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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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11



…どうしよう。

膝は、ついてはいけないらしい。

目上の人にはこちらから挨拶すべきだけれど、王にこちらから話し掛けるのは失礼にあたるだろう。

挨拶の仕方すらわからない。

どんな人だろう、とか。

ぐるぐるとまわる思考。

考えていないと、どうにかなりそうなくらいに。

…ただ、怖い。

少ずつ蓄積してきた思いがトラウマの様にどんとリュクレスを襲う。

貴族は、怖い。

一番偉い王は…もっと、怖い?

指先の小さな震えはおさまらない。

ノックもなく、ドアノブが回される小さな音に、弾かれたように扉を見た。

重厚な扉は音も立てず滑らかに開き、現れたのは、黒に金糸の刺繍の入った外套を着た大きな男性。

悠々と近づいて来るが、被ったフードと、目元を隠す白い仮面に顔は分からない。

彼はすぐ側まで来ると、身体を屈めた。

凍えたように動かないリュクレスにだけ届くような小さな声で耳元に囁く。

「お化けにでもあった時みたいな顔ですね」

その声音に驚いて、仮面に隠された瞳を見つめる。

男は口元に笑みを浮かべると、一旦リュクレスの元を離れ、窓辺でカーテンを閉める。

戻ってくると、フードも仮面も取り、あらためてリュクレスの隣に座った。

その行動を食い入るように見つめていたら、宥めるように頭を撫でられる。

そこに座るのは、冬狼将軍、その人で。

驚きよりも強く沸き起こる安堵感に、立っていたなら腰を抜かしていただろうと思うくらいに体中の力が抜けてしまった。

間違いなく、今は立てない。

「王でなくて驚きましたか?」

「…安心、してしまいました」

「ほう?」

「まだ、王様にお会いする心の準備が、全然出来ていなくて…怖くて」

「怖いですか?」

意外そうに聞き返され、リュクレスは弱々しげに呟いた。

「…本当のところ、貴族の方とお会いするのは…怖いです」

「私も、ですか?」

「将軍さ…ヴィ、ヴィルヘルム様は…子供の頃からの英雄だから、憧れの人で…でも、貴族のお一人で…よく、わからないんです。会えることは嬉しいのに、とても、怖い。…ごめんなさい、とても失礼なことを……」

慌てたように首を振るが、その勢いも最後まで続かない。言い繕うことの下手なリュクレスは、結局謝るしかできなくなった。

怖がらせることをした覚えのあるヴィルヘルムとしては、その謝罪は要らないと思ったが、それよりも、貴族が怖いという言葉の方が気になった。

彼女の周囲に今まで現れた、貴族というものが、リュクレスの中にトラウマとしてある。

それは恐怖という形を作っているわけだ。

(どんな貴族だったのか聞かなくても分かるな)

