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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
122/242

21



故郷の聖堂とは比べるべくもない、壮麗で威厳に満ちた聖堂のファサードは人を寄せ付けない雰囲気を醸し出す。どこか及び腰になるその豪奢さに、今まで外から眺めやるだけだった聖堂の扉は開け放たれていた。

救いを求めようとするものを、教会は拒まない。

躊躇いながらも、導かれるように入った扉の中は静謐と清廉な空気で満たされていた。

大樹のような白亜の柱に手を滑らせ、内観を見上げる。

外観だけでなく、色とりどりの光が降り注ぐ荘厳なる大理石の身廊内。金と銀で飾られた豪奢な祭壇。その中央に飾られた姿絵に、雄々しい紺青の狼の姿があった。

まどろみに伏せる前の、戦う冬狼はただ毅然と人を見下ろすのみだ。

リュクレスの知る冬狼の穏やかさも、平穏を守るために戦う冬狼神の苛烈さも、どちらも紛う事なき冬狼の一面だと知っているから。

リュクレスは祭壇の前で両膝を付き、両手を組んで拳の上に額を乗せた。

願うことは、いつも一緒だ。


どうか、どうか冬狼様。この国の守護狼よ。

将軍様を守ってください。

この祈りが届くのであれば、自分は何を失っても構わない。

ヴィルヘルム様をどうか、助けてください。

失いたくないのです。どうか、どうか。


床の冷たさも、その硬さも気にならない。ただ無心に祈り続けるリュクレスの肩が軽く叩かれた。驚いて顔を上げる。

そこに立っていたのは柔和な表情の白髪まじりの男性だった。巧緻な刺繍のされた白い祭服はこの国の最高位の聖職者でしか着ることのできないものだ。目の前に現れた大司教に身を固くして畏まる娘に、彼は穏やかに微笑んだ。

「熱心なのは関心ですが、女性が身体を冷やしてはいけませんよ」

そう言って、薄手のクッションを差し出す。膝の下に敷くためのものだが、貴族でもないリュクレスはそれを使ったことはなかった。

「慣れているので、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

藍緑の瞳は曇ったままだが、それでもリュクレスはぎこちなく頬を緩めて感謝を伝えた。頭を下げた拍子にタンポポの首飾りが揺れ、それを見て大司教は目をわずかに見開く。

「貴女が…将軍の大切な方ですか。彼は渡すことが出来たのですね」

穏やかな声には少しばかりの喜びが含まれていた。

「え…?」

リュクレスは驚いて、戸惑うように声を上げた。

彼は顔に皺を刻んでゆるりと微笑むと、リュクレスの手を取って立ち上がらせる。

そうして、リュクレスの足元にクッションを敷くと、いたずらっぽく片目を瞑った。

「将軍に黄色い花がタンポポだとお教えしたのは、私なのです。大切な貴女に笑って欲しいのだと、彼は言っていましたよ」


『君を幸せにしたい。俺を幸せにしてくれないか?』


懇願するような優しい響きが、甦る。

いつでも、ヴィルヘルムはリュクレスを幸せにしてくれようと心を砕いてくれる。

それを知っていたはずなのに、こうやってほかの誰かから聞くと、胸を締め付けられて苦しい。嬉しいはずのその想いは、…ヴィルヘルムが、手の届かない所へ行こうとしているのかもしれない今、雪崩のような衝撃で胸を叩いた。


