カタツムリの調香師
調香師は、かたつむりの殻の中に住んでいます。
かたつむりの殻は巨大な右巻きで、草っぱらの真ん中に、横倒しに倒れています。大昔に中身を失った殻は、今ではまるで白磁のように硬く、つるつるとしています。
調香師はもう長いこと、ひとりでこの殻の一番奥の、丸い小部屋に住んでいました。天井に四つ空気の孔があるだけの、窓も無い小さな部屋です。
調香師は部屋の真ん中の、渦巻きの中心点となるところに丸いソファを置いて、それこそかたつむりのように身体を丸め、腹の中に頭を抱え込んで眠ります。朝になると殻はお日様の光をいっぱいに集めて、天井を白い雲みたいに輝かせますので、そうすると調香師は丸めた身体をうんと伸ばし、手足の指をいっぱいに広げるのです。
「ああ、今日の仕事は何だ」
調香師は耳の後ろを掻きながら、とても不幸そうに言いました。
そして、部屋の中にまるでサーカスの万国旗みたいにぶら下がっている注文カード(真新しい純白のカードから、茶色く黄ばんだ古いカードまで、とりどりです)の一枚を、ぷちりと気まぐれにもぎ取ります。
「ふん、“開花したての白薔薇”か、つまらん注文だ。こんなものがいいなら、東の森の山羊の糞を乾燥させて、耳の後ろにでもつけておけばいいんだ。あいつらは野ばらの花しか食わないから、庭薔薇なんかよりよっぽどいい匂いがする」
調香師はぶつぶつと悪態をつきながらも、うんと度の強いモノクルをひっかけ、白衣を羽織ります。調香師は毎日泥で身体をくまなく洗う清潔な男ですが、白いシャツに白いズボンの上から目元まですっぽり隠すようなフードつきのローブを羽織りますので、誰もその顔を見たことがありません。調香師自身、もう随分と長いこと自分の顔を見たことがないように思います。そのせいか、なんとなく、調香師は自分がかたつむりの中身そのものになっているような心地がするのです。
身支度が整うと、調香師は道具入れをつかみます。道具入れの中にはスポイトやら分銅やら注射器やら、細かなものがごっそりと入っています。
そうして調香師は、小部屋のドアを開きます。
ドアの向こう側には、ありとあらゆる色のガラスの瓶が、びっしりと隙間なく陳列されています。例えて言えば、国一番の図書館の蔵書が、そっくりそのまますべてガラス瓶に置き換わったような光景です。瓶の中身はさまざま。地獄の沼の泥みたいな得体の知れない液体から、澄み切った初夏の海の色をそのまま切り取ってきたような液体まで。ガラス瓶の形だって、フラスコのようなシンプルな形もあれば、二本足で立ち上がったトカゲをかたどったものまで色々です。小さな涙形のガラス瓶が、落ちて割れないように針金に固定されてずらりと整列している棚などは、まるで天使が奏でる虹のピアノのようにも見えます。
それらのガラス瓶が、右巻きのかたつむりの殻にそって、えんえんとらせんのように続いていきます。調香師はその回廊を音を立てずに歩きながら、注文にあった香りを選び出し、少しづつ、注射器で取り出して紙の上に垂らし、匂いをかいで顔をしかめたり、頷きながら目もりのついた小瓶に垂らしたりするのです。つんと上を向いた鼻をヒクヒクと動かすことだけは、いつだって止めずにね。
***
ある日のお昼時のことです。その日は、折りしも、朝からざあざあと雨が降っていました。
最初は、風の音かと思いました。次に、遠雷かと思いました。ようやく、かたつむりの殻のドアを叩く者がいるということに気づいたのは、最初の一打から随分と経ってからのことでした。
調香師はそのとき鼻の感覚を研ぎ澄ませていました。何しろ、雨の日は邪魔な土の匂いが立ち昇るので、調香には神経を使うのです。その分、耳と目を使うことにはすっかり頓着していましたので、調香師はこのけたたましい音にびょんと驚いて飛び上がると、仕事の手を止めました。
ドドドドドン。
ドアは鳴り続けます。
こんな不愉快な来客は久しぶりでした。調香師の家を訪れる香料商人や仲買人は、みんなこの男の気難しさを知っていましたので、突然尋ねてきてドアを叩くなんてことはしないのです。大抵みんな、男の好きな葡萄酒とチーズを持って、外で待っています(匂いの強い葡萄酒やチーズを、かたつむりの中に入れるわけにはいきませんからね)。そして、調香師の仕事が終わる夕暮れを見計らって、ある者はハーモニカを、ある者はバイオリンを奏でるのです。すると調香師は来客に気づいて中から折りたたみ式のイスとテーブルを持って来ると、久しぶりのお客とともに、久しぶりの食事を取りながら、久しぶりの会話を楽しむのです。
