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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
118/242

17



小高い丘の上からは、ヒュリティアの城壁が遠望できた。

見晴らしの良い丘陵地帯の収穫時期を過ぎた田園風景には、視界を遮るものは何もなく、遠くまで見渡せる。そこには色違いの布地が継がれたような畑に、点々と麦藁の束が纏められて積まれてあるだけだ。

白い息を冷たい風が攫ってゆく。雲はない。高い空が透過して遥か遠い。

緑の流線を境に空が上半分を覆う。青と緑に切り分かたれた空と大地。

紺青の髪を風に煽られるに任せ、青毛の馬の背から遥か広野を見渡す男の目が、遠く小さな馬影を捉えた。

「…本当に来たか」

丘を駆ける栗毛の馬は、間違いなくこちらに向かっていた。馬上で手綱を操るのは赤毛の女。遠目にも女性らしい曲線が、身体にぴったりとした乗馬服でさらに強調されている。

警戒することもなく真っ直ぐに馬を走らせて来た女は、2馬身ほど離れた場所で馬を止めた。

綺麗な赤い唇が弧を描き、蠱惑的な眼差しがヴィルヘルムを捉え微笑む。侍女としての姿とはまるで異なる妖艶さに、女は本当に役者だとヴィルヘルムは忌々しく思った。

「…ふふ、将軍。こんにちは。初めまして、というべきかしら?」

「挨拶に興味はない。用件を言え」

狼の瞳は冷たく輝き、淡々として女をひたりと見据えた。

景色の長閑さとは程遠い氷のような冷たさが、男の彫像のような面立ちを一段と作り物のように見せる。

「…あら、怖い言葉使い。それじゃ、あの子に怖がられてしまうわよ?」

おどけるような女の言葉に、ヴィルヘルムは乗ることにした。

「余計な世話だな。…上辺しか見ないような底の浅い娘じゃない」

「…いやだ。惚気けられたわ」

いつものように自分のペースに引き込もうとしたマリアージュは邪気なく目を丸くする。さらりと躱すヴィルヘルムの方がどうやら一枚上手のようだ。

(…コードヴィア卿が敵わなかったわけね)

