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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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9



ソルに冬狼将軍が来ると聞いた時には、凍るほどに緊張したというのに。

昼食後、2階の与えられた部屋に戻ってみれば、穏やかな日の光に、窓の隙間から入る風が心地よく、いつの間にかソファの上でゆらゆら船を漕いでいたらしい。

くすくすと小さな笑い声に気が付いて、微睡の中ぼんやりと声のした方を見ると、部屋の入り口にヴィルヘルムが立っていた。笑いを堪えている彼の姿に、一気に目が覚めて、リュクレスは慌てて立ち上がった。

(あ、まずい…)

右足に力が入らない。踏ん張りのきかない身体は、崩れ落ちるように倒れ込んだ。

衝撃に構えるように目を閉じると、とっさに逞しい腕が身体を支えた。

「とっ、危ないですね。大丈夫ですか?」

「…大丈夫、です」

突発的な転倒と、揺るぎなく自分を受け止める腕に、心臓が大きく波を打つ。

「本当に?」

痛いくらいの鼓動は、支える男にも響いていたらしい。ヴィルヘルムは、リュクレスの身体をソファに戻すと、その隣に座り、心配そうに覗き込んだ。

「驚いた、だけなので」

まだ早鐘は収まらない胸を無意識に押さえるリュクレスの背を男の大きな手がそっと撫でた。まるで看病するような優しい手のひらの暖かさに、次第に心音は落ち着いてゆく。

「ありがとうございました。もう、治まりましたっ…!」

見上げれば、思いのほか近い距離にヴィルヘルムの顔があり、リュクレスは驚いて後ずさった。

「君の様な子供を襲いませんよ」

「えっ?!いや、あの…っ。ただ、驚いて…っ」

動揺しすぎて、リュクレスは自分が何を言っているのかわからない。あたふたと、手振りを加える姿は完全に取り乱している。面白そうにそれを眺め、ヴィルヘルムは目を細めた。真っすぐに瞳を覗き込む。

「君の瞳は夜より明るい所で見るべきですね。とても綺麗な色だ」

ヴィルヘルムの唐突な言葉に、リュクレスはきょとんとして、動きを止める。

それから少し嬉しそうに表情を緩めた。

「ありがとうございます、母譲りなんです。でも、将軍様の髪の色の方がとても綺麗、です」

紺青の髪は確かに珍しいものだ。光にあたると青が透けて鮮やかになる。

ヴィルヘルムはありがとうと言って、苦笑を漏らす。

「そう、その将軍様、というのをやめてもらえますか?どうにも、慣れません。…すごく年寄りになった気になる」

「す、すみませんっ」

「いや、謝る必要はないですが。名前で呼んでいただいて構いませんよ」

「え」

「オルヴィスタムは言いにくいでしょう、ヴィルヘルムで構いません。君は今回私の相棒ですからね」

「相棒、ですか?」

「そう、君が下りたらこの計画は終わりです。何もかも君にかかっている」

「…途中で降りたりしません。だって、将軍様困るでしょう?」

「そうですね、困ります。ですが、君を信じると決めたのでそれに関してあまり心配はしていません。今後、一蓮托生、という意味で。私は君を相棒だと思っていますよ」

言葉で縛ろうとする計算された会話に、試されていることに気が付きながら、リュクレスは「はい」と頷くだけだった。

そんな風に試さなくても、裏切ったりしませんと、伝えたなら。

この人に、信じてもらえるだろうか?

にわかにそんな期待を抱きながら、反面、用心深いヴィルヘルムの信頼を得ることが容易でないこともわかっている。

分かっていても、胸に刺さる棘は痛いものだから。

誤魔化すように曖昧に笑って、話を変えた。

「そういえば、ソル様から聞きました。明後日のこと…」

「ええ、もろもろの準備が整いました。君にもそろそろ準備をしてもらわなければなりません」

「準備…?」

何かあっただろうか?

