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紙面に載る「怪物」の文字。
ヴィルヘルムは険しい表情で、届いたばかりの報告を読んでいた。
2箇所の別々の場所からの報告に、同じ言葉が並ぶ。
ひとつはハラヴィナ港を有する交易の街ルクセイア。そして、もう一つはアズラエン領内のウェナ河に隣接する領域。共に交易の要として重要視される拠点であり、警備も王都並みの厳重に敷かれている区域である。
「まさか、その名を国内で聞くことになるとは思わなかったな」
「容易く侵入を許し、申し訳ありませんでした」
頭を下げるソルに、ヴィルヘルムはあっさりと頭を上げさせる。
スナヴァールに集中しすぎた代償だ。ソルに落ち度はない。
「亡国カフェリナの亡霊か…」
闇商人の首魁と言えば単純すぎるか。
怪物、と。
正体がわからず、そう言われている相手。
王国を裏で動かし、国一つ破滅に導いた人物。
滅びた国はオルフェルノ王国の西の海を渡った先にある。それほど大きな国ではない。だが、資源に富み、以前は裕福な国であったという。国交のなかったオルフェルノとはほとんど縁のない国であった。
それでも、その国の名は知らぬ国がない程に広く知れ渡っていた。堕落し、張りぼての栄華にしがみついた古き国、多くの国が唾棄するほど嫌悪したその国の名はカフェリナ王国。
奴隷国家として悪名高かった国はつい2年前に崩壊した。王は国の労働力を奴隷で賄い、荘園の利益は全て貴族たちが絞り取り、金となるならば自国の国民すら商品として国外に売り飛ばした。
墜落するような急速な衰退に、王侯貴族たちだけが気がつかなかった。気がつこうともしなかった。華々しい豪奢な宮殿の中しか彼らは見ていなかったからかもしれない。気がついていた者も、傾廃の奔流の激しさに現実を受け入れられず見て見ぬふりをするしかなかったのだろう。
彼らを取り巻くものが全ての憎悪となった瞬間、暴動は国をなぎ倒した。
あの国はまだ混迷を続けている。
「スナヴァールといい、怪物といい、名無しが関わると碌なことにならないな」
名無しは元傭兵の集団だ。他国との関わりが深い分、国外の犯罪集団と組織だって計画されるものは、オルフェルノ王国自体を揺るがせる。
「壊滅させても変わらないとは思わなかった」
ベルンハルトがいらいらと髪を掻き回した。
人身売買、奴隷貿易それ自体、不愉快にしか感じないベルンハルトは、冷静な顔をしているヴィルヘルムと無表情のソルを見回した。
特定の誰かが被害に遭っていない分、ベルンハルトの方が客観的な観点でこの状況を把握している。だが、彼らはどうなのだろう。
彼らの大切にしている人物がその渦中にいる事実に、苛立たしさを募らせてもおかしくはないだろうに、相変わらず個人的な感情は表に出さない。
クセのないさらりとした紺青の髪をかきあげ、酷薄とした瞳は少し考えるように一点を見つめた。それから、ベルンハルトに視線を投げる。
「包囲網を絞っている。奴らに以前のような周到さはない。ある程度は早々に片付くだろう。だが、怪物と手を組んでいる方は、なかなかに慎重のようだな」
「怪物と言われる人物の特定が出来ません。本当に亡霊のようですよ。全然正体がつかめない。にもかかわらずカフェリナで培った市場での影響力は非常に大きい」
ソルが答えた。
情報がない。
これほどの影響力を持ちながら、怪物は常に闇に隠れて表に現れることがないのだ。
数少ない接点たり得る者たちも、怪物を恐れて誰も口を割ろうとしない。
「少々強引な手段を使えば、あるいは。許可を?」
黒曜石の瞳に物騒な光を瞬かせた侍従は穏健な対応を諦めたようだ。
将軍はなんの迷いも見せずにそれを承認する。
「構いませんよ。そろそろ商人の捕縛も彼らの知るところでしょうから、殺されないように注意しておいてください」
「わかりました」
ソルの返事に頷いた後、ヴィルヘルムが改めて副官へと顔を向ける。
「ベルンハルト、王命が出てからになりますが、今後同盟国との連絡調整に入ります」
「調整?」
「奴隷市場を凍結させる。この国だけでなく、同盟国全てのだ」
「他国に口出すつもりか」
ベルンハルトは息を飲んだ。それはオルフェルノに火種を生む行為だ。
「今思いついたことじゃない。数年前から動いていたことだ。奴隷廃止はどの国でも考慮されている。特にカフェリナの非道とその報復を見た国は、明日は我が身と戦々恐々だろうからな」
皮肉げに口角を上げて、言葉にしないが自業自得と思っているのは明らかだ。
「報復を回避し、円滑に奴隷を解放することで王家の支持を高めたい国は多い。故にどの国からも概ね否定的な答えは返ってきていない」
無策なところに、ある程度の施策を与えれば、相手は易々と飛びついてくる。
「あの戦争の最中いつの間にそんなところまで手を回していた?」
「戦うことだけ考えている訳にもいかないからな。戦争が終われば、孤児や寡婦が増える。彼らを奴隷にさせるつもりは、ありませんから」
