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渡された文書を片手に、オルフェルノの国王は机越しに立つ男を見上げた。
ひと月ぶりに帰還した親友は、戦場を離れると途端に軍人らしくなくなる。
濃紺のジレに黒衣のジュストコールという洗練された衣装を着こなす洒落者は、重たい甲冑を着て軽々と剣を振り回すくせに、すらりと引き締まった身体に無駄な筋肉を付けずにいるから、アルムクヴァイドよりよほど痩身に見える。紺青の髪を整え、縁なしの眼鏡をかければ、獰猛さは消え理知的な印象しか与えない。
戦場で見せる知略の非凡さは、どうやら交渉術でも生かされたようだ。
何食わぬ顔をして其処に立つヴィルヘルムは、難題混じりの他国との交渉を如才なく終えて、ひと月足らずで帰ってきた。困難な命題であったとは思えない穏やかな口ぶりで報告される内容は、王が欲しかった結果そのものだ。
周辺同盟国の奴隷廃止、それに伴う人身売買の市場の閉鎖。
状況が味方しているとは言え、こちらに有益な結果を相手から引き出した手腕はさすがと言うしかない。
「どこも、廃止にはゴネなかったか」
「カフェリナの王と特権階級の者の末路は余りにも惨かったですからね。明日は我が身かもしれませんねと囁けば皆一様に顔色が変わりましたよ」
奴隷達の反乱は、狂気じみていた。暴動が起きて2年だ。未だに貴族狩りが行われ、遺体ですら五体満足でいられないと言われているほどに、燃え盛る憎悪は鎮火する様子を見せていない。
奴隷を扱う国々に他人事ではないのだと、そのおぞましい現実を突きつけてみせれば、見て見ぬふりを続けていた彼らとて、対岸の火事とばかりに暢気に笑ってはいられないようだった。
うっすらと笑みを刷く男の瞳は笑ってはいない。感情を読ませない灰色の瞳はいつものように冷ややかだった。
これで交易の商品として、今後人間が国同士で取引されることはなくなる。…たとえそれが表向き、だったとしても。
裏では今後も続けられるだろうが、表立って行えなくなる分、残る市場も縮小せざるを得まい。
新たな商品を手に入れる前に、奴隷商人たちは今ある商品を慌てて捌くだろう。浮き足立ってくれればくれるだけ、見つけて介入しやすくなる。
国民の安全を保証し、国へ返還すること。人道的救出の目的のためには他国の介入を許すという契約。
どの国も他国に干渉されるのは好まないはずだ。だからこそ自国の市場の監視に目を光らせる。遠くない未来、奴隷を使用することに利点はなくなるはずだ。
「言質は取りました。調印も成りましたから彼らも行動せざるをえないでしょう」
「公の交渉は取り敢えず一段落だな。あとは闇ギルドに何処まで迫れるかが、今後の課題か」
オルフェルノには奴隷制度はない。冬狼神への信仰による啓蒙もあるのだろうが、国民性として労働を尊ぶという考え方があるからだ。
荘園などで働く奴隷たちは強制労働故に意欲も低く、単純作業しか行わない。しかし、生活を、この国を豊かにしたいと願ったオルフェルノの民は自分たちで考え、労働環境を整えてきた。農業においても、土地の改良をしてこの風景を作ってきたという自負がある。つまりが、労働者の質が高く、奴隷を必要とすることがなかったのだ。それは、土地を追われ、理想の故郷を求めた放浪者たちがこの国の基礎を作ってきたからなのかもしれない。
それでも娼館に売られる子供や愛玩人形として特異な容姿を持つ者たちが、商品として闇で取引されてきたのは、この国も変わらない。交易に重点をおいてからその闇は一段と深く暗くなった。まるで落とし穴のようなその暗闇に誰が飲まれるかなどわからない。
闇が深すぎて、その奥にあるものは見通せない。だが、その穴をせっせと大きくしている存在、それが名無しであることは間違いなかった。
「もう一つ。注意しておく必要がありそうなのはプロムダールの動向でしょう。内乱の兆しがあります」
王の目に剣呑な色が浮かぶ。隣国の同盟国であるものの、認識としては敵国だ。
「交易の拠点をこちらに奪われて、国の事情は厳しいらしい。去年の条約追加も大きな痛手でしょうしね」
昨年のスナヴァールとの攻防時、オルフェルノは挟撃の危機に直面していた。
東のスナヴァール、西南のプロムダール。ひかれた青写真通りにその作戦が遂行されていたとすれば、オルフェルノの被った被害は甚大だったに違いない。
実現せずに終わった理由は、単純な話だ。プロムダールが欲を出して、侵攻の機を逃したのである。彼らはスナヴァールが押されていると知るやいなや、かの国に恩を売ろうと考えた。列強の大国と言われるスナヴァールに恩を売れる機会などそうそうない。時差で開戦しオルフェルノの背後を襲うつもりが、鈍重なる自軍の動きに開戦の機会を逸し、スナヴァールの敗戦が濃厚となると今度は及び腰となって動けなくなってしまったのである。