思い至らず窺う様にヴィルヘルムを見れば、彼は右手を伸ばしリュクレスの髪に触れた。手で、指で後ろに流すように髪を梳く。

「この間も思いましたが手触りの良い髪ですね。きっちり結ってしまうのは勿体ないな…」

肌のどこにも直接は触れていないのに、頬を掠めるその掌に、段々顔が赤くなる。

指の長い綺麗な手。繊細そうに見えるのに、剣を握るその手はとても大きい男の人の手だった。

「あ、あの…?」

少し高い位置にある秀麗な顔に、逞しい身体。慣れない距離感がどうにも落ち着かない。

少女のうろたえぶりに気が付いているだろうに、ヴィルヘルムは距離を取ることなく薄ら微笑んだ。

「偽りとは言え、王の愛妾役です。身形もそれなりにしないと。衣装はクローゼットに入れてありますから、明日からはそれを着てください。間違ってもその姿ではいないように」

「え…と、着方がわからないのですが…」

トゥニカ姿の自分を見て、それから貴族然とした男を見上げる。

リュクレスはドレスをほとんど着たことが無い。この屋敷に来る際に、着て来たドレスが、初めて着たものになるが、あの時は侍女達に無理やり着替えさせられたのだ。脱ぐことは出来ても着方など覚えていない。

「今準備してあるものの中に、簡素なものをいくつか選んであります。着る順番などはソルが説明しますし、その細さならコルセットなど付けなくてもいい。一人で着られないことはないでしょう。明後日以降になれば侍女の手伝いもありますから、心配は無用です」

「は、はあ」

これはソル様を頼りにするしかない。

情けなさそうな返事に、不機嫌そうな声音が落ちてくる。

「さすがに着替えは手伝いませんから、自分でやってくださいよ」

ティーセットを片手に、ため息を吐くソルがそこに居た。

何時の間にと思うものの、隣にいるヴィルヘルムは驚いておらず、どうやら気が付かなかったのは自分だけらしい。

「ちゃんと、ノックして入ってますよ。君が迂闊すぎるんです」

「ソル様!私一人で着替えられそうでしょうか…?」

ヴィルヘルムと二人だけだった室内にソルがいるだけで、肩の力が抜ける。

いろいろ注意されているものの、溢れてくる安堵感に、今一番の不安を口にすれば。

彼は静かにお茶の準備をしながら、口元で笑った。

「釦を留めることが出来て、リボンが結べれば着られる服を用意しておきます」

そのくらいならできるでしょ?と言葉なく尋ねられるから、安心したようにリュクレスも頷いた。



そんな二人のやり取りを無言で眺めていたヴィルヘルムは、意外な思いで部下を見やる。

長い付き合いだがソルが誰かにあんな風に笑いかける姿など見たことが無い。

彼は自分の感情をあまり表に出さない。

その彼が、たった半月で絆されたのか。

その事実はあまり好ましくないと頭では判断する。

だが、ソルの前で緊張の解けたリュクレスの笑顔を見てしまえば、その理由もわからないでもなかった。

あんな、あどけない笑顔を向けられたら。

警戒なんてしようとも、続けられるはずもない。

ふと笑ったヴィルヘルムに、リュクレスは自分の失態に気が付き、慌てて頭を下げる。

「す、すみません。話の途中に。あ…」

そこで、ようやくもう一つ、大失態に気が付いた。

平民の中でも低い立場リュクレスが、貴族の隣で座るなど有り得ない。

焦って降りようとした身体は、誤ってソファから床に滑り落ちた。

膝を打つ鈍い音に顔を顰めたのは、少女ではなく二人の男の方だった。

リュクレスが、もう一度謝罪の言葉を口にする前に、ヴィルヘルムは手を伸ばす。

その身体を掬い上げるとソファの元の位置に座らせた。リュクレスを正面から見据える瞳は、厳しさを孕むものだった。

「私の前で膝を突くのはやめなさい。己の前に膝を折られなければ自分の立ち位置が確認できないほど、私は愚かなつもりはありません。」

「あ…」

そういうつもりではなかったと、リュクレスは驚いたように顔を上げ、ヴィルヘルムの声音に混じる微かな怒りに、声もなく悄然と肩を落とす。

「…怒っているわけではありませんよ。しいて言えば、それが当たり前だった君の周囲の環境が腹立たしいだけです」

「はい…」

彼はリュクレスの頭に慰める様に手を置いた。

貴族の前で膝を突く礼。

アルムクヴァイドがすでにその礼儀を廃止し、今は行われていないものであると彼女は知らない。今それを望むのが優越感に浸りたい一部の貴族のみであることも、リュクレスは知らず、その所作を当然の様に行う。咎められることに戸惑いを浮かべるほどにそれは彼女の中に浸透している。

