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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
125/242

24



「もう大丈夫だ」

ヤン・フェローが力強く頷いた。

…失わずにすんだのだ、ヴィルヘルムを。

ほっと、緊張の糸が切れた。

膝が崩れ落ち、蹲って小さく丸くなった。何を守ろうとするのかわからない。

けれど、立ってはいられなかった。

「…よかった…」

本当に、よかった。

もう何も考えられなくて背中を丸め、自分の体温と、目を閉じた暗闇で身じろぎもできずに、ただ、じっと座り込む。

疼くような痛みは胸の奥に刺さったまま、安堵する思いは重石のようにリュクレスの身体を沈める。

水の中のように息苦しくて、心をぎゅうぎゅうと締め付けるのに。浮力のような力が、リュクレスを押し上げた。…それは、痛々しそうに、けれど守ろうとしてくれる眼差し。

のろのろと顔を上げて目にしたのは、いつも皮肉げな表情を浮かべるヤンがほっと胸を撫で下ろす姿だった。申し訳なさを感じるものの、その感覚もどこか遠い。

「…すみません。心配をおかけしました。…先生、ありがとう」

初めに言わなければいけない言葉だった。

ぼんやりと、リュクレスは声を絞り出した。痺れるように手足に力は入らずに、緊張の箍が外れて喜びさえもどこか覚束無い有様だ。その声は情けないほどに掠れていた。

それでも、溢れるように、感謝は溢れた。

ヴィルヘルム様を助けてくれて。

言葉にして初めて、じわりと実感が込み上げる。

「本当に、…ありがとうございます」

小さく手を払うような素振りを見せて、ヤンは大股で部屋を出ていこうとする。

「しばらくは眠っているだろうが、もう心配はいらない。隣の部屋の人払いはした。…あいつの看病はお前がしろ。王には伝えておく」

そう言いながら、入口で振り返ったヤンに、リュクレスは意味を成さない言葉を発した。

遠慮を、すべきなのだろう。

任された仕事があって、ヴィルヘルムにちゃんと侍女をすると、約束をしたのだから。

けれど、そんな強がりさえ、今は言葉にならず。沈黙は、承諾として受け取られる。

「任せた」

そう言ってヤンの姿が扉の外に消えると、リュクレスはゆっくりと立ち上がった。ズキリと痛みを訴える右足が、覚束無い心に喝を入れる。

ヤンが出て行った扉とは逆の、開け放たれたままの扉をくぐれば、部屋の真ん中に簡素な寝台がひとつ。

どきりと、胸が鳴った。

寝台の上には横たわる大切な人。

治療がしやすいようにそれほど大きくないそれは、脇に立てばヴィルヘルムの顔をすぐ見下ろせる距離だった。

用意されていた椅子に座り、少し紅潮した男の頬に触れる。

「熱い」

毒に負けまいと、身体は戦っているのだ。高熱に、汗もない。荒い息は苦しそうだ。

ヴィルヘルムの熱い額に自分の額を押し当てる。

眼鏡を外した彼は端正な容貌を晒し、灰色の瞳が隠れ、赤みの差す頬が少しだけその顔を幼く見せた。

紺青色の睫毛まで確認できる距離で、弾む息が頬に触れるのを感じて、…生きている彼を確かめる。

顔を上げて、掛物に隠された手を取ると、その大きな手を両手で包み込んだ。

硬い掌。剣を握る、その手は誰かを守る優しい手だ。

大切に、頬にそっと押し当て、それから、その手のひらに。

リュクレスは祈るように唇を触れさせた。

「ヴィルヘルム様…頑張って」

救護院での手伝いをこれほどありがたいと思ったことはない。

リュクレスは思いつく限り、ヴィルヘルムのために尽くした。首筋を冷やし、少しずつ水差しで水分を与えていく。震えれば温め、汗をかけば身体を拭き、更衣させる。

ほとんど眠ることもなく、朝となく夜となく、彼の傍に寄り添った。


二日が過ぎ、リュクレスは知らず眠ってしまっていたらしい。

髪を撫でる優しい指先の感触に、リュクレスは驚いて顔を上げた。

見上げた先に、撫でていた手を残念そうに下ろして、やんわりと微笑むヴィルヘルムが居た。

視線が交差して、灰色の眼差しが柔らかく緩むのを、リュクレスは最後まで見ることができなかった。

溢れる涙が、視界を歪ませて。

…リュクレスは嗚咽を漏らして、泣き出した。

引き寄せられて、頭をヴィルヘルムの胸に預ける。起きた時のように髪を梳くだけの優しい接触に、余計に涙を誘われて、喉が枯れてしまいそうなくらい声を上げて、リュクレスは泣いた。

胸に詰まった全てのものを吐き出すように、涙も声も我慢できない。

けれど、柔らかな抱擁がそれを許すから。

ヴィルヘルムの温もりに、眠りを誘われて沈んでしまうまで、リュクレスは泣き続けた。

リュクレスの中に培われた、条件反射のようなもの。

寝不足の身体に、その優しい接触と、慣れ親しんでしまった体温に、安心して引きずられるように、リュクレスはいつしか眠りに落ちていた。






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