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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
128/242

27



リュクレスが目を覚ましたのは、目隠し越しでもわかる差し込んだ朝日のせいだった。なぜ視界が塞がれているのか、疑問に思う前に寝ぼけた身体はその邪魔な目隠しを取り去って、上半身を起こす。

「起きたか」

届いた声に驚いて顔を上げれば、金褐色の瞳がじっとリュクレスの挙動を見つめていた。堰を切ったように昨日のことを思い出し、リュクレスは身を固くする。

眠った様子もなく、男は向かい合う席に座ったままだ。

目隠しをしたのは彼なはずなのに、態とではないにしろ外してしまったことを咎めもしない。もう一度、する気もないようだった。

表情もないままに、男は車窓へと視線を向けた。

「将軍はできる男だな。検問のおかげで、なかなか目的地にたどり着けずに苦労した」

「検問…」

「不正取引を摘発するためのものだ。人身売買、密猟、薬物。多くの同輩が捕まった。仕事相手も、仲間もだ。…この国は本当に仕事がしにくい。将軍のおかげで、ほかの国でもやりにくくなったがな。だが、無駄なことをする」

「…無駄、ですか?」

リュクレスに視線を戻した男は、口元だけで皮肉げに笑った。

「無駄だろう。いくら将軍が努力して綺麗事を並べたところで、末端で働く者は容易く堕ちる。こうやって、今も検問をすり抜けているのがいい例だろう」

リュクレスは自分の今ある状況も忘れ、大きく首を振ってそれを否定した。

ヴィルヘルムは国が平穏に栄えるために、多くの手を尽くしてくれている。

こうやって抜け穴を掻い潜る者たちがいるとして、将軍の命じたことが一定の成果を上げていることは間違いない。

その努力を、無駄の一言で片付けられたくない。それに、賄賂に買収される人間がいようとも、そうでない人たちだってたくさんいる。十把一絡げに言い切れるものではないはずだ。

「本当に無駄なら誰も捕まってなんていないです。貴方だって仕事がしにくいと感じることはないはずでしょう?絶対、無駄なんかじゃ、ありません」

(ヴィルヘルム様…)

やっぱり、この国のためにも、彼は生きるべき人だ。

そう確信にも似た気持ちと、口答えをしたことへの罰を覚悟する。

だが、男は静かにリュクレスを見つめるだけだった。

馬車の中で、呼吸するのも苦しい程の緊張感はどれくらい続いたのだろう?

カラカラカラと車輪の音と馬の蹄の音は、少しずつゆっくりになっているようだった。終着地はもうまもなく、なのだろうか。男が馬車の外に目をやった。

「我が屋敷にようこそ」

抑揚もなく彼がそう言うと馬車は止まり、待つこともなく扉が外から開かれた。

促されて馬車を降り立つ。

リュクレスの沈む気持ちとは裏腹に、上空には冬の晴れ渡る空が広がり、悴む空気は風がない分柔らかい。

明るい陽射しの中、そこには、こぢんまりとした屋敷があった。

漆喰の壁に、黒い木組みの屋敷は素朴で飾り気のない可愛らしいものだ。

正面向かって左側には水車が音を立てて回り、動力となる水は小川から引かれているようだった。小さな小川には、これまた小さな手すりすらない木の橋がかけられている。せせらぎは余りにもささやかすぎて、ここまでは届かない。川縁に生える色褪せた水葦の見えるその向こうには、長閑にも田園が広がっていた。

冬の長いオルフェルノにしては、今年は雪が遅い。

雪化粧していない丘陵地帯は、農期を終えて土が剥き出しになった大地が広がる。牧草も枯れ淡い黄色に変化して、緑の丘はそこにはない。だが、閑散としたそこに、のんびりと牛を牽く農夫が見える。駆け回るのは子供たちだ。牧羊犬だろう、黒い犬が子供たちを見守るようにのんびりと彼らの後ろを走っていた。

