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短編集Ⅲ

正しい選択

作者: 有里

 耳朶に、小さな星がふたつついている。シルバーに輝くそれは、髪の隙間から、ちらちらと光を反射する。

「ねえ由香ちゃん、右にはつけないの?」

 台所へお弁当を受け取りに来た娘は一瞬怪訝な顔をして、すぐに、ああ、と納得顔になった。しかし、半ば面倒くさそうな気配を醸している。制服のネクタイを弄りながら、ん~、と生返事をした。

「膿んで、穴塞がっちゃったって言ったじゃん」

「うん、でも、左だけってやっぱり変じゃなあい?」

 娘は、そっかなあ~、と肩を竦めて、バッグにお弁当を仕舞いこむ。然程気にする様子のないその背中について玄関に向かいながら、やはり心配になって声を掛ける。

「ねえ、片方だけにピアスやってて、友達とかに何か言われない?」

 靴を履いた娘が、屈んでいた体をぱっと起こして、顔だけを振り向かせた。きっ、と吊り上がった目と、不機嫌そうに結ばれた唇に、ドキッとする。

「それ、なに。――あのねえ、お母さんの時代みたいに、ピアスやってるからって不良とかヤンキーとか、そういう時代じゃないの」

 じゃあね! と強い口調と共にドアがバタンと閉まった。

 左耳に並ぶシルバーのピアスを見て、思い出すのは、いつもきまって同じ人物だ。中学校時代、三年生最後の数か月を共にした同級生の女の子――飯澤エミ。

 彼女は両親の仕事の関係で海外から日本に帰って来たばかりの、帰国子女だった。短いスカートから伸びる健康的な脚、校内では珍しい茶髪、ハキハキとした話し方、艶っぽい唇、近付けばふわりと香るバニラのような甘い匂い。どれもこれも垢抜けていて、男子も女子も、彼女に夢中になった。休み時間になれば彼女の周りに人が集まり、授業中には誰もがこっそり彼女を観察していた。彼女が齎すものは全て新鮮で、洗練されていた。みんな、それに興味があったのだ。

 けれどそれも、一週間も続かなかった。彼女の高飛車な言動や、態度が、ある女子グループの反感を買ったのだ。

 確かに、彼女は独特だった。海外で生活していた所為もあるかもしれないが、何事にも率直で正直だった。自身のルールに反するものにはNOと言い、逆に自分が認めたものは心から褒める。曖昧さと謙虚さとを信条とする日本人(わたしたち)には、彼女は過激で危険だった。

 だが、彼女の言葉には必ずひとつの筋が通っていて、私は彼女のことが好きだった。冷静に考えてみると、彼女の言い分は尤もなことが多かったのだ。女友達たちは、そんな私や彼女を外国かぶれと呼んでいた。だがきっと彼女たちも、エミのことが羨ましかったのだろうと思う。私たちは知らない世界を知っている彼女が、誰よりもずっと大人びて見えたのだ。

「ねえエミ、耳にやってるのってなあに? イヤリング?」

「ううん、ピアスよ。これ、ボーイフレンドとお揃いなの」

 彼女はいつも左耳に、小さな十字架のピアスをしていた。ふっくらと柔らかい耳朶に、小指の爪ほどもない小さな十字架と、その隣にダイヤみたいにカットされたガラスのピアスがついていた。

「誕生日に、くれたの。エミが日本にいる時も、いつも想ってるって。ペアでピアスをつける時はね、本当は男の子が左につけて、女の子が右につけるものらしいけど、彼、間違えちゃったの。おもしろいでしょ」

 エミの左耳についている十字架と、ボーイフレンドの右耳についている十字架――ふたつでひとつなのだという。結婚指輪みたいだと言ったら、エミはそうね、と笑った。

「素敵!」

「うん、私、幸せ。昨日も彼と電話したの。私のことが恋しいって。私も、早く彼に会いたい」

 男の子と付き合ったことのない私にとって、彼女の話はお伽噺のようでいて、生々しく、私は話を聞きながらよく赤面していた。

「でもさ、片方だけにピアスしてる人ってゲイとかレズなんだって知ってた?」

 そんな彼女の話を聞いていたのかそうでないのか、休憩時間に、クラスの女子が教室の後ろでひと塊りになって、クスクスと笑った。大きな声で、ええ、気持ち悪い、と言い合い、ちら、とエミの姿を見る。エミは素知らぬ顔で、次の授業に使う辞書を取り出していた。