碌でもない、貴族ばかりだったのだろう。ノルドグレーンの領主は公明正大、実直で誠実な人格者だが、それでもその下にはその程度の人物がいる。

「高貴なる義務」を取り違え、己の優越感のために弱者援助をする貴族たちに、彼女たちは脅かされてきたのだろうか。

かくいう己もその一人であることを、苦く呑み込んで、ヴィルヘルムは少女を守る様にやんわりと包み込んだ。

「君の出会ったどの貴族よりも、王はきっと優しい。彼は市井で育った経験があるのです。私などよりよほど君たち思いだ。だから、怖がる必要はありませんよ」

その声がとても優しくて、腕の中が暖かくてリュクレスは泣きそうになる。

目の前にある肩口にそっと額を付けそれを堪える。無意識のその甘えるような行動に、ヴィルヘルムは先ほどとは違う意味で苦笑いした。

…予想以上の美しい女性になりそうなリュクレスに、女は怖いなと。

可愛らしい子であるとは思っていた。しかし、それは子どもを愛おしむ様な感情だ。

今、強く抱きしめてしまいたくなる衝動は、思いもかけない熱を孕むもの。

侍女の着せた衣装は、露出を避けた分、服の上から知ることの出来る華奢さとドレスの柔らかなシルエットと見事に調和して、まるで綿毛の様に軽やかさを纏う。

明るい色合いのドレスに、顔色も良く見える。首元まで覆う衣装に、今までの様な不安定な危なっかしさは隠され、愛らしい本来の美しさがそろりと顔を出していた。


「あ、の、どうしてヴィルヘルム様が…?」

リュクレスは我に返り、ふと疑問に思う。

なぜ、彼が王に扮してここに来ているのか。

ヴィルヘルムは軽く肩を竦めた。

「君が言ったのでしょう?王に愛人を作らないでくださいと。王妃を悲しませない様に噂だけ流すにはこうするのが一番手っ取り早い。ああ、そうそう。私には恋人も妻もいませんからね?時々は本物も来ますが、大体私が来るものと思っていてもらって構いませんよ」

…もしかして、リュクレスの言ったことはヴィルヘルムの負担を増やしてしまったのだろうか。

顔を上げたリュクレスが、その距離から離れようとするのに。

ヴィルヘルムは懐の中の少女の膝裏に手を差し入れると、軽々と抱き上げる。

慌てて首にしがみ付く少女に喉の奥で笑い、寝台まで連れてゆく。

紫紺に、金糸銀糸の刺繍が美しい天蓋付の大きな寝台は小柄なリュクレスなら5人や6人くらいゆとりを持って寝てしまえそうなほど広い。リュクレスを抱えたまま、ヴィルヘルムは寝台の端に座ると、少女を膝の上に乗せたまま、金色のツイストの飾り紐を引っ張った。

さらり布が音を立て、紗が下りる。

天蓋の中は薄暗く、密室になった。

男が腕を緩めれば、少女は逃げ出すように寝台の上に移る。

そんな彼女の靴を脱がせながら、ヴィルヘルムは表情を作るのに、困ってしまった。

含みのある笑みでも浮かべて追い詰めてみようと思っていたのだが、小動物の様に怯えながら、それでも手の届く位置からは逃げようとしない娘に。

どうやら、その手の冗談は無理だと悟る。

泣かせるのは可哀相だ、と思うのは本心。

だがそれ以上に、意図して触れたのなら、止まれない気がした。

「今日は、この部屋はソルが監視していますから盗聴も覗きもされていません。今後は、時々わざとこの警戒を緩めます。この部屋に王が来ているときには覗かれている可能性があると思ってください」

事務的な口調で話せば、明らかにリュクレスはほっとしたような表情を浮かべ、リネンの上に両手を前に付いて座り込んだ姿勢で、ヴィルヘルムの話を聞いている。

「ですが、この中は、内側からは視界が利きますが、外からは覗けない。音も紗が吸収するので小声で話す分には聞かれる恐れはほとんどありません」

そんな機能がもとより付いていた理由は、わざわざリュクレスに伝える必要もないだろう。

閨に二人きりでいることに、やはり危機感は薄いリュクレスにだからこそ。

ヴィルヘルムは、着たままであった外套を脱ぎ、王の扮装を解いてゆく。

真っ白なコットンのシャツとトラウザーズだけになると、ゆっくりと寝台に上がる。

「あの、王様は…どんな人ですか?」

場の雰囲気に耐え切れなくなったように、リュクレスが唐突に訊ねた。それに気が付いて、ヴィルヘルムはおっとりと答えを用意する。

「そうですね…優しくて国民想いの王です。豪放磊落、大らかと言えば聞こえはいいですが、けっこう適当な人ですから、あんまり鯱張らなくても大丈夫ですよ。私なんかよりよほど砕けて話せると思います」