好きなのだ。


……大好きなのだ。


そばにいられれば幸せで、微笑んでもらえればそれだけで心が満たされる。

とても、とても大切な人。

ずっと…と、未来までも約束をしたのだ。

あの暖かい腕が、恋しい。



いかないで



刹那に。

空が青く、遠く、脳裏に甦る。

今まで懸命に耐えてきた感情が、決壊した。



…冷たくなった母の姿。

「お母さん」

揺さぶり、何度声をかけても、その優しい声は返ってこなかった。

暖かく柔らかだった身体は硬くなり、次第に土気色に変化して、無残にも生きている頃の母の面影は時間の経過とともに失われてゆく。

それでも、枯れた声で、母を呼び続けた。


…空に返しておやり。その姿をお前さんに晒し続けることは、この人も望んではいない。笑って、お前さんを抱きとめてくれた母親を覚えておいてあげなさい。


誰かがそう言って、母の身体に縋り付くリュクレスを引き剥がして。

沢山の人達が、火葬され空に帰った。


あの眩しいほどに、澄んだ空へ。



「お願いだから、空に帰らないで…っ」

また、あの光景が繰り返されるのは、見たくない。…送ることなんて、もうできない。

堪えきれない涙が頬を伝った。

「大切な人を失うのは、もう嫌ぁ…っ」

一人で立つ為の芯を折られ、リュクレスの柔らかい処はもうヴィルヘルムにあずけてしまった。彼を失えば、もう一人では立っていられない。


いかないで。

一人にしないで。

淋しい、悲しい、痛い、辛い。

ヴィルヘルムと一緒にいたい。


それは我儘な願いなのだろうか。

幸せの暖かさを知った心は凍えることもできずに、粉々に砕け散りそうだ。


顔を覆い、涙を零した娘に、大司教は状況を悟る。

送りの空は。

無情なほどにいつも青く遠い。

あの空を、この娘は知っているのだ。

悲痛な声は、誰かに向けたものではないだろう。だからこそ、胸を突いた。

将軍に何かあったのだ、それに彼女は心を痛めている。

彼の身を真剣に案じ、そして、置いて逝かれることを恐れて、悲しみに打ちのめされている。

将軍の想い人は、想像していたよりも、ずっとあどけなく柔らかな娘だった。

将軍の変化がなるほどと納得できる。

この娘が彼を変えたのだろう。

冷めた眼差しの、あまり何物にも興味を持たない無感情なところのある青年だった。

王とは正反対の無感動さ。

だが、真っ直ぐに己の決めたことは貫き通す確たる信念の持ち主。その落差が酷く酷薄に映ったものだが、今の彼は感情を自然に引き出す。

その変化を齎した娘の曇りのない笑顔を、大司教は見てみたいものだと思った。

泣き声をあげる彼女を支えたいと思う。

もう一度、笑うことができるようにと、願う。

娘の頭に手を置いて、優しく祈りの言葉を唱えた。

敬虔な信者であるだろう娘の僅かばかりでも、力になれるように。

心を支えられるように。

「これほどに真摯な祈りを、神はきっと見過ごしはしないでしょう。彼は冬狼の名を冠するお方。簡単に死にはしますまい。きっと、冥府からでも追い返されてきますよ。だから、貴女は信じてお待ちなさい。とても忍耐のいることですが、貴女になら出来ると信じております」

「…はい」

大司教は急かすことなく、彼女の嗚咽が収まるよう頭をゆっくりと撫で続けた。時間をかけて、優しい手に顔を上げる力をもらい、少女はおずおずと顔を上げる。

溶けてしまいそうな瞳に、ステンドグラスの光が写りこんでいた。

痛々しいにも関わらず、それでも感嘆してしまいそうなほど美しいその瞳が、大司教には切ない。

泣いた跡の残る痛々しい顔で、子供が懸命に我慢するような、そんな純粋な覚悟を浮かべて娘は頷くから。

弱々しいのに折れることのない、心。けれど、今それは支えを必要としている。

それが信仰であるならば、止めるべきではないだろう。

「もう少し、祈りを捧げていても構いませんか?」

娘のその言葉に、大司教は微笑んで、

「身体を冷やさないようにそれを使って頂けるなら」

そう言って、リュクレスの足元に置いたクッションを目で示した。


リュクレスが控えめに浮かべたささやかな笑顔は、それでも、とても暖かかった。










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