25
ひどく暖かいものに包まれて、リュクレスは目を覚ました。
ぼんやりとした意識に、ぼんやりとした視界。
ふっと、誰かが笑うのを感じて顔を上げれば、吐息を感じる距離に灰色の目と、笑みを浮かべる唇が、すぐ近くにあった。
更に近づいたそれが、額に落とされて、
「ふぇ?!」
その感触に、これが現実であると理解する。
男の胸板に手を置き、慌てて離れるように後ろに身体を反らせると、逆に身体を引き寄せられた。強い力に抵抗もできず、結局彼の腕の中にすっぽりと収まる。
「狭いベッドなので、それ以上離れると落ちてしまいますよ」
おっとりと微笑む男もまた、寝起きなのか僅かに掠れた声が酷く甘い。
「なんで、私一緒に寝てるんですか…?」
目を覚ましたヴィルヘルムに安心して泣き出してしまったのは覚えている。泣きつかれて眠ってしまったんだろう。子供みたいな自分が情けないが、けれどその時にはまだ椅子に座っていたはずだ。起きだそうと試みるも、回された腕が離してくれない。
「珍しく、病人ですから。病人らしく甘えてるんです。…逃げないで」
耳朶に唇を触れさせて囁かれる男の懇願に、突っ張ってしまう腕から、力が抜ける。
「君が助けてくれたのですね。…ありがとう」
灰色の瞳に、リュクレスの姿が映る。腰に回される腕の重さに、青い空が遠ざかる。
ずんと、言いようもない安堵感が胸を襲った。
感謝の言葉は、リュクレスこそ捧げたい言葉だ。
ヤンに、大司教に、王に、王妃に…、生きてくれたヴィルヘルムに。
生きていてくれてありがとう。
彼が生きていてくれること、結局、それが一番望むことなのだ。
夜闇の男の姿が脳裏に浮かぶ。
リュクレスは霞むような透明な微笑みを浮かべた。
胸に手をやり、痛むように顔をしかめたヴィルヘルムにリュクレスは慌てる。
「ヴィルヘルム様、まだ体辛い?」
寝台の上でリュクレスを抱きしめる男は神様でも絶対無敵の英雄でもないのだ。ただ、とても芯の強い男の人。誰かを守れるだけの力を誰よりも持っていただけ。
怪我をすることもあれば、命を落とすこともある。
そんなことが当たり前の、ただの人なのだ。
「…大丈夫ですよ。頑丈なのが取り柄なのですから」
「まだ熱が高いです。ちゃんと休まないと」
「休みますから、このままこうしていてください」
「窮屈でヴィルヘルム様が休めません」
リュクレスが如何に小柄とはいえ、一人用の寝台に二人で横になるのはどう考えても、狭い。ヴィルヘルムの身体を気遣い、リュクレスは控えめに彼を押し返すのに。
「君が傍に居るとよく休めるんですよ。だから、このまま腕の中にいてくれ」
吐息を含んで、願うようにそんなこと言われたら。…嫌なんて、言えない。
口を噤んだ恋人の鼻先に唇を触れさせて、ヴィルヘルムは抱き込んだ頭に頬を寄せて目を閉じた。触れ合う身体から熱が伝播する。
ヴィルヘルムの身体はまだ、熱い。
疲労を隠す男をこれ以上疲れさせたくなくて、リュクレスは抵抗することなく、その胸に頬を押し当てる。とくとくと規則的な心音に、涙が一粒また、こぼれた。
この鼓動を、失いたくない。
この人は私が守りたい。
私に出来ることがあるのなら。
ただ、その方法はきっと、ヴィルヘルムを傷つける。そして、悲しませる。
わかっていても、リュクレスは彼には生きていてほしい。
ごめんなさいと心のなかで謝る。許してとはとても言えないから、謝罪とその傷が出来るだけ小さければいいと、願うのはそれだけ。
腰に回された腕がゆっくりと力を失っていく。
深い眠りに落ちていったのだろう。呼吸も深く、ゆっくりとしている。
そっと、その腕から抜け出して身体を起こしても、ヴィルヘルムは気づかなかった。
いくら本人が頑丈と言っていたって、蓄積した疲労には敵うはずもない。
「人間なんですから、ちゃんと休まないと駄目なんですよ…?」
薄らと隈の浮かぶ目元を、リュクレスはそっと労わるように撫でた。
ひとりで結論を出さずに、教会で出会った男のことを相談すればいいのだろうか。
聞かなくても、結果はわかっている。
彼は微笑んで、「大丈夫ですよ」と笑って受け止めてくれるだろう。
そうして、あの男の言うとおりに。
きっと、ヴィルヘルムは戦いに向かうだろう。
行かないでって、言いたいのに。言うこともできない。
そしてリュクレスは。
自分だけぬくぬくと守られて、負傷した彼に戦わせるのか。
(傍に居ると約束したのに…!)
思いだけで戦場について行ったところで、走れもしない、戦えないリュクレスなど邪魔にしかならない。足を引っ張るだけで、そんなこと自分の自己満足にすらならない。
あの男は、死神のようにヴィルヘルムを執拗に狙うに違いない。
戦場で、彼は殺されてしまうかもしれない。
守りますと、約束してくれた。
その言葉を信じている。
「…離れたくない」
でも、ヴィルヘルムが死んでしまうかもしれないなんて、どうしても嫌だ。
「だめだよ…」
傍にいて、彼を死地に送るのか。
離れることで、彼を傷つけて、生きていてもらうのか。
どちらを選んでも、辛い。
それでも。…それでも。
シーツを掴む拳が震える。
生きてさえいれば、いつか、リュクレスのことを忘れてくれるかもしれない。
何よりも、ただ生きていて欲しい。もう。失うのは…もう嫌だ。
悲しむくらいなら、忘れて欲しい。
「…やだ、よう……忘れて欲しくなんてない…っ」
名を、呼んで欲しい。
傍にいたい。本当は、暖かいその手を離したくない。
でも、全部我慢するから。
「離れていても、私の全て貴方を思うから。ヴィルヘルム様、だからどうか。
お願いだから、生きていて…」
涙とともに祈りを残し、リュクレスはヴィルヘルムの温もりから離れた。