それなのに今日の来客ときたら、楽器を奏でるどころか、金属が擦りあう時みたいなキイキイした声で怒鳴りちらすではありませんか。
「カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェ! 」
なるほど確かに調香師の名前は、カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェといいます。しかし、他人にその名を呼びつけられたのは十数年ぶりのこと。
「私はマルゴー姫です。この国の姫です。今すぐここを開けるのよ」
調香師は両耳をふさぎました。雨脚が強くなり、ざあざあと天井から雑音が降り注ぎます。そこに甲高い女の声が混じり、右回りのかたつむりの殻の中で、うわんうわんと響き渡りました。調香師がドアを開けるまで、怒鳴るのをやめるつもりはなさそうです。調香師は諦めて、長い回廊をしぶしぶと歩き、外界に広がるドアの前に立つことにしました。
「どなたですって?」
調香師はドアごしに問いました。稲光が光り、白いかたつむりの殻が少し透けて、ヤモリみたいな来訪者のシルエットを映し出していました。人影はひとつっきりでした。
「マルゴー姫だと言っているでしょう。さっさと開けなさい、このうすのろ」
薄いドアを隔てているだけなのですから、そんなに大きな声を出さなくていいでしょうに、来客はさらに甲高い声を上げて叫びました。のみならず、やせっぽちの影は、だだっ子みたいに両足を踏み鳴らしました。
調香師は溜息をつきました。ドアを開けなければ、いつまでもこの厄介なお客は調香師の仕事を邪魔するに違いありません。
かたつむりのドアをそろりと開くと、そこには、ずぶぬれの赤い髪を振り乱した、そばかす顔の少女がひとり、立っていました。
***
マルゴー姫は、火山のような娘でした。
長い髪はちりちりで、火口から噴出して広がる火を思わせました。目はらんらんとしていて、大きな口からはとめどなく怒りに満ちた言葉が沸き出てきました。肌は象牙のように白いのに、そばかすがあるせいであまり上等に見えません。お姫様だというのに、馬車もなく、従者もなくて、傘ひとつさしていませんでした。まるでこれでは、家出してきた不良娘です。
だけど、彼女が持っているマブランブルマブラン社の注文カードには、間違いなく王家の紋章が刷り込まれていました。
(ちっぽけな怒りんぼうの人参にしか見えないが、本当にこの子がマルゴー姫なのだな)
調香師はかたつむりの外に大急ぎでテントを張り、折りたたみのイスとテーブルを持ってきて姫を座らせると、しげしげと娘とカードを見比べました。
さっきから、マルゴー姫はずうっと文句を言っています。マルゴー姫によれば、王宮がマルゴー姫専用の香水を調香師に注文したのはもう十年も前のことです。五歳になり、社交界へ出ることになった小さな小さな姫君に、王様は特注の彼女専用の香水をプレゼントしようと考えたのです。
ところが、国一番の調香師・カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェはいつまでたっても香水を作ってくれません。毎年毎年、誕生日のたびに待っているというのに、調香師からは小さな小瓶の一つさえ送られてきません。哀れなマルゴー姫はもう十年ものあいだ、自分の香水を持たずに舞踏会に出つづけるはめになっています。
「あなたに分かって? カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェ! 大きな舞踏会のたびに、借り物の香水をまとわなければならない、わたくしの哀しい気持ちが。すてきな香りに目を細めても、しょせんはわたくしの香りではないと思う時の情けない気持ちが」
マルゴー姫は怒りで目を真っ赤にしながら、調香師に訴えました。調香師は肩をすくめて、姫君に砂糖を混ぜたお湯を差し出しました(紅茶は香りが強いので、かたつむりの家には無いのです)。
「私などの香水でなくともよろしいでしょう。どなたか、これこそがお姫様に相応しいものですよと、香水をプレゼントしてくれる御仁はいなかったのですか」
マルゴー姫は調香師を睨みつけました。
「山ほどプレゼントされたわ。わたくしが香水に夢中だというのが、国中の噂になっていますからね。求