13
「リュクレス、今から王がこちらに参られます」
きりっとした口調でカナンが言った。彼女たちが発する今までにない緊迫感がビリビリと伝わって来て、リュクレスも緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「そうなの」
重々しくアスタリアが頷いた。
いつもとは違うふたりの様子に、リュクレスは不安になってこくりと喉を鳴らす。
「そこで、リュクレス、今日の貴女の仕事ですけれど」
「は、はいっ」
「王妃の付き添いをお願いします」
「は、はい…?」
まるで重要命題のようにカナンの口に乗せられた言葉は、けれど、いつもと変わらないような…。
「え、えと…何か、いつもと違うことでもするのでしょうか?」
「いいえ、全く。傍に居てくれればそれでいいの」
「は、はぁ…?」
疑問符が転々と頭の上に浮かぶ。王と王妃が会うところに付き添うことに、何故このふたりはそれほど緊張しているのだろうか。
「あ!王夫妻ふたりが揃う時はとても警備とかも厳重だからですね」
なぜ気がつかなかったのだろう。国の最重要人物なのだから、危機感を持って警戒に当たって当たり前なのだ。
「………」
「………」
ようやく納得したリュクレスの前には、けれど微妙な顔をした二人がいた。
「…?カナンさん?アスタリアさん?」
あれ、なにか間違えただろうか?
おろおろとふたりを見つめると、しみじみと大きなため息を揃ってこぼした。
見事な連動にリュクレスは内心拍手を送る。
「王城内は基本的に安全です。近衛もいるのですから。…ではなく。…仲睦まじいお二人の様子が…その。…見るに堪えないといいますか…」
ひどく言いにくそうな、ぼそぼそとした口調で、カナンはそれでもどうにか言葉を選ぶ。
「ひと目も憚らず、あのふたりはすぐ自分たちの世界に入りますからね。寝室でやってくださいと言いたいですわ」
諦めたのかアスタリアは言葉すら選ばない。
…つまり。
「仲が良すぎて目に毒ですってことですか…?」
「「そうなのよ」」
綺麗に声まで揃っている。
「うふふ、一度経験なさってくださいな。この苦行、エステルとクランでさえ、辟易としておりますから」
現実逃避の如く、遠くに目をやるアスタリアは、思い出しただけで疲れたようだった。
少しだけ苦笑い。
リュクレスには彼女たちを疲れさせた原因に一役買った覚えがある。
「王妃様と仲良くしてください!」
それはリュクレスが王にお願いしたことだったから。
目のやり場に困るほどの熱愛ぶりと聞けば、嬉しいけれど、…目隠しがほしいかも。
そういう場合は、後ろを向いてやり過ごそう。
リュクレスは粛々として、そのお仕事を受け取らせていただいた。
…はずなのに。
「あら、では、将軍のところで寝てしまったの?」
「はい。…すみません」
「ふっ…あはははっ!」
腹を抱えて笑っているのは、癖のある煌びやかな金髪を持つ美丈夫だった。王様は相変わらず、笑いの沸点が低いような気がする。豪快に笑うのに、気品を失わないのはさすがだが、リュクレスには彼の爆笑の理由に見当がつかない。
なにか笑わせるようなことを言っただろうか。
きょとんとした眼差しに気がつき、王は手を振って何か言おうとするが、まだ笑いのツボからは抜け出せていないようだった。
あらあらとルクレツィアが優雅に小首をかしげる。
「アル様、そろそろ笑い収めないと、リュシーが困ってしまいますわ」
「すまん、すまん」
そう謝りながらも、くすくすと小さな笑いは収まらず、口元を押さえながらも王はリュクレスを優しい目で見つめた。
「俺の親友が大切なものをちゃんと大切にできる男で、本当に嬉しいよ。…あいつはお前に優しいか?」
「はい、とっても」
その答えなら、迷いなく答えられる。
「そうか」
ふわりと、深い空色の瞳が温かく細められた。
王と王妃二人で政務を行うこともあれば、今日のように夫婦の時間を得るための日程だったりすることもあるらしく、少し慰問先の話をした後、王と王妃に勧められてリュクレスはルクレツィアの横に腰掛けた。夫婦水入らずでお話があるのではないかと思ったのに、ふたりの視線は興味津々にリュクレスに注がれるから、少しだけたじろぐ。
「昨日はどうでしたか?」
久しぶりのヴィルヘルムとの再会に、悪夢に苛まれることもなくゆっくりと休むことができ、リュクレスの調子もとても良い。心も充足して、とても身体が軽い。それも、これもふたりのおかげなのだ。リュクレスはふわふわと笑って頭を下げた。
「お休みありがとうございました。とても、嬉しかったです」
「…会えないひと月は長かったでしょう?」
「はい、とても。でも、お仕事忙しいのに、私のために時間を割いてくれたのは、きっと心配させてしまったから、ですよね。それなのに私、我儘ばっかり言って…結局昨日も傍で安心して眠ってしまって。お仕事の邪魔しちゃったんじゃないかって」
甘えてばかりの自分が不甲斐なくて、恥ずかしい。
将軍は忙しいのだから、もう少し我慢しなさいと、と言われることを覚悟して言えば、きょとんとしたルクレツィアとアルムクヴァイドがそこにいた。
そして冒頭の、あのやりとりである。
「それにしても。あいつは会いたかったと言わなかったのか?」