…ヴィルヘルムにはその事実が、苛立たしい。

また怯えさせてしまったと、少し申し訳なく思いながらさらさらと揺れる黒髪を撫でる。

光の中では栗色に近い色素の薄い艶やかな、細い髪。形の良い頭に手を置いたまま。

「膝は大丈夫ですか?結構な音がしましたが…」

ヴィルヘルムの労るような言葉に、リュクレスは自分の膝に目を落とす。

大して痛みは感じない。

「大丈夫です、痛くもないし…」

そう言って膝を確認しようと裾をたくし上げる。その行動に狼狽えたのは男達の方だった。

「…男性の前で素足を晒すのはよしなさい」

「…青痣でも出来てたらいけません。冷やすもの準備してきます」

それは素早く、裾を下ろしたヴィルヘルムと、態の良い理由でその場から逃げたソルと。

そう、いくら見た目が子供であろうとも、目の前に居るのは年頃の娘のはずだ。

見た目に相応の、色っぽさとは無縁の邪気のない行動に、見ているこちらがハラハラするというのはどういうことだ。

「…市井の女性は足を晒すのは一般的なのですか?」

「魚を取ったり、水に入る時は膝上まで裾を上げることは多いです。あと、木登りの時とか。だから、…多くはないですが必要に迫られればよくあることだと思いますけど…」

肌を晒すその理由が、生活に即した日常的なものだから、リュクレスには何の抵抗もなかった。今も膝が何ともないと知らせようとしただけだ。今までの生活を話しながら、ヴィルヘルムを見ると、彼は呆れた顔をしていた。

「生活が全く違うのは理解しました。君が思いの外お転婆なのも。…君にその気がなくとも、その様な行動は男を誘っているのと変わらない。男は勝手に理由を作って誘われる生き物なんですから。貴婦人の様な振る舞いは求めませんが、ただ、もう少しだけ、警戒心を持ってください」