 その女子グループに、クラスでも活発な男子が混ざって、レズってあれだろ、オナベだろ、とおかしそうに声を上げた。手を口元に当てて、女性のような仕草をする。

「それ、オカマじゃん。オナベって、女のくせに男の恰好してる奴じゃないの?」

「でも普段は女の格好して、誤魔化してるんでしょう?」

 クラスは、はしゃいだ笑い声でいっぱいになった。好奇心と嘲るような視線が、エミに集中する。

 エミは伏せていた顔を上げると、無遠慮な眼差しを物ともせず、きっ、と後方のグループへ振り向いた。

「Whatever!」

 ――だから、どうしたっていうの?

 一言、張りのある声が、自信満々に言い放つ。

 英語の意味は分からなくても、エミの声には、一切、有無を言わせない迫力があった。クラスはしんと静まる。私も中途半端に口を開けたまま、エミを見詰めていた。

 エミは毅然と前を向くと、艶やかな唇を緩めて笑っていた。その横顔が、とても美しかった。

「なにあれ、感じ悪い……」

 急激に風船が萎んでしまったように、はしゃいでいた女子たちは、しゅんと大人しくなって、ぶつぶつ文句を言っていた。小さく反発しながら、けれど、その場にいた誰もが、しゃんと胸を張ったエミの背から、目が離せなかったのだ。


「――ねえ、典子。私、来月そっちに行く予定があるの。あなたが都合いい日に、会えない?」

 エミから二十年振りに連絡があったのは、つい昨日のことだ。あの頃、中学を卒業してすぐにアメリカに舞い戻ったエミは、高校、大学を向こうで過ごして、アメリカの証券会社に就職すると、そのまま、当時付き合っていたボーイフレンドと結婚してしまった。その時に一度、エアメールで、エミの結婚を知ったのだった。それから、二十年だ。

 あれからエミは、どんな生活をしていたんだろう。

 私は大学で知り合った先輩と結婚して、子供を産んで、子育てに追われながら主婦をしている。毎日、代わり映えのない、平凡な日常――。一番上の息子は家を出て、ひとり暮らしをしている。来年、高校卒業となる娘は、看護専門学校に進学する。

 年を取った、と感じるのは、こんな時だ。子供たちは大きくなった。

 ただ、それでも、あの頃を思い返せば、いつも最初に思い浮かぶのはあの、エミの横顔だ。鮮烈で、色褪せることはない。決して屈することのない、自信に満ちた笑み――…あの時、十五歳の私は、彼女のような生き方をするのは難しいのだろうと思ったのだ。私は、ああいう風には生きられない。だけど、それでもいいのだと、エミならば言うだろう。そんなの、当たり前でしょ、とも。

「お母さん、お弁当出しておいたから」

 学校から帰った娘は、台所のシンクにお弁当を出して、部屋へ戻っていく。耳朶に、シルバーの星がふたつ、見えた。

「ねえ、由香ちゃんっ…」

「なあに?」

 気のない返事をしながら、娘は振り返る。弄っていた携帯電話から、視線をこちらに向ける。私に似て、とろんと垂れ目がちな目元――。だけど娘の眼差しは、エミのそれに似ていると思う。正しいものを知っている、賢い眼差しだ。

「ううん、何でもない。……夕飯、何がいい?」

 娘は悩むように視線を移すと、しばらくして、ハヤシライス、と言った。

「お父さんはカレーがいいって言いそうだけどね」

 夫と息子は、カレーが好きだった。私と娘は断然、ハヤシライス派だったけれど。

 娘は笑いながら、二階にいるから、と言って、背を向けた。



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