きそうなほどだった。籠の格子から伸びた鎖が2本、無造作に寝台の上に置かれた枷に繋がれている。
それは鳥籠を模した、人を飼う為の檻。
リュクレスはぞっと悪寒に身を震わせた。生理的嫌悪感というべきか、いや、理解できないものを見たときの気味の悪さに似ている。
…怖い。
だが、男の手はがっちりとリュクレスの腕を掴んだまま離さず、逃げ出すことはできなかった。
震える娘を、男は不思議そうに見つめた。
「何故怯える?この中に居れば安全だ。誰にも危害加えられず、食うにも困らない。
じっとそこに居ればいい。私が望むのはそれだけだ」
簡単なことだろうと、男は言いながら、さっきと矛盾することを言う。
「笑え」
籠の中では笑えない。
(あの中で私はただ、生きていればいい?)
笑いもせず、泣きもせず。ただそこに居るだけなら出来る。
息をして、鼓動の止まるまで人形のように。
リュクレスは男の命令を拒否した。
笑えない。ヴィルヘルムの傍でなければ、もう笑えないのだ。
リュクレスの心はすでにヴィルヘルムのもの。
自分の心は自分であっても、誤魔化せない。
「此処に居るだけでいいって言ったじゃないですか。鳥籠の中で生きるだけなら、笑うことも泣くことも必要はないでしょう?」
男は同意しなかった。金褐色の瞳に明らかな苛立ちが浮かぶ。
「…笑え。でなければ、将軍に危害を加えよう」
リュクレスは驚いて顔を上げた。信じられない思いで、顔を歪める。
「そんなの…!約束が違うっ」
「笑え」
男はただ、執拗に繰り返す。
リュクレスは顔色を無くしたまま、首を振った。
無理なのだ。命じられたって、叶えられない。
だって、心までは誰にも操作できない。…たとえ、それが己であってでも。
顔を上げさせられ、金褐色の瞳を見つめる。そこに映る、泣きそうな自分がいた。
藍緑の瞳が、潤み揺れる。透過するその色に。
(…そうか)
ぽつりと心に落ちる。
宝石のようと言われる、母とお揃いの色彩。
その輝きが母を彷彿とさせるのか。
リュクレス自身を見ているわけでも、欲しているわけでもないのに。
この瞳が母を投影し、リュクレスの存在が、ヴィルヘルムを脅かすのならば。
―――なくなってしまえばいい。
絶望に心が悲鳴を上げる。
自ら起こそうとしている行動に怖気づき、指先が震えるのをぐっと握って堪える。
怖い。それでも。
ヴィルヘルムを守りたいと願う揺るがぬ想いが、リュクレスに静かに覚悟を決めさせた。
意を決して、体当りするように男の懐に飛び込む。彼は反射的にリュクレスの身体を支えた。
唐突な行動で男の隙をつき、リュクレスは彼の腰に差しているものに手を伸ばす。
そして、突き放すように身を離した彼女の手に握り締められていたのは、抜き身の短剣、だった。
男の眼が僅かに眇められる。
だが、表情は変わらない。無感情な様子で躊躇いもなく手が差し出された。
震える切っ先を見れば、その刃が人を傷つけられないのは明らかだったのだろう、男は向けられるそれに驚くことも、警戒をすることもしなかった。
「無駄なことはよせ」
ただ、刃物を渡せと淡々と迫るだけ。
リュクレスはゆるゆると頭を振ると、唇を噛み締め、毅然として顔を上げた。
決意を秘めた眼差しが、眩しいほどに美しく、凛として輝く。
「約束しましたよね、ヴィルヘルム様には手を出さないって。なのに、私を言いなりにするためにヴィルヘルム様に害をなすのなら」
リュクレスは慣れない手つきで、柄を握り替えた。
「何を」
その行動に、男は訝しんで声を上げる。リュクレスは答えなかった。ただ悲しげな眼差しで続ける。
「私がいなくなれば、貴方はこの国から興味をなくしますか?…そんなに欲しいなら…っ」
持ち上げられた細い腕の、その意図するところに気づくには男は遅すぎた。
「この眼だけ抉って持っていけばいい!」
目の前が真っ赤になるような慟哭に、リュクレスがその剣のその切っ先を向けたのは、己の瞳。
自分の目を刺し貫こうとする躊躇いの無い動きに、金褐色の瞳が大きく見開かれる。
やめろっと、ひどく慌てた様子が、今までの無表情の男とは余りにもかけ離れて見えた。ゆっくりと周囲の動きが目に映る。
(何も映さなくてもいい。もう、何も失うものなんてないもの)
切っ先が、突き刺さる。その痛みを覚悟した、その瞬間。
痛いほど強引な手が、刃物を持つリュクレスの腕を遠ざけた。
「…言ったでしょう。たとえ君自身であっても、私から君を取り上げることは許さないと」
低い、声。
ひどく切なく響く、愛しい声が耳元で聞こえた。
背後から伸びた腕がリュクレスの手首を握り締めている。
力抜けた手から、短剣がこぼれ落ち、瞬きすら忘れた瞳から零れた涙が、頬を伝った。
歪む視界に、リュクレスの守りたい人の腕があった。
背中を温もりが、優しく包み込む。震える指先を、大きな手が力強く握り締めた。
いつもより高い体温。本調子などではない。
…毒に消耗した身体を押してやってきてくれたのだ。
「守りたいって思ったのに…」
この人を守りたいと思ったのに。それなのに。
ヴィルヘルム自身が助けに来たことに、リュクレスは立ち尽くした。
結局、自分のしたことは、ヴィルヘルムに無理をさせ、迷惑をかけただけだという否定できない事実に、謝ることすらおこがましくてできない。
それなのに…迎えに来てくれたことが、嬉しくて…
矛盾した思いに、リュクレスは涙が止まらなかった。
「守ってくれたよ。私の命を…心を。君が自分の心に誠実だったから。だから、リュクレス…無事で良かった」
声もなく、泣き続ける娘をその腕に抱きしめて。
ヴィルヘルムはあの眼差しが損なわれなかったことに心から安堵した。
そして、正面に立つ怪物の片割れに、ひたりと視線を合わせる。
威嚇するようなその視線は男を噛み殺さんばかりの獰猛さを湛えながら、相反するような冷たさで告げた。
「返してもらいますよ」