そこまで言って、あまりよくわかっていなさそうに頷く少女に嘆息する。

「なんだか、さっきから君を叱ってばかりいる気がしますが…別に、虐めたいわけではないですよ?」

「わ、わかってます。すみません、考えなしで行動してしまって…ごめんなさい」

修道院では物静かな方であったはずだが、ここに来てからやる気やいろいろなものが空回りしてまるで落ち着きのない子の様な失敗を重ねている。

落ち込んでしょんぼりと謝るリュクレスに、ヴィルヘルムは苦笑を漏らした。

「突然、生活環境も習慣も変わるのですから、戸惑うのも仕方がないことです。あまり、我慢ばかりさせるのも本意ではないのですが…」

「いえ、そんなに我慢しているわけでは…」

少し考えるようにくるり、室内を見渡し、それから窓の外をみた。

綺麗に見渡せる庭に目をやると、何か思いついたようにヴィルヘルムを見た。

「あ、あの、将…ヴィ、ヴィルヘルム様。一つお願いがあるのですが…」

また将軍様と言おうとして、ヴィルヘルムの生ぬるい視線に、慌てて言い直す。

「ほう。…どのようなことでしょう?」

「庭の薬草とかって、収穫してもいいですか?」

「…はい?」

「えーっと、この庭、いっぱい薬草や、匂い袋とかに使う香り草があるんです。この時期は貴重なものも取れるので、そのまま枯らせてしまうのは勿体ないと思って」

駄目ですか?と首を傾ける娘に、ヴィルヘルムは構えた自分が馬鹿らしくなる。

唐突な願い事は、我慢をしていないと伝えるためのもの。

見返りを求めるわけでもなく、些細な願い事。

…この娘は、こんな風に願うのか。

「構いませんよ、此処に居る間は庭は君の自由にすると良い。ですが、君は何処で薬草の知識を得たのです?」

「ただの聞きかじりです。私のいた修道院は、救護院も開いていたので、修道女の先生たちが、薬草にとても詳しかったんです」

救護院とは病を癒すための施設だ。貧しい者たちの神の家でもある。

聖獣を信仰するこの大陸では、教会が教義を管理し、弱者への救済を行っている。オルフェルノ王国では、民衆を助ける施設は教会だけと言っても過言ではない。

法や施設を整備し、王が救いの手を差し伸べられればよいのだろうが、今はまだ難しく、現実には教会を補助することで、救護院や孤児院の充実が図れるよう動いている。

だが、実際に修道院で生活をしていたリュクレスの痩せた身体を見るに、良い環境であるとは思えない。食事もままならないことも多いのだろう。

ヴィルヘルムもつられて窓の方を見た。

庭を見下ろせる2階のこの部屋は昔、王を迎えた愛妾の寝室だった。今、同じようにリュクレスに使わせているが、彼女はこの部屋を使うことを渋ることなく、納得したように頷いた。窓の向こうに広がる庭園と、周囲を囲む黒い森の壁。

真正面のこの部屋はそれらを一望できる。それを眺めやりながら、少女は遠くを見るような目で、つぶやく。

「この庭を造った人は王様のことを大切に思っていたのかな」

誰かに聞かせるために声に出したのではないらしい。だが、声はヴィルヘルムに届いた。

「…何故そう思うのですか?」

伝わる王と愛妾の話では、女性は王から逃れることの出来なかった哀れな虜囚だったはず。リュクレスはもちろんそんな話を知らないから、先ほどの言葉を紡いだのだろうが、ヴィルヘルムは、その理由に興味を持った。

リュクレスはのほほんと微笑んだ。

「ここから見える庭はほっとする感じがします。休みに来ている王様に、華美なものは余計疲れると思って選ばなかったんじゃないのかな?」

確かに王城内の庭園に比べ、大輪の花や色鮮やかな花は少なく、花壇も全体に落ち着いた色彩がバランスよく配置されている。まるで風景画の様な穏やかな庭に、言われるまで気が付かなかった。

黒い森に囲まれて、鮮やかな緑は瑞々しく、花に負けないほど目を楽しませる。

作為的に王の休息の場を作り上げたのなら、これは確かに完璧な出来なのかもしれない。

「綺麗だけど長閑で優しいお庭。それに、さっきも言ったけど、鑑賞だけじゃなく、薬草や匂いに使えるものもあるし、食用に出来るものも混ざってるんですよ。きっと、王様の身体を気遣って一生懸命手入れしていたのかなって。そうやって見ていると、この庭を作った人は、とても素敵な人だったように思うんです」

健やかな笑顔には、何の影も認めない。彼女は純粋に、王のためにと庭を管理し、王を待つ女性を思い浮かべているのだろう。

決して幸せではありえなかったはずの日陰の存在。

…そんな女性の中にも少しでも幸せを感じる瞬間があったのだろうか。

王の身勝手な独占欲に絡め捕られ自由を失った女性。

愛妾と王の間に、記録に残されたような暗澹たる愛憎劇ではなく、穏やかに思いあう時間が流れていたのだろうか。

控えめな思いやりにあふれた、王の安息の場。

それを作った女性、そんなものに思いをはせたことなどなかった。想像力豊かなこの娘は、年相応の、いや、それ以上の聡明さで周囲の環境や人を見ている。

状況判断の適切さはここからくるのかもしれない。

大人びた眼差しで周囲を見つめ慈しむかと思えば、見た目通りに子どものようなことをし、純粋な言葉を口にする。

そのギャップに違和感と危うさを感じてしまう。

不安定な均衡。

「君はやっぱりもう少し太りなさい」

年相応の姿を見たい。

そうすれば、この危うい何かを感じずに済むのではないか。

そう思いながら、ヴィルヘルムは静かにその横顔を見下ろす。

無欲に、ヴィルヘルムの望むまま、そこにあろうとする娘。

素直で、信用の出来る性質。従順でありながらも、一本芯の通った心。

もし彼女を好ましいか好ましくないかと問われれば、好ましいと、ためらいなく答えるだろう。彼女個人に対して持つ好感はとても穏やかで優しいものだ。

けれど、己の守るもののため、彼女の存在はこれ以上にないほど、都合がよい。

王のために、娘を使う事をヴィルヘルムは躊躇しなかった。



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