23
「先生!」
「リュクレス?!お前、その格好…」
鈴の音ような声が緊張を含んでヤンを呼んだ。
振り返れば、身につけた侍女服を泥だらけにしたリュクレスの姿があった。野外で転んだのだと明らかにわかるその格好に、慌てて娘に駆け寄る。擦り傷に、膝もきっとぶつけているだろう。目に見えて引きずる足に、右足首は何ら異常をきたしているに違いない。両手で薬草の束を抱き締めて、リュクレスはひどく必死な様子だった。
「先生!早くこれ、ヴィルヘルム様にっ…お願いしますっ。将軍様を助けて…!」
自分の姿など気にも止めず、彼女の頭にはヴィルヘルムの安否しかないようだった。
興奮状態に近い娘の差し出すものは、クラハグサ。薬草の一種で、解毒に使われる。
怪訝な思いはあれど、まずは娘を落ち着かせることが先決だと、冷静な態度で彼女の肩を叩いた。
「ヴィルヘルムなら、もうすぐたどり着く。落ち着け」
「でも…、でも…っ」
泣き出す前の空のような瞳が、容易く崩れないと知っている。
だが、今までに見せたことのない混乱とその危うさに、ヤンは顔を顰めた。
リュクレスの肩を掴み、少しだけ口調を強め言い聞かせる。
「いいから、落ち着け!この解毒剤ならすぐ作れる。薬草に詳しいお前なら知っているだろう?来たらすぐ治療を開始する。死なせたりしない。だから、お前もちゃんと治療を受けろ。起きたとき、病み上がりのヴィルヘルムを心配させたいのか?」
こうでも言わなければ、この娘は自分の治療を受けることはしないだろう。
自分のことを省みることのない娘は自分を大切にしないように見える。本人はそのつもりはないようだが、この姿を見て幼馴染が忸怩たる思いを抱くことは想像に難くない。
持ってきた薬草を奪い取るように受け取り、リュクレスを支えると治療室へ放り込む。
「待ってろ」
そう言いおいて、ヤンは宮廷薬剤師に解毒剤を依頼し、リュクレスの着替えを手配すると、部屋に戻って足の治療を行った。少し腫れた右足首に膏薬を塗って包帯で固定する。
本来であれば、元より歩けなくてもおかしく無い傷だ。子供の治癒力と本人の努力によって奇跡的に歩けるようになっているものの、こうも無茶をしていてはいつ歩けなくなっても不思議はない。
「これ以上繰り返すと癖になって本当に歩けなくなるぞ」
「すみません…」
肩を落とし、下を向くリュクレスはどこか呆然として頼りない。
それは迷子の子供のようなものではなく、薄く繊細な硝子細工に触れているような感覚に近い。
落とさないようそっと両手に持ち上げた時に感じる、背中を走る緊張感。その感覚は、ヤンにはどこか座りが悪く落ち着かない。
王城の中の平穏は変わらない。一部の人間にしか将軍の状態は知らされていないからだ。
秘密裏に、彼は城内へと運び込まれ、この治療室に向かっている。
艶やかな黒髪の旋毛を見下ろしながら、ヤンはガシガシと頭を掻いた。
これほどに乱される人間がいるのに、知らぬ者たちにはいつもの日常が流れている。
この娘にもいつものような時間が早く流れればいい。
そうでなければ、調子が狂う。
ふうと、張り詰める緊張を解くように溜息を付くと、ヤンは立ち上がった。
「ヴィルヘルムが辿り着いたそうだ。今から治療に入る。お前はこのままここで待っていろ、いいな?」
有無を言わせない強い口調に、逆らうこともなくリュクレスは頷いた。
壊れそうなほどに脆さを露呈する娘の頭を少し乱暴に撫で、ヤンはただ一言。
任せておけと、そう言った。
藍緑の瞳がぼんやりと持ち上がり、焦点を結ぶ。
リュクレスは、唇をぎゅっと結んで、言葉もなくただ深々と頭を下げた。
結論を言えば、リュクレスの持ってきたクラハグサは正しく、解毒の効果を発揮した。
彼女の選択は間違っていなかった。
軍人たるヴィルヘルムは元から毒に耐性のある身体だ。体力もある。解毒さえしてしまえれば、命の危険は回避される。
もう大丈夫だと、誰よりも先にヤンはリュクレスに伝えに行った。本来であれば王にすべき報告を、それでも。
リュクレスは子供のように床にしゃがみ込むと蹲って、しばらくそこから動かなかった。
ただ、良かったと、吐息のような小さな声だけが聞こえた。
誰かにすがりつくわけでもなく、泣きじゃくるのでもなく、そんな風に自分の心を守る娘に、ヤンは声をかけるでもなく、ただ見守るしかなかった。
触れてしまえば壊れてしまいそうなどと、そんなものが本当にあるなど今まで思ったこともないのに。
今目の前に居る娘に、手を伸ばすことさえ、できない。
伸ばすことができるとすれば、昏昏と眠り続ける男だけだろう。
お前だけは倒れてはいけなかったんだと、ヤンは苦々しく幼馴染に語りかける。
この娘の心ごと、あの男は絡め取ってしまったのだから。
ようやく立ち上がることの出来た娘に、ヴィルヘルムの看病を託し、ヤンは王の元へと向かった。




