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「ごめんなさい…」
申し訳なさそうに、目尻を落とし下を向いてしまったリュクレスに向かい、ヴィルヘルムは思わず笑みをこぼした。
よく見れば、確かに上着には彼女の小さな手が作ったと思われる皺が出来ている。
「私としてはこんなにも積極的に求めてくれる君が珍しかったから、嬉しかったのだけどね」
恋人に会いたかったとしがみつかれて、嬉しくないはずがない。
柔らかで温かな身体。香る花の匂いに、静かに込み上げる情動。
会えなかった切なさを隠そうともせず見つめてくる娘の意図しない上目遣いが、ヴィルヘルムの中の理性を焼き切った。
まだ、そこが部屋の入口であるとか、彼女をもう少し落ち着かせようとかそう言った考えは一瞬で押しやられ、心の望むまま手を伸ばす。
両手で花のかんばせを包み、屈み込んで唇を触れ合わせる。
驚いたようなリュクレスの吐息に酔い、男はうっすらと開かれた唇にもう一度深く口付けた。無防備な唇のその隙間に舌を這わせる。
戦慄くその身体を宥めるように優しく頬を撫でながら、縮こまる舌を絡めとる。怯えて逃げるのを追いかけ深まる接吻に、いつしかヴィルヘルムは夢中になっていた。
がくんっとリュクレスの膝が落ち、我に返る。口づけを解けば、リュクレスは息も絶え絶えに、ヴィルヘルムの腕の中に倒れこんだ。
「おっと」
はふはふと酸素を求めるリュクレスを抱き上げる。ソファの上に移動させると、その身体を手離すことなく自分もその隣に座った。
「口づけの時は鼻で息をするのですよ」
息の整わない背中をゆっくりと撫でながら、物慣れない娘の耳にそっと注ぎ込むように囁く。
接吻の仕方も知らない娘に、ひとつずつそれを教えていくこと。
それは、ヴィルヘルムの醜い独占欲を驚くほど満たした。獣のような顔を、さすがに見せることは出来ず、力ない恋人の身体を包み込むように抱きしめる。
―――ひと月だ。
触れられなかった期間が、思っていた以上にヴィルヘルムにも堪えていたらしい。
もう少しリュクレスに合わせた優しい触れ合いを続けるつもりだったのに、その温もりに触れてしまえば我慢は利かなかった。
「…国を離れていたので、どうやっても会えないことは分かっていたのですが…それでも、君に会いたかった」
このひと月というもの、同盟国を中心に各国を歴訪していた。多忙さにかまけて、気にならないかと思っていたが、そうでなかった自分に少々笑ってしまう。
月を見れば、水面を見ればリュクレスの瞳を思い出し、海原を、草原をみればリュクレスが喜びそうだと思ってしまう。眠るときには歌声を思い出し…恋人に溺れている自分を、ただ自覚しただけだった。
ようやく、息の整ったリュクレスが顔を上げる。色づいた唇をまた求めたくなるが、熱を持つ頬をそっと撫でるに止めた。
まだ潤んだままの瞳がスヴェライエの水面を思い起こさせる。綺羅々と太陽を映すような輝きに眩しく思って目を眇めた。
「…私も……あの離宮で、ヴィルヘルム様と一緒にいられる生活が、すごく贅沢で、幸せで。いっぱい、いっぱい与えてもらったから、頑張れるって。お仕事覚えることに集中しよう、ここで頑張ろうって思ったんです。…でも。思い出してしまったら、寂しくて…とても、会いたくて…。一緒に秋の庭を見たいって思ってしまったんです」
慎ましい望みが、リュクレスらしくとても健気だった。
王城の中で、ヴィルヘルムと一緒にいられないことがわかっていて、それでも望んだことは、隣で同じ季節を見ることだけなのだ。
けれどそれは、同じ時間を一緒に生きることを望んでくれているということだから。
どんな甘い言葉よりも真摯で、ヴィルヘルムを喜ばせた。