国政を考える者として、広く考えればヴィルヘルムは人道的な国王補佐だ。だが、少数の犠牲を厭わない冷酷さも持ち合わせるから、戦うことを否定しない。
「ソルは王都から出しません。諜報部隊には指示は出した。…怪物の目的が知りたい」
「商売じゃないのか?」
「それほど単純ではないでしょう。でなければカフェリナを滅ぼす意味が分からない」
彼らにとっての温床とも言えるあの国の廃退を急速に進めたのは明らかに、怪物だ。
そして、オルフェルノ王国は身分制度はあれど、数少ない奴隷をもたない国の一つである。人身売買も公に禁止され、監視も厳しい。交易国としての利点よりも、活動制限のほうが強く、拠点にする利益は少ない。
今の情報からしても、怪物はオルフェルノに新たな市場を作ろうとはしていない。
だが、奴隷商人達が捕縛されたと知っても、この国から出ようとしない。
この国にこだわる理由。ヴィルヘルムが知りたいのはそこだ。
「まさか、あの娘が目的だとでも?」
「全てではないでしょうが、それが目的の一つであることは確か、でしょうね」
灰色の瞳は氷のように冷たく輝くのに、その奥に秘めたる緋色の感情。
違和感に、ああ、そうかと、ベルンハルトは理解した。いつもよりも砕けない口調だ。
腸が煮えくり返りそうなほど、この上司は腹を立てている。けれど、努めて表に出さないよう、膨らむそれを、言葉を選ぶことで考えて収めているのだ。
チェルニで遭遇した誘拐事件に端を発し、各地で誘拐の実態調査と名無しの探索が始まった。その中で、ギルドの協力によってもたらされたひとつの情報。
「賞金稼ぎ達が藍緑の瞳を持つ娘を血眼になって探している」
闇ギルドで破格の報奨金を掛けられると知るや、ヴィルヘルムはリュクレスの周囲の警戒を強化させた。
娘に執着を見せていたスナヴァールの元寵姫ならば、リュクレスの所在を知っている。故に、マリアージュが依頼人である確率は少ない。そして、チェルニでの一件も関係者は全て捕らえられているから除外できる。
賞金をかけた謎多き依頼人を調べれば、その法外な金額に対して全くと言っていいほど正体がしれない。それはまさに「亡霊のよう」と、「怪物」を語るときに使われる飾り言葉が引き出されるに至って、ヴィルヘルムたちは依頼人の正体が怪物であると確信することになった。
どこで彼女のことを知ったのか、賞金をかけてまで手に入れたい理由は何か。
可能性が高いのは、王暗殺に関わった名無しだろう。彼らであれば、リュクレスの容姿を知っていてもおかしくはない。だが、法外な金額を掛けてまで、彼女を狙う理由はやはり不明なままだ。商売とは異なる偏執を感じるのはベルンハルトだけではないのだろう。
…ヴィルヘルムの険のある雰囲気に、流石に彼女を囮にすることはなさそうだと、ベルンハルトは胸を撫で下ろす。会ったこともない娘だが、以前のこともある。これ以上辛い目にあっては欲しくない。
「彼女の身柄はまだ離宮にあるんだろう?元の居場所に帰すのか?」
「まさか。この王城で保護します」
「…監視でもする気か?」
まだ開放してやらないのか。
少しだけ非難するような眼差しを向ければ、ヴィルヘルムは苦笑した。
「お前には言ってなかったな」
「なんだ?」
「彼女は俺の婚約者だ」
「……は?」
なんの冗談かと思うが、この男、その手の冗談は嫌いだ。
「この間の休暇中に結婚を申し込んだ」
あまりに淡々と話すから、口が開きっぱなしになってしまう。
哀れそうな顔でこちらを見るのはやめてくれと、ベルンハルトは思う。
嬉しそうにするだとか、顔を赤くするだとかすれば可愛げもあるものを。…いや、前言撤回。そんな怖いもの見たくはない。
「……で、なんの惚気だ、それは」
脱力してそう言えば、ニヤリと人の悪い笑みを将軍は浮かべた。
「お前が心配するようなことはない。確かに、彼女で釣れば一番効率よく怪物は釣れるだろうが…」
「おい」
冬狼将軍は必要ならば非情になれる。婚約者であっても必要であれば使うだろう。
だが、そんな嫌な予感は、あっという間に霧散した。
ゆっくりと変わるヴィルヘルムの表情には苦々しさが残り、そこに笑みの残滓はない。
「…俺がもたない。離宮から出すのさえ嫌なのに、何かあったらそれこそ後悔なんかじゃ済まない」
感情を消した平坦な声に、それが彼の本音なのだとベルンハルトは目を見開いた。
「今日から王妃専従の侍女として王宮に上がらせた。スヴェライエの中までは流石に手は出してこないだろう。保険にソルも王城から出す気はないからな。仕事を頼むなよ」
「と、言うことらしいので、俺は城内で彼女の護衛に回ります。誤解のないよう衛士達に通達をおねがいします」
しれっとしているソルからも非常にやる気を感じられて、いささか呆れる。
「そんなに大切なもんを良くも一度とは言え囮に使ったな」
その言葉はどうやら、ざっくりと悪友の傷を抉ったようだった。
「…そうだな。生きてきて初めて後悔という言葉を噛み締めているよ」
初めて見る顔に、驚くよりも苦味を感じて、ベルンハルトは口を閉ざした。