大国と渡り合えるほど屈強な自国の騎士団と傭兵を有するオルフェルノと、戦場を知らない兵団に、実際に戦うのは戦意のない奴隷兵士たち。戦力差は歴然としていた。
挟撃の利点を知りながら尻込みした兵士たちの士気は低く、端から戦う気概はなかったのだ。前線に送られた自国の兵は僅かばかり、迎え撃つ敵よりも背を預ける自軍の方が余程危険な状況で、戦いを維持できるわけもない。
王と、貴族たちは奴隷兵士たちの反乱を恐れて、兵団を王都から切り離せず、士気の低い兵士たちは移動を急がなかった。結果、オルフェルノは挟撃の憂き目に遭わずに済み、終戦後、同盟を反故にしようとしたプロムダールは報復を恐れて、5年間のプロムダール内の港湾の寄航制限の緩和、使用料の減額を提示し、オルフェルノはそれを受諾した。
おかげで南の海域への航海が容易となり、オルフェルノは大きな利益を得ることとなる。逆にプロムダールは目先の欲に囚われて何の成果も上げられなかったばかりか、オルフェルノとスナヴァール両国の不信と国民の不満を買っただけに終わった。
「プロムダールの前王は堅実な王だったが…息子は国政を掌握しきれていないようだな」
「ええ。そのおかげで情報操作が上手くいったようなものですけどね」
あの戦争でプロムダールの後手に回った動きは、手に入れた情報に踊らされ過ぎたことにある。
スナヴァールは列強国だ、簡単に戦局は変えられない。対極にある国に挟まれていることを利用して、ヴィルヘルムは情報を攪乱し、選択した情報のみを流させた。
彼らが欲を出したくなるような情報を、そして、今度は攻め込むことを躊躇わせるような情報を。止めに奴隷に対する不信と不安を煽ってやれば、足をもつれさせ動きを止めることができるとヴィルヘルムは踏んだのだ。
実際のところスナヴァールとの決着が思い通りについたわけではない。そう思わせただけで、数で誇ったスナヴァールを敗走させるまでには、時間も、犠牲もオルフェルノは多くのものを支払わされた。7年前、そして去年の戦争で、国の疲弊は否めない。
「今のオルフェルノに大規模な軍事行動は難しい。ですがプロムダールが内乱に突入した場合、救援要請があったなら、無視することは難しいでしょう」
積極的な介入はしないが、それでも難民の受け入れは必要になるだろう。それは火の粉がこちらにも及ぶことになりかねない。
ヴィルヘルムの蒔いた種は、戦争中にプロムダールに不安の芽を芽吹かせて育ち、この一年で花を咲かせようとしている。
「内乱自体を未然に防ぐ方が、こちらにとっても得策か。あの愚王を守る算段をしなくちゃならないかと思うと腹立たしいな」
「その気持ちはわかりますが、致し方ありません。ただ、あちらの王は国政にあまり興味がないようなので、穏健派の有能な宮廷伯に、政務の実権を移して彼らに国の立て直しを依頼しました」
少し意外そうに王が目を見開く。
「あちらが、そのお前の言葉を聞き入れたのか?」
ヴィルヘルムは軽く肩をすくめた。
「もとより穏健派は戦争に反対だったそうですから、こちらに敵意はない。会談はとても円滑で有意義なものでしたよ。スナヴァールと結んでいた重鎮たちは度重なる失策に権威を失墜。国内の経済情勢の悪化、内乱の火種、奴隷兵士をどうするか…頭の痛い国政から王は目を背けたくて仕方ない。ならば、誰かに任せたらどうですか、と一言助言を、ね」
都合の悪いことに目を背け続ければ、カフェリナの二の舞になると、良識のある貴族たちは気がついている。
先送りにできない案件を、片付けるには困難な問題が山積みだろう。
それでも。何かを変えるときには痛みを伴うものだ。その痛みを背負い、国を守る覚悟をもつ者たちが、王の投げ捨てた実権を逃げ出さずに受け取った。
近いうち、王は放逐されるのではないか、とヴィルヘルムは思っているがそれは言葉にせずに、別のことを口にする。
「安心、まではできませんが、経過を見る余裕はありそうです。ヘルムート辺境伯には連絡入れてあります。監視は彼に任せておけば大丈夫でしょう。」
焦臭い話に息を詰めていたアルムクヴァイドは大きく息を吐き出した。
金色の豪奢な髪をかきあげて、晴れ渡る空色の瞳には悲痛な色が滲む。
「もう戦いはごめんだな。これ以上自国の民を失ってたまるか」
吐き捨てるように言う王に、ヴィルヘルムも静かに頷いた。
「同意だな。…もう、攻めさせはしないさ」
オルフェルノは侵略をしない。侵略されることも許さない。
だから、戦うのは自領を守る時だけなのだ。攻められないように、国を安定させ、周辺国の安定も望む。若いふたりには荷の重い望みだが逃げるつもりはない。
隣国の王のように目を背けるつもりはない。
オルフェルノが、冬狼の静かにまどろむ国であるように。