「ああっ!そうだった!」
思い出したようにリュクレスは珍しく大きな声を上げた。
此処へ何しに来たのか、ようやく思い出したのだ。きょろきょろと入口の辺りを見回し床に落ちたままになっている紙袋を見つけると、拾いに行こうと立ち上がる。……いや、立ち上がろうとした。けれど、腰の抜けた身体はまだ膝が立たず、ソファから崩れ落ちそうになったのをヴィルヘルムに軽々と浚われて、元の位置へ戻されてしまう。
「私が拾ってくるから、そのままそこに居なさい」
「す、すみません…。あの、それ、王妃様から…、あ」
「うん?」
ヴィルヘルムが、少し屈んで袋を拾うと、言葉を切ったリュクレスを振り返る。
「あの、外郭の主とか、支配者って…ヴィルヘルム様のことですか?」
きょとりと、ヴィルヘルムが瞬いて、それからくすくすと笑いだした。
「王妃にからかわれましたね。外郭に執務室を置くのは、騎士団ばかりです。支配者とはまた…面白い言い回しをされる」
「でも、入口の衛兵さんは外郭の主と言ったら、変な顔をせずにこの部屋を案内してくれましたよ?」
だから、てっきり、そういう人がいるのだと思ったのだが、ヴィルヘルムの反応を見る限りはそういうわけではないらしい。
綺麗な長い指先で眼鏡のフレームを軽く押し上げながら、彼が微かに笑う。
「まあ、主といいますか…ほとんど、此処に住んでいたからね。私に対する彼らの認識としてはそうなのかもしれないね」
「そう言えば、以前、ソル様にヴィルヘルム様はほとんど王城に住んでいるようなものだって聞いたことがあります」
「帰る必要があまりなかったので」
「…離宮には」
「君がいたから。…君に逢いたくて、離宮に帰っていたのですよ。知っているでしょう?」
ソファに戻ってきたヴィルヘルムが、その手で髪に触れる。甘さを含む声に、先ほどの濃厚な接吻を思い出して、リュクレスは石のように固まってしまった。
ヴィルヘルムは呆れていないだろうかと心配になる。触れる手を厭うわけではないのだ。その言葉もその眼差しも愛おしいと思うのに、強張る身体を自分ではどうしようもできない。
情けない顔をしたリュクレスの頭を大きな手が優しく撫でる。その手と同じように、灰色の瞳も優しい色を浮かべていた。
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫。修道院で過ごしていた君が男との接触に慣れているとは思っていない。…それが嬉しいと思っているくらいだから、そんなに焦ることはないよ。ゆっくりと、近づいておいで」
「…はい」
ヴィルヘルムはリュクレスを本当に大切にしてくれる。
それに甘えていると知っていて、リュクレスはもどかしげに頷いた。
袋の中身を見たヴィルヘルムは少しだけ、驚いた顔をしてそれから、苦笑を浮かべた。
その表情の意味がわからなくて、首をかしげると、彼はそれを無造作に放ってリュクレスに手を伸ばした。
「君の今日のお仕事は、私の相手だそうですよ?」
「ふえ?」
「王から聞いています。王妃の資料室の整理をしたそうですね?」
「…片付けしたほうが使いやすいと思っただけですよ?」
「ふふ。君は資料の片付けが上手と王が褒めていました。おかげで、ここに招きやすくなった」
「…ええと…?…つまり、ここの資料の整理に来てもいいってことですか?」
「いいえ。それに託つけて、ここで君との逢瀬を重ねられる、ということです。人目を忍んで、ね」
一瞬、言葉の意味を考えて、その意味にぽんっと顔が赤くなる。
「嫌ですか?」
わかっていてそう聞く男にリュクレスは勢いよく、目眩がするほど首を横に振った。
クラクラした頭でヴィルヘルムを見上げ、素直に一言「嬉しいです」と笑顔を向ければ、彼は溶けるように微笑んだ。




