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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
二部 夜の帳と水鏡
105/242

8



夜は明けたのに、室内の薄暗さは変わらない。

起き抜けの震える指に気がついてリュクレスはぎゅっと手を握り込んだ。

減っていた悪夢にまた悩まされ始めてから、そろそろ2週間にはなろうか。毎日でないことが救いだけれども、自分の身体が引き裂かれる夢に、過去の記憶が痛みを呼び起こす。

…ただの幻覚だと思いたいのに、ズキリとこめかみを走る痛みが不安を煽る。リュクレスは枕元に置いていた匂い袋を手に取った。緊張緩和のために持ってきたものだが、役に立った。頭痛を収める効果も持つ芳香薬草は不安定な感情をも安定させてくれたから。

リュクレスは与えられた部屋の窓から、外を眺めた。


「雨かな。それとも、雪…?」

部屋の中でさえ、窓際はひんやりとした冷気を伝え、零した吐息さえ白くなる。

空には、灰色の雲が垂れ込めて重たく沈む。太陽の光さえも遮る分厚い雲が、今にも泣き出しそうに見えた。

短いオルフェルノの秋は終わり、季節は冬を迎えようとしている。


王宮に上がってから、あっという間にひと月が立っていた。


とても忙しかったのだ。環境に馴染むこと、仕事を覚えること。部屋に帰ればへとへとで、着替えたら早々に寝台へ潜り込む毎日。

「もったいないことをしちゃったな…」

短い秋を、その空をどのくらい見つめることが出来ただろうと考えれば、残念なくらいに目の前にあることしか見えていなかった自分にため息が漏れる。

南の庭園の数多くの植物。植林された広葉樹が赤く色付いたのを、回廊から庭を眺めて歩きながら、ヴィルヘルムと一緒に見たいと出来もしないことを心の中で望んで。

もう、紅葉は終わってしまっただろうか。

そんなにもヴィルヘルムと会えていないのだ。

さらりとした紺青の髪の感触が指先に甦る。

同じ灰色でも、見上げる空と彼の瞳ではまるで色合いが異なる。銀に輝くことは少なく、けれど虹彩は野生の狼のように鮮烈で。

静謐とした輝きに熱が籠れば…もはや目を離すことなどできない。

…囚われる。

あまりに鮮明な記憶に、その存在を心は求めてやまないから。

触れられない熱に、記憶をなぞる指先が硝子の冷たさを伝えた。

窓硝子に額を押し付けて目を閉じる。

ずっと傍にいてくれた人と、会えなくなる寂しさを、忙しさが誤魔化してくれていたから、ぽつんと空いた時間の隙間が、…どうしようもなく人恋しい。

つんと鼻の奥が痛む。潤みそうになった目を慌てて窓から離れて誤魔化す。

窓辺から離れて、机の上に置いておいた箱を手に取った。

開けた箱の中には、たんぽぽのペンダント。無機質な硝子の中にある黄色い花の可憐さに少しだけ心を慰められる。

逢いたいと口にしたなら、もっと寂しくなりそうで、リュクレスはペンダントをつけて服の下に仕舞い込むと、身支度を整え始めた。

まだ少し早いが、部屋を出る。

寝台と小さな机、鏡台、そしてクローゼットしかない小ざっぱりとした部屋を、振り返り、忘れ物がないかを確認すると、静かに扉を閉めた。

こんなにもヴィルヘルムと離れていたことなど、そう言えば初めてだ。

歩き出しながら、ぼんやりと回想する。

冬の最中に、リュクレスはヴィルヘルムの元へとやって来たのだ。


もう少しで季節が一巡する。


季節は巡るが、同じ時間は繰り返したりしないから。

無為に過ごしていた覚えはないが、それでも季節を大切にしたいと思ってしまうのは田舎育ちゆえ、なのだろうか。

王妃の部屋へ向かう廊下には窓がない。広々とした廊下の豪奢な壁は天鵞絨のクロスと大きな絵画、金細工で飾られていて、繊細でそれでいて派手な装飾を、綺麗だとは思うがリュクレスは少しだけ苦手だった。空と風の精霊たちが描き込まれた天井画には開放感よりも圧迫感を感じてしまう。

余りにも場違いな世界。ひと月経とうとも、馴染むことは難しい。

心細さは王妃と王、侍女長、4人の侍女達のおかげで随分と薄らいでいたが、それでも。

(ごめんなさい。ヴィルヘルム様が、恋しいです)