「…はあ」

予想外の王の人物像と、ヴィルヘルムの言い様に、リュクレスは意外な感じがして気の抜けた様な返事をした。

ぽかんとした表情が可笑しかったのか、ヴィルヘルムは含みのない笑みを見せる。

その笑顔がとても優しい穏やかなものだったから、リュクレスは初めて本当のヴィルヘルムの姿を見つけた気がした。…魅かれて、目が離せない。

「王様のこと、大好きなんですね」

ポロリと漏らせば、少し驚いた顔でヴィルヘルムは目を見開いた。

それから苦笑を浮かべる。

「なんだか、誤解を招きそうな言われ方ですねぇ」

「?…王様のことすごく大切に想っているから、守ろうとしてるんですよね?」

分かっていない顔をしたリュクレスが、言葉を積み重ねるたびに、ヴィルヘルムは何とも言えない気分になる。

間違ってはいない。間違ってはいないが…

「あいつにはその台詞言わないでくださいね。きっと撃沈しますから」

ヴィルヘルムでさえ降参しそうなくらい、天然は太刀打ちするのが難しい。臆面もなく言われた言葉は、冷静に受け止めるのは恥ずかしすぎる。

「あいつ…?」

「王ですよ。彼は感情豊かだから、そんなこと言われたら照れて撃沈すること確定です」

「…照れますか?」

「照れます。王の威厳無くなりそうなのでやめてあげてください。ね?」

笑みを含みながら同意を求めるヴィルヘルムに、リュクレスはつられて頷いた。

眼は口ほどにものを言うという。きらきらとした眼差しは、言葉よりも雄弁にリュクレスの好奇心を、ヴィルヘルムに伝えるから。

彼は穏やかに話し始めた。

「王とは、彼が王太子時代に騎士学校の同期だったのですよ。10歳から5年間同じ学舎で共に過ごして、それ以来の付き合いです」

リュクレスにとって子供の頃からヴィルヘルムは将軍だったから、彼の子供の頃というのはなんだか想像ができない。まじまじとヴィルヘルムを見つめるリュクレスの素直な反応が、ヴィルヘルムには可笑しかった。

「私にも一応、子供の頃はあったのですよ?」

「す、すみませんっ」

「君には想像しにくいかもしれないけれど、夜抜け出して街に繰り出したのがばれて、王と学校長に叱られたりしたこともあります」

「なんだか、意外…です」

「でしょう?まあ、大抵言いだすのは王の方で、私はもっぱら付き合って巻き込まれたんですけどね」

「ふふっ」

嘆息したヴィルヘルムに、リュクレスはつい小さく噴き出した。

柔らかい表情のまま彼は、リュクレスを見つめていた。

真剣な光が不意にその眼差しに差し込む。

ヴィルヘルムのその変化に、リュクレスは魅入られたように灰色の眼を見つめた。

「…王は、子供の頃にも暗殺者に狙われたことがあります。宮殿での安全が確保できず、乳母に匿われ半年間、市井で生活していました。町の人は彼を普通の子どもとして扱ってくれたそうで、叱ることも誉めることもほかの子供たちと何ら変わらなかった。王は自分の身分を隠していたからだと思っていたそうです。だが、違っていた。」

「……」

「暗殺者は王を見つけた。彼を守ったのは、…町の人たちだったそうです」

「大丈夫、お前は良い王様になるよ」と笑って死んだ洋服屋の青年。「生きろ」といつも厳しい頑固な果物屋の親父が見せた優しい笑顔。冴えない吟遊詩人、明るい看板娘、子供たちを見守る老人…。王への期待が一方的なものではなく、「自分らしくやればいい」と、彼らは言い残し、身を挺して未来の王を守った。

彼らに恥じることのない自分でありたいと願い、彼らのために、アルムクヴァイドは王になることを自ら望んだ。

「私には確たる信念などありませんでした。貴族の家の次男坊なんて軍人になるか、聖職者になるか、官僚として王宮に上がるか選択肢はある程度決まっている。私はその中で自分に向いているであろう所に流れてきただけだったので…同じ年で、つくりたい未来を持っている王を子どもながらに凄いと思ったんです。尊敬しましたし、その手伝いをしたいと思いました」

「今も、ですね?」

「はい」

「…王様は、優しい人なんですね」

「そう、ですね」

「そんな王様の傍にヴィルヘルム様が居てよかった」

リュクレスは嬉しそうに、やんわりと微笑んだ。

王として国を治めるという大変なことを自ら背負った強い人。

自分のためではなく、誰かのためにと思うならば、人の好い所が無ければ背負えないのではないかと思う。

それはきっと軽くはない荷物だ。

王様が優しい人だから、一緒にその重荷を持ってくれる人がいてよかったと思った。

だから、ヴィルヘルムの存在が、彼の王を支える明確な意思が、なんだかリュクレスには凄く嬉しい。遠い人たちが急に身近に感じて、リュクレスはヴィルヘルムに向かい、淡い笑みを見せた。