見渡す向こう側には彼らの住む家々が見える。

「この村の村人の生活を脅かしたくなければ、逃げようなんて思うな」

リュクレスの視線の先に気づき、男は告げた。

それは、小さく向こうに見えている彼らが、男とは無縁であるということ。

「華やかさとは無縁の田園式の屋敷に、素朴とは無縁の怪物がいるとはよもや思わないだろうからな」

「怪物…?」

リュクレスは初めて聞くその名前に、オウム返しで返してしまう。

男は無表情のまま、リュクレスを見下ろすばかり。

ただ、その瞳に。

ぞわりと、背筋が冷たくなる。初めて会った時と同じ、えも言われぬ恐怖に一歩後ろにたじろいだ。

沈黙が横たわる。

しばらくして、背中を冷やした何かは男の中から消え去った。

「…なにもしない。笑ってくれないか?」

男の唐突な言葉に、リュクレスは戸惑いを浮かべた。

あまり表情の浮かばない顔。

じっと見下ろされる瞳にさえ感情を見つけることはできない。それなのに。

何故だろう?

懇願をされているような言葉は、どこか戸惑うようだと、気が付いた。

男はリュクレスを見ていない。

リュクレスの姿に誰かの面影を重ねているのだ。

自分の中にある感情を理解していないような、男の困惑。

思う反応が得られない、戸惑い。

当たり前だ、彼が望む者とリュクレスは違う人間なのだから。

夢現に聞いた、アリシアという名前。

それは、母の名前、だった。

「リュシー大好きよ。その黒髪はとても素敵だわ。瞳にとても映えるもの」

リュクレスの姿に遠くの誰かを見つめる姿は、母の眼差しによく似ていた。


本当にこの人が欲しかったのは、きっと。

お母さんアリシアだ。


「…私は、お母さんでは無いです。代わりにはなれません」

逃げるつもりでも、開放を願うでもなく、ただ真摯にリュクレスはありのままの事実を伝えようとした。誰かの代わりなんて誰にも出来ないのだ。代用をしたところで、誰も幸せになんてなれないのに。

男は無言で、何も答えなかった。ただ、少しだけ表に出ていた感情が、綺麗に消え去る。

気にさわる言葉だったのだろうか?

真実だからと言って受け入れられることばかりでないことを、リュクレスは知っているから。

沈黙が求められていることを感じ取り、口を噤んだ。

無造作に男に腕を取られ、そのまま屋敷の方へ引っ張っぱられた。リュクレスは逆らうことなく、彼に引かれるまま歩き出す。

広々とした吹き抜けのホールには、閑散とした静寂が満ちていた。

付いたばかりの時の離宮のような静けさだが、違うのは本当に人のいなかった離宮と異なり、この屋敷には人間がいるということだ。

リュクレスは変な気分になった。

綺麗に手入れされた屋敷内。人々の住まうその内が、廃墟、もしくは朽ち落ちた空家のように感じたのだ。

人はいるのに、人の気配がしない。

その違和感に、じっと彼らを見つめた。彼らは動きもするし、話もしていた。

けれど。

使用人たちは、まるで誰一人意志を持っていない人形のようだった。

表情のない顔、硝子のように光のない瞳。感情の伴わない機械のような動き。

ざわりと悪寒に鳥肌が立つ。

…ここには人がいない。人格も感情も失って、居るのは人形のような人ばかり。

外とはまるで違う、どこか壊れた世界に、リュクレスは身体を強ばらせた。

とられた腕をまた引かれ、その中を歩かされる。

柔らかな絨毯のその足元の感触に、だんだんと現実感が失われてゆく。

とろりと漂う、甘い匂いに吐き気を催す。思わず口元を覆ったリュクレスを男は無感情に見下ろした。

「夢幻香は、君にはむかないようだな。部屋には届かないようにしよう」

その甘く腐った果実のような匂いが、使用人たちを逃がさないための、麻薬だとリュクレスは知らない。意欲、人格を失わせ、逃亡する意味を失わせる。

匂いに敏感なリュクレスが、その匂いの持つ危険性を本能的に悟ったのは無理からぬことだった。匂いが届かなくなっても、目眩のような感覚が頭の中にこびりついて離れない。

屋敷の最奥の扉が開かれた。

その部屋は初めから、誰かを迎えるために準備された部屋のようだった。

飾られた花、品の良い調度品。淡い緑で統一された天鵞絨のクロスや、家具の配色。

そして。

「!」

リュクレスは思わず逃げ出そうと身を引いた。頭で考えるより先に、心が拒絶する。

その狂気に、怯えた。


部屋の中央に置かれているのは、―――鳥籠、だ。







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