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「そうだ、リュクレスとは会ったのか?」
重たい話を払拭するように、アルムクヴァイドはソファに場所を変え、ヴィルヘルムも向かいに座った。長い脚を組んでソファの背凭れに沈み込む様子はすでに臣下ではなく気心の知れた親友の姿だ。
天井を仰ぎ、首を振る。
「さっき戻ってきたところだぞ。お前への報告が先だろう」
「そういうところは曲げないな」
「…当たり前だ。そこを曲げたりしたらそれこそ叱られる」
「叱られる?あの子にか?」
意外そうに聞き返すと、ヴィルヘルムは天井を見たまま、ゆるりと口元を緩めた。
「子供を叱るように、困った顔をするんじゃないか?」
声は荒げないだろう。だが、それで本当に良かったのかと省みさせるに違いない。
なるほど、それなら想像ができるとアルムクヴァイドも笑う。
「だいぶ侍女が板についてきたぞ。ティアナが安心してたよ」
「……」
「なんだ、なにか不満か?」
「別に侍女にしたくて此処に連れてきたわけじゃない。……あれは俺のものだぞ」
喉の奥から威嚇するように出された親友の声にアルムクヴァイドは目を丸くした。
所有欲を丸出しにするヴィルヘルムに初めてお目にかかった気がする。
リュクレスは確かに可愛らしく、とても清廉で優しい娘だ。愛おしく、大切にしたい思いも理解できる。だが、冬狼の名を与えたこの男の想いは、アルムクヴァイドとは似て非なる感情だ。
恋をしたと聞いた。求婚し、彼女を妻にするとも聞いていた。だがそれすら、いつもの薄笑いを浮かべて、淡々と報告していたのだ。ルクレツィアに会わせるのさえ渋る親友に、こいつにも人並みの独占欲があったのかと思ったものだが。だが、その感情の発露を、こうやって目の当たりにしたのは初めてだったから。一瞬唖然として、それから堪えきれずに声を上げて笑いだす。
ヴィルヘルムが上を向いていた顔を戻し、憮然とした顔でこちらを見る。その灰色の目には何がおかしいと、書いてある。ここまであからさまにわかりやすいのは学生の頃以来ではあるまいか。
「いや、お前、本当にあの子に惚れ込んでいるんだな。信じていないわけではなかったんだが…、恋着するお前っていうのに慣れん。あの子に落とされたというのも、な」
意外という他ないが、だが、どこかでしっくりくるのも事実。
あの子はたぶんヴィルヘルムの冷たい氷を自分の熱で溶かしたのだ。熱するわけではないその温度は暖かく優しいもの。熱を奪われ氷に自分が傷つこうとも、彼女は温め続けたのだろう。ゆっくりとその穏やかな熱は氷を溶かし、慈しみ、揺りかごのように男の感情を動かした。
「…意外か?」
「お前が人に惹かれたことは意外だった。だが、その相手が彼女だったから…そうだな。あの子だったからこそ納得できたのかな」
「そうか」
「だが、箱庭に閉じ込め続けたお前の執着に関してはどうかと思うぞ?」
不満そうな顔に、未だその独占欲が鳴りを潜めていないことは一目瞭然だ。
うっそりと、昏い眼光を隠しもせずにヴィルヘルムは自嘲した。
「箱庭の王の気持ちがよくわかる」
「…愛しい娘の自由を奪っておいてか?」
それが本当に良いことなのか、相手を本当に幸せにできるのか頭の良い男にはわかっているはずだ。親友をたしなめるような言葉は、彼に届いている。それでも、ヴィルヘルムは首を横に振った。
「本気でほしいと思ったんだ。今さえ、あの瞳に俺以外映してほしくないと、そう思っている。…初めに鳥かごに入れることの安心を覚えてしまうと、それ以外で安心する術は腕の中に囲っておくことくらいだ」
悪名高い王の残した負の遺産。
離宮という名の鳥籠。
「男として駄目だろう、それは。あの子を信じていないわけではないんだろう?」
「ああ。……笑うか?たぶん今までの俺じゃ考えられないほど愚かな男になってでも、あの子が欲しい」
「手に入れただろうが」
誰かを欲したことのない男の我侭な執着。あのたおやかな娘はそれでも男を受け止めるのだろう。だが。
「身も心も全て欲しい。婚姻で縛って、何もかも、誰からも奪いたい。…重症だろう?」
そんなもの恋に落ちているなどと言わない。それではまるで。
…溺れているようじゃないか。
アルムクヴァイドには親友の心が歪にさえ映った。
「あの優しい娘を、なぜそうまで?…もう少し優しくはなれんのか、大人気ないぞ」
呆れたような声を上げながら、王はその喰らい尽くすような執着に危ぶむような感情を抱く。
「あの子が甘やかすからだろうな。甘やかされて、もっともっとと溺れていく。なのに当の本人はそれに気がつかず甘やかしているつもりはないんだ」
まるで甘美な底なし沼に囚われたような感覚。
リュクレスを捕らえて、リュクレスに囚われているのはヴィルヘルム自身。
困ったような顔をしたヴィルヘルムに、アルムクヴァイドは嘆息した。
「人の恋路に首を突っ込むほど野暮じゃないつもりなんだが。お前のことも信用している。だから、これだけ言っておく。ちゃんと幸せになれよ、二人で」
「…もちろんだ」
二人で幸せになろうと誓い合ったのだ。
星の下の誓いを忘れることはない。
王との会話を思い出し、目の前にいる娘の顔をまじまじと見つめる。
この手の届く距離が心地よい。
手放したくないのに、時間が来れば王妃の元へ返さなければならない。自分で頼んだことなのに、それがどうにも苛立たしく、歯痒い。
彼女の周囲に広がってゆく世界が忌々しくて仕方ない。一人ずつ増えてゆく人間関係。彼女の口から出る名前が増えることを…喜べない矮小な自分がいる。
いっそさっさと自分の物だと公言してしまって、この部屋に同伴すればいいのではないかなどと思う自分さえいる。だがそれは自分のためであって彼女のためにならないとわかっているから我慢もできるのだ。
「リュクレス」
「はい」
名を呼ぶだけで、花のように顔をほころばせる娘に、どうして自分のエゴを押し付けられる?
王と話していた時の全てを奪いたいと心を焦がす、執拗なほどの渇望も本音ならば、優しく包み込むように愛したいのも本音なのだ。
「王妃からのご褒美です。今日一日、君はお休みになりました。…だから、夕刻まで私の傍にいてくれませんか?」
自分の中の感情に振り回され、思いの外その声は切なく響いた。
色恋に疎く、けれど人の感情の揺れには敏感な娘は何かを感じ取ってしまったのだろう。じっとヴィルヘルムの瞳を見つめると、リュクレスは、はにかむように笑った。
「…ヴィルヘルム様のお邪魔にならないのなら、こちらこそ、喜んで、です」
ずぶりと深みに沈み込む。
…ああ、また溺れていく。