誰にともなく謝ってしまいながら、部屋の前で一度立ち止まる。

大きく深呼吸をして、自分の両手で頬をぱちんと叩く。

気持ちを切り替えて、王妃の部屋の扉を開いた。






「…え?外郭へ、ですか?」

「ええ、お願いできますか?」


渡された書類を両手に持ち、リュクレスはルクレツィアと書類を交互にみやった。

王妃付きの侍女の仕事の中に、王妃の連絡係やお使いという仕事もある。初めて任される仕事に、リュクレスは背筋を伸ばした。

「どなたにお届けすればいいですか?」

「外郭の主…いえ、支配者へお願いしますわ。そう言えば外郭の兵士たちも彼の執務室に案内するでしょう」

ルクレツィアは意味ありげな言葉をわざと選んでいるようだ。優雅で美しい微笑みなのに、どこか含み笑いを感じるのは気のせいじゃないはず。

リュクレスは少しだけ、顔を引きつらせた。

「は、はあ…、なんだか怖そう、ですね…」

「ふふ、大丈夫ですよ。取って食われはしないでしょうから」

王妃の満面の笑みが、逆に怖い。

だからと言って嫌というわけにもいかないから。

…女は度胸だ、とリュクレスは覚悟を決めて執務室を出た。

「いってらっしゃい」

最後の楽しそうな言葉がちょっとだけ恨めしい。

王宮から外郭に繋がる回廊からは、南の庭園がよく見える。

秋までは色鮮やかだった花壇も今ではもう緑以外の色彩は少ない。手入れされた庭には落ち葉もほとんど見えないが、葉を落とした枝がなんだか寒々しい。

そうか、この庭では木の葉は木々の栄養には使われないのか。

代わりに焚き火にでも利用されているといいのだけれど。

…そんな風に別ごとを考えていないと緊張に足取りが鈍りそうになる。

華やかな王宮の建物と違い、外郭の壁は外と同じように無骨な石組みだ。入口に立つと、見張りの兵士にぺこりとお辞儀をした。

「…王妃の使いで参りました。外郭の主にと、文書を預かってきております。お通しいただけますか?」

噛みそうになる舌を必死に回して、カナンに言われた通りに言葉を並べる。

「新しい王妃付きの侍女ですね?」

「はい」

「お疲れ様です。どうぞお通りください」

「ありがとうございます」

慣れない侍女がやってきたと感じたのか、とても優しく見張りの兵士はリュクレスを通してくれた。それどころか、懇切丁寧に部屋の場所も教えてくれる。

相槌を打ちながら、場所の把握をするともう一度、親切な兵士に感謝の言葉を述べて、目的地へと向かった。

…魔王の城へ向かう勇者は、こんな気分なのだろうか。

子供たちに読んでとせがまれる本は、だいたい二つ。女の子はお姫様と王子様の物語。そして男の子達が好むのが魔王を討伐する勇者の物語。

読み聞かせながら、いつもハラハラドキドキしてしまうそんな物語の山場を思い浮かべて、たどり着いてしまった扉の前でひと呼吸。緊張に震える手でその重厚な木の扉を叩いた。

無言で開かれた扉に目を見開く。中から伸びた手が、リュクレスの身体を攫った。

扉が閉まる音に我に返れば、…リュクレスは大きな身体に包まれていた。

抵抗する間もなく、けれど、驚きすぎて、動けない。

「…会いたかった」

低い声音でしみじみと囁かれた言葉に、リュクレスの金縛りがようやく解ける。

じんわりと、広がる安堵に声を漏らし、その体温が愛おしくてリュクレスは男の胸に顔を埋める。

「ヴィルヘルム…様だぁ…」

大きな身体のその背中に腕を回す。

我慢できなくて、子供のようにぎゅうぎゅうとしがみついた。

「寂しい思いをさせてしまってすまない」

名を呼ぶだけで精一杯だったリュクレスは、ただ首を横に振る。否定する行動とは裏腹に、その手は皺になってしまいそうなくらいヴィルヘルムの上着を握り締めてしまう。

「…どうしよう」

「うん?」

「私、ヴィルヘルム様が傍にいてくれることが当たり前になっちゃってたみたいです…」

我儘なこと言ってごめんなさい。

泣きそうな顔で、そんな風に謝るのはずるいとわかっているのに。

こんなふうに甘えないで、心配させないように、頑張っている姿を見せたかったのに。

「謝らなくていい。そんな可愛らしい我儘なら大歓迎ですよ」

聴こえてくる声が嬉しそうに、リュクレスをもっと強く抱きしめてくれるから。

力強いその腕に負けないくらい、リュクレスもぎゅうと強く抱きついた。

寂しかった。

恋しかった。

逢いたくて、逢いたくて。息ができなくなるくらい、胸が締め付けられる。

心臓が歓喜の悲鳴を上げて、不規則に鐘を打つ。

その声が聞きたくて、目を合わせて笑い合いたかった。

温かい腕を欲していたことに、リュクレスは自分がこんなにも貪欲だったのかと初めて自覚する。

途方に暮れそうなくらい、ヴィルヘルムが恋しい。






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