独断的でありながら、この男は対応が柔軟だ。

ぱちぱちと目を瞬かせて、マリアージュは笑った。だが、その瞳の奥に狂気が混ざり込む。

「で?いつまでも此処に留まればお前のほうが不利だと思うが…急がなくていいのか?」

見晴らしの良いこの周辺に伏兵は隠せない。だからといって兵を向かわせていないわけではない。

器用に片眉を引き上げるヴィルヘルムは自分の有利を理解している。情報は欲しい、だが急ぐ必要はない。遠くからじわじわと包囲は始まっているのだから。

「…つまらないわ。欲しがる男に、お願いされるって状況が好きなのに」

「つまらなくて大いに結構。お前を喜ばせたいわけではない」

まだ無駄話を続けるつもりか?暗に視線だけで問えば、マリアージュは肩を竦めた。

一国の将軍を敵に回すのは流石に分が悪いと、女も気がついている。刻一刻と、追い詰められているのは自分の方なのだろう。だが、それでも、聞きたいことがあった。

「ねぇ、将軍。貴方が私の言葉を信じた理由は何?」

冬狼将軍ともあろう人物が護衛も連れず、ただひとりで女とはいえ敵の誘いに乗った理由。罠である可能性を考えず、何の警戒も準備もせず将軍がやって来たとは思えない。

彼のもとに届けたのはたった一通の手紙。

『リュクレスを狙う者の正体を教えてあげる。二人で会いましょう』

将軍としての男には何ら利益の無い、その内容。

マリアージュはその手紙を送りながらも、期待をしてはいなかった。

来ないと思っていた。もしくは、罠を仕掛けられているかもしれないと。

だが、目の前には冷え冷えとした灰色の瞳で、マリアージュを射る男ひとり。

「信じてはいない。だが、彼女を守るためならどんな情報でも欲しい。それだけだ」

護衛はいない。伏兵もない。本当に将軍はたった一人でやって来たのだ。

愛する娘のために。

脱力するようなこの感覚を、一体どう形容しようか。

マリアージュはふと思う。

余りにも久しい感情に、思い出すのすら時間がかかる。


胸を落ちていったのは、安堵、だ。


「…あの子が、笑っていたの」

ぽつりと呟かれた言葉には何の装飾もない純粋な響きがあった。

残念そうでいて、嬉しそうな、複雑ながら穏やかな表情。そこにあるのは、多くの男たちを虜にした女ではなく、慈しみさえも感じる母のような、姉のような温かさ。

「…」

ヴィルヘルムは、ただ沈黙を守った。

「貴方の隣なら、あの子は笑えるのね」

「幸せになって」と、リュクレスはぼんやりした意識のもとで彼女の声を聞いたという。

それは真実だったのか。

「あの子が、とても綺麗に笑っていたから」

そう言って、女は風に靡く髪をかきあげる。

「私はあの子が欲しいけれど、…あの笑顔が貴方の傍でないと見られないのならば、いらないの」

不要という言葉を使いながら、願うのはリュクレスの幸せ。

「だから、情報をあげる」

彼女を守りたいと願う庇護の感情。

「いま、あの子を欲しがっているのは、怪物の片割れ」

「片割れ?」

欲しかった情報が余りにも容易く女の唇からするりとこぼれる。初めて聞くその内容に、ヴィルヘルムの表情が少しだけ険しさを帯びた。

「ふふ、怪物は親子よ。カフェリナ前国王とその庶子。」

「…前国王は病死したはずだが?」

「よく知っているわね。そう、表向きは…ね。カフェリナを腐敗させた最後の王は玉座を簒奪したの。周囲の者を買収して、逆らう臣下は邪魔なら殺してしまった。だから、あの国には腐り落ちてゆくのを止める人がいなかった」

「簒奪されたことを恨んで、怪物は国を滅ぼすような真似をしたのか?」

簒奪劇など、どこの国にも有り得るものだ。復讐は理解できるが、その方法にヴィルヘルムは疑問を感じた。

自国をあんな形で滅ぼしたいと望むのか?

あれほどの統制力を持つならば、それこそ復権こそ難しくないはずだ。なぜ、国を巻き込み、国民を巻き込み、立て直しの出来ないほどの滅亡を齎した?

「憎悪」

その疑問は女のその一言で氷解する。

「…自分の守ってきた国だったからこそ、憎しみは果てがなかった。愛する人を息子だった王子に殺され、慈しんできた民は愚かにもお金に目が眩み、それを助けた。彼女が生きながらに燃やされたと聞いたとき、怪物は…正気を失ったの。人であることをやめたのね。あの国に生きる全てを、滅ぼすと決めた」

歌うようにマリアージュは言葉をその赤い唇に乗せた。

「なぜ、そこまで知っている」

余りにも、内情に精通しすぎている。

表情を読ませない男に向かい、彼女は微笑んだ。

「私に家族をくれた人だもの、個人的にも付き合いは長いわ。…カフェリナの怪物は、本当に怪物になってしまったから。彼らは破滅でしか救われない」

商品だったマリアージュを、温かい養父母のもとへ導いてくれた商人はもういない。

前国王は狂気に塗れている。その狂気に、息子も巻き込まれた。

「狂気の中で…彼の傍では、きっと、あの子は笑えない。綺麗なものは好き。でも、お人形は…所詮、お人形でしかないわ。あの子は生きていて、笑うことも、泣くことも出来る。それは、綺羅々してとても綺麗」

「なぜ、怪物がリュクレスを欲しがる?欲しがっているのはどちらだ」

上手く隠された感情、けれど、その質問にどこか懸命さを感じてしまえば、マリアージュの中で本来の人の悪さがひょっこりと首を擡げた。

「それは…ふふ、全部は教えてあげない」

男が明らかに柳眉を潜める。硝子越しの瞳が鋭く光るのを見て、女はさらに笑みを深めた。

「ヒントなら、そうね。あの子の母親を調べなさいな。たぶん、探るのは難しいでしょうけれど。その位の方が、調べる甲斐があるでしょう?」

「ここまで話して出し惜しみか?」

(あの子を独り占めにする貴方に対しての意地悪かしら?)

ふふふっと、悪戯な笑みを浮かべ、それから、笑いを収めると真実、誠実な眼差しがヴィルヘルムを見つめた。

「…あの男は卑怯なことがとても上手。仕掛けるつもりならあの子に対してでしょう。だから、将軍。貴方が守ってあげてね」

必死で守って頂戴。あの子の全てを。

玲玲とした瞳は、離宮でリュクレスを見守っていた侍女の眼差し。それは、ソルやレシティア達と同じ見守る者の瞳だ。己は狂気にまみれながら、リュクレスを想う思いは真摯なものだ。

「なぜ、そこまでリュクレスに拘わる?」

彼女は手入れされた綺麗な指先を、優雅に自分の唇に押し当てた。

「その理由は、きっと貴方と一緒。あの子の傍は温かいの。作ることなく笑うことができる。見返りを求めない優しさは新鮮で、とても愛おしい」

あの離宮でリュクレスと一番長く、密接に関わっていたのだ。ミイラ取りがいつの間にかミイラになっていた…としてもおかしくないのかもしれない。

いくつかの疑問と思わせぶりな女の言葉に、ヴィルヘルムの中で推測が生まれる。

その答えをこの女は持っているが、話しはしないだろう。

これ以上の情報は望めまい。

「…このまま逃がすと思うか?」

捕らえる気はすでに無くなっていたが、戯れにヴィルヘルムは尋ねた。

「ふふふ、簡単に捕まるとも思っていないでしょう?」

にっこりと妖艶に微笑むその瞳には、すでに静けさは消えていた。

「貴方は嫌いだけど、あの子が泣くから殺さないであげる。せいぜい長生きなさいな」

手綱を捌き、馬の首を翻す。

片目を瞑り、彼女は颯爽と去っていった。







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