「私、もう、王様怖くないかもしれません」

ほわほわとした表情、柔らかい瞳ではもう緊張は見られない。

ソルの「君は迂闊です」と以前言っていたのを、ヴィルヘルムは思い出す。

確かにこの娘は、時折ひどく無防備だ。

密室の中男と二人、という状況は完全に彼女の中から抜けている。

その笑顔は見続けたいが、少し困らせてみたいと思ってしまった辺り、ヴィルヘルムは自分の性格の悪さを自覚した。

己に向けて苦笑しつつ、向かい合うリュクレスを見て、

「せっかく似合っているのに、脱がせるのは勿体ないな」

小さく零す。

よく聞こえていなかったリュクレスは首を傾げた。

警戒心を煽るように、わざとゆっくりと。

男は言葉を紡ぐ。

「王は、愛人の元に通ってきているのですよ?」

寝室の、その寝台の上で。

その台詞に、リュクレスの顔が面白いくらいに赤く、青く変化する。

想像していた通りの反応に、ヴィルヘルムは笑った。

「大丈夫、何もしません。私も、王も。ただ、周りにはそういう事をしている、ということにしておいてくださいね」

「は、はいっ」

「ただ、まったく偽装しないわけにはいかないので。…少しだけ協力してください」

向かい合わせのまま、リュクレスの背に手を回し、器用にドレスの背のボタンをひとつずつ外してゆく。

頼りなく衣装は肩を滑り落ち、リュクレスは慌てて前を抑えた。

そのもの慣れない行動に、露わになった肩の頼りなさに、腰のリボンを解くと、ヴィルヘルムは目についたショールを肩に羽織らせる。

「そのままドレスだけ脱いで、ベッドの下に落としてください。私は後ろを向いていますから、その間にシーツの中に潜り込む様に」

ヴィルヘルムに言われるがまま、下着姿でリネンに潜り込むと、彼のシャツをそっと引っ張った。

「あの…」

「入りましたね」

戸惑うリュクレスを励ますようにポンポンと布団を叩き、彼も寝台に身体を横たえる。

そして、抵抗する間も与えずに少女を抱き寄せた。

薄い布を隔てただけの、逞しく大きな男の身体は酷く生々しく、その鋼の様に引き締まった筋肉の硬さまではっきりと知らせる。腰を引き寄せる太い腕。何も考えられず、リュクレスは反射的にその胸を押し返した。

「やっ…!」

ビクともしないその抱擁に、恐慌状態になる寸前。

「落ち着いて」

ヴィルヘルムの静かな声が褥に落ちる。

「何もしないと、言ったでしょう?」

これで、何もしない?…泣きそうだ。

リュクレスにとっては、これは「何もしない」ではない。

明らかに「何かされている」。

言葉もなく、首を横に振る。巻きついた腕は離れない。

逃げ出そうとする少女をあやす様に、今度は背中をポンポンと叩かれた

「子どもの体温は暖かいので…抱き枕の替わりくらい、してください」

頭の上で落とされた、疲れた様な溜息。

顎先を頭に乗せられ、がっちり両腕で保持されて、リュクレスは身動きが取れない。

「しばらくは、部屋から出られません。ゆっくり、君と話をしようと思っていたのですが…」

少しだけ、力が抜けた緩い口調。

リュクレスは抵抗を止めた。顔を上げれば、目を閉じたヴィルヘルムの整った顔が見える。

そういえば、今日は眼鏡をしていないと、初めて気が付いた。

視線に気が付いているだろうに、男は瞼を閉じたまま吐息で笑う。

「少し寝ます。…逃げないでくださいね」

囁かれる言葉に、リュクレスは回された腕に手を添え、

「これじゃぁ、逃げられません…」

そう言って諦めた様に、ベッドに沈む。

これ以上何もしないという言葉は信じてよいのだろうか…?

顔は赤くて、熱くて、心臓は痛むほどに音を立てている。

この人は、こんなふうに触れ合うことが当たり前なのだろうか。

リュクレスには慣れようもない気がする。

それでも。

自分を救い上げてくれたこの腕は、やはり、今もとても暖かい。


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