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「初めましてリュクレス様。マリアネラ・オラルと申します」
溜息が出そうなほど完璧な礼をして目の前で笑う女性は、とても華やかで綺麗な人だった。
赤い巻き毛に灰緑色の瞳、すっと通った鼻筋に、ふっくらとした紅い唇。
大人の魅力に溢れた美女なのに、気軽な人柄でとても親しみやすい笑みを浮かべている。
その美貌に見とれていたら、その唇が額に落ちてきて吃驚した。
「ふえっ」
柔らかな感触の残る額を抑えて、赤面する顔が熱い。動揺するリュクレスを面白そうに見つめ、マリアネラは主人となる少女の手を取った。
「こんな可愛らしい主の元で働けるなんて嬉しいですわ」
リュクレスを旋毛から足の先まで眺めて、いろいろと着せ甲斐がありそうと楽しそうにしているマリアネラの様子に、だんだんリュクレスの緊張は解けてゆく。
やっと、リュクレスは自分に出来る精一杯、丁寧なお辞儀を彼女に向けた。
「リュクレス、…ルウェリントンです。よろしくお願いします」
慣れない姓を名乗るのに躓きながら。
頬の赤みはまだ取れないが、硬さはとれたみたいだ。これからお世話になるマリアネラは、こちらこそと膝を折って礼をする。
茶目っ気たっぷりな彼女は専従の侍女になってくれるらしい。
一つ一つの動作が、リュクレスなんかよりもよっぽど優雅で品があるから、手放しで拍手を送りたくなってしまう。
「リュクレス様から、私への要望はありますか?」
「要望…ですか?」
「ええ、こうしてほしい、逆に、これはしてほしくないからやめてほしいという様な。これから上手くやっていくための下準備ですわ」
「ええと…」
リュクレスは特に思いつかないと返そうとして、ふと、ソルの言葉を思い出す。
ここに来る使用人のほとんどが、リュクレスを本当に愛人と思っているということ。
リュクレスは嘘を吐くのが下手だから、人前で王を慕う演技が出来るかと言えば、…不安でしかたがない。
…だったら、王が来るときには二人きりの方がいいだろうか。
「あの、王様が来たときには、二人にしてもらえますか…?」
マリアネラは少し目を見開いて、リュクレスを凝視すると、艶めいた表情を浮かべた。
「可愛らしい姿なのに、リュクレス様は、やはり恋する女性なのですねぇ。ふふ、もちろん、お二人の逢瀬の邪魔など致しません」
なんだか色めいた誤解をされていたようだが、否定もできず曖昧に頷く。
そわそわと落ち着かない感じがするのは、とても静かだった屋敷の中が、どこか騒然としているからだ。
今まで、ソルと二人しかいなかった場所に、たくさんの人がやって来た。
侍女に、調理人、庭師などの多くの使用人と、護衛のための騎士達。
直接接することは避けるよう言われているため、挨拶も距離を置いての会釈程度しか出来ていない。あからさまに侮蔑を含む表情を向けられることはないが、それでも使用人たちは視線を合わせようとはしなかったし、不快感を滲ませる表情をしている騎士もいた。賑やかなのに、ポツンとどこか一人になってしまったような寂寥感を感じる中で、マリアネラの様な存在はリュクレスにとっては救いだった。
「さあ、それでは初仕事ですわ」
「…え?」
うふふと、笑みを湛えたままのマリアネラに、なんだか嫌な予感がして一歩後ろに下がるも、そういえば、片手を取られたままだった。
「とてもお痩せになっているから…暖色系にして、スカートもふわりとしたシルエットの方がきっと可愛いですわ。ラインを見せるよりはそうしたものの方がきっとお似合いになるもの」
独り言のように口にするが、彼女の中にはもうすでにリュクレスに似合うものがチョイスされ始めているようだ。マリアネラは鏡台の前にリュクレスを誘うと、彼女を置いて衣装室の中へと入ってゆく。
鏡の前には、貧相な娘が一人立っていた。マリアネラの様な女性の柔らかさとは無縁のひょろりとした肢体。頬の肉も心なしか削げているように見える。顔色の悪さと目の下の隈はここに来て大分目立たなくなったように見えるが、平凡で、どう見ても子供の様な自分にはやはり、ドレスなど不相応だと思う。
けれど、愛妾役という役割であれば、嫌だと拒否するわけにもいかない。
憂鬱な気持ちになるリュクレスとは真逆に、嬉々とした表情で出てきたマリアネラは一枚のドレスと、靴、そして宝石箱を手にしていた。
鏡台に、宝石箱を置き、足元に靴を置くと、リュクレスにドレスを当ててみせる。
リュクレスには到底似合う様には見えていないが、マリアネラには違って見えるようだ。更衣の準備をし始める。
「流石王家の準備した衣装室ですね。素晴らしいわ。さあ、王の来訪までに、着飾りましょう。女性が美しくして嫌がる男性はいませんもの」
たった一人で、てきぱきと用意したドレスを着せ替えると、ドレスの裾を直し、腰のリボンを整える。首まで隠れるドレスに首飾りは選ばず、琥珀でできた花の髪飾りを差し、唇に薄く紅を乗せる。
「思った通り、とても可愛らしい」
少し離れて出来栄えを確認すれば、マリアネラは満足げに頷いた。
オレンジ色のベロア地のドレスは、花びらのように淡い向日葵色のシフォンが重ねられている。腰で一度絞られ後ろに襞を作るスカートはふわりとしたシルエットを作り、細い腰には大きめのリボン。
腕が通された袖は袖口に向けて少し広がり、胸元にはレースがあしらわれている。チョーカーの様に、襟に巻かれた黒いリボン、その真ん中に大きなトパーズの宝石が輝く。露出を避けた柔らかいシルエットが、痩せた身体を隠し、明るい色味が肌も健康的な色に見せるそのドレスは、少女にとても似合っていた。化粧をしなくても、それだけでリュクレスの可憐で可愛らしい顔立ちは引き立つ。…リュクレス自身には頼りなげな、情けない自分がそこに居るだけだが。
見るに堪えず、すごすごと鏡の前から逃げ出して、踵の高い靴によろよろとソファまで辿り着くと、ゆっくりとした所作でスカートの裾を捌いてソファに座った。
どっと押し寄せてきた疲れに、沈み込む様にソファにもたれ掛かる。
「あらあら、随分疲れさせてしまいましたか?」
心配げに覗き込むマリアネラに、慌てて手を振る。
「い、いえ、そういう訳じゃ…っ」
「良いのですよ。ドレスに慣れていないことはお聞きしておりますもの。いずれ慣れますわ。ドレスにも、私にも。急ぐ必要はありませんよ」
今日初めてお会いしたのですからと、気遣って微笑むマリアネラに、リュクレスは罪悪感のようなものがもくもくと雲のように湧いてくる。せっかくきれいな服を着せてもらったのに、ため息ばかりでは申し訳ない。
ドレスを着たいとは思わなくても、似合う様にと着せてくれるマリアネラの気持ちはとても嬉しい。
「ごめんなさい。ちゃんと慣れます。ドレス選んでくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
目を細めて微笑むと、マリアネラはお茶の時間ですねと、準備のために部屋を辞した。
マリアネラの姿が見えなくなると、一人になったリュクレスはいろいろなものが詰まった大きなため息を外に吐き出す。
気持ちを入れ替えよう。
役目だから、ドレスは仕方ない。
似合わなかろうが、自分にはもったいなかろうが着るしかないのだ。
元が残念でみすぼらしいリュクレスを、それなりの姿にしてくれるマリアネラは凄い。
ヴィルヘルムや、ソルの言うとおり、もう少しご飯の量も増やそう。
皆を困らせない様に。
そんな決意を新たにしていたリュクレスに、戻ってきたマリアネラはお茶の準備をしながら、静かに爆弾を落とした。
「着替えはタイミングよかったようですよ、王がお越しの様です」
「え…」
リュクレスは一瞬真っ白になった。
彼女たちは知らない、リュクレスが王と初対面であることを。
王様。この国で一番偉い人。
固まってしまった少女の緊張した面持ちを、格好のせいだと思ったのか、綺麗な微笑みを浮かべて、マリアネラは太鼓判を押す。
「大丈夫ですよ。その姿は大変可愛らしいですから。自信、持ってくださいね」
ぎこちなく頷いて、用意されたティーカップを口元に運んだ。
カップを持つ指が小さく震えていた。
マリアネラは約束通り居室から退室していく。
それを、止めようとするのを必死に堪えて、引きつる笑顔で見送った。