アルムクヴァイドは穏やかに尋ねた。
「…言いました」
腕の中で伝えられた言葉。
「それは、あいつの想いとしてお前に伝わらなかったか?」
取られた腕の強さ、その苦しいほどの抱擁。
リュクレスは首を横に振った。
「なら、その想いを受け取ってやってくれ。忙しかろうがなんだろうが、お前と逢いたかったのはあいつも同じなんだから。な?」
「はい。…はい」
リュクレスは、ヴィルヘルムの想いを自分の中の遠慮で上手く受け取れていないのかもしれない。言葉を尽くして、行動で、ヴィルヘルムは彼の愛情を惜しげもなく与えてくれているのに。
「ちゃんと、受け止めて、返せるようになりたい…です」
大切なものをそこに握り締めるように、胸の前で手を組んだリュクレスをルクレツィアは思わず抱きしめた。
「可愛い…。そんなところに、将軍は恋したのかしら。大丈夫、リュシーはちゃんと無意識でも将軍にたくさんのものを与えているわ」
「…?」
リュクレスは思いつかず首をかしげた。ルクレツィアは身体を離し、それは優しげな微笑みを浮かべた。
「眠ってしまった貴女に、彼は文句を言った?」
「いいえ。傍にいて安らげる場所になれるなら、嬉しいって」
「貴女が信頼を明け渡しているのを、彼は気がついているの。ほら、そうやってきっと色々なものを彼に与えているのだわ」
「…あいつの惚気話を聞けるとは思わなかった。硬派なわけじゃないのか、ただ単に口説く必要がなかったんだな。…そんな甘い言葉を吐けるとは…」
きっと、カナンやアスタリアが聞けば、貴方が言うかと突っ込みでもあっただろうが、残念ながら彼女たちはここにいない。
「なあ、リュクレス。お前には確かに孤児だ。見劣りするようなことを言われるかもしれない。だが、貴族という血統に与えられるものなど所詮、釣り合う身分だけ。あいつに安らぎや幸せという価値のあるものを与えているのはお前だ。ヴィルヘルムは何も言わないだろうが、あいつは持てる全てを使ってお前を手に入れようと必死だよ。あいつにとって爵位も地位も大して執着するものじゃない。逆に欲しければ、自分の力で手に入れられるだけの能力を持っている。大抵のものは望めば手に入る男だ。だが、お前だけは、お前にしか与えられない。力づくで手に入れても、お前の気持ちが手に入らなければ意味がないんだ」
夫の言葉に頷いて、ルクレツィアはリュクレスに微笑みかけた。
「将軍は思ったよりとても不器用で頑固ですわ。貴女をどこか貴族の養子に入れ、王の後見を与えるだけで貴女の地位は確定する。なのにそうしないのは、貴女が望まないから。…貴族でなければやはり、将軍の傍にはいられないと思って欲しくないから。貴族ではない修道院で育った娘を、将軍は妻に迎えようとしているの」
初めて聞くことに、リュクレスは声を詰まらせた。
身分違いの恋に、それでもヴィルヘルムの傍に居たいと望んだのは己だったから。戸惑いも、引け目も、きっと今後与えられる中傷も全て、受け入れる覚悟をした。
けれど、ヴィルヘルムはそんな我慢さえもさせる気はないのだ。リュクレスがリュクレスのまま、笑って傍にいられるように身分の違いなどに、幸せを邪魔させるつもりは毛頭ない。
流星の下、オレンジ色の光を映した銀の瞳。真摯な求婚の言葉に、そこまでの覚悟を持って彼が望んでくれたということ。
二世の誓いを、蕩ける様な甘い瞳を。あの時のひどく嬉しそうな彼の顔を思い出して、リュクレスは我知らず、涙を流した。
声もなく、瞳が溶けたように、ほろほろと涙が止めどなく頬を伝う。
ルクレツィアが、そんなリュクレスを静かに包み込み、王は少しだけお茶目な瞳で笑いかけた。
「うさぎのような目になる前に泣き止んでくれよ。お前を泣かせたと知ったら、ヴィルヘルムがしばらく俺に休みをくれなくなる」
「ふ、ふふ。…はい」
優しい王夫妻に守られてリュクレスは微笑みを浮かべながら、涙を流し続けた。
「どうでしたか?」
「すごかったでしょう?」
「ちゃんと耐え切りました?」
「砂を吐くという言葉はああいう時に使うんですよね」
生ぬるく、憐憫の眼差しを向けてくる4人に対し、リュクレスはしばし沈黙をした。
…あ、あれ?
惚気話をしていたのは実は自分ではなかろうかと。ヴィルヘルムの甘い言葉に散々からかわれて、知らないうちに涙も止まって。
二人が聞きたかったのは、リュクレスとヴィルヘルムの恋愛事情だったわけだけれども。思わぬ愛の天使たちにリュクレスは恋心をこれでもかと暴かれてしまった気がする。ヴィルヘルムの想いを聞けたことは…嬉しかったけれど。
少し前の自分の行動を振り返り…穴があったら入りたい気持ちに陥る。
恥ずかしさで顔を真っ赤にするリュクレスを見て、カナンたちは見事に誤解をした。
「純真な娘に、どんな卑猥な言葉を聞かせたんですか…王様」
「言葉でなく、行動かもしれませんよ」
「これは一度、侍女長に相談すべきでは?」
「そうしましょう」
「え、あ、…あの…?」
「さ、リュクレス、貴女も行きますよ」
勘違い。
でも、侍女たちにはそろそろ限界だったのだ。
人目を忍ばないあの王様に。
後日、甘い睦言を囁くのはふたりの時に致してくださいと、侍女長からお叱りを受けた王は苦笑いで頭を下げるのだった。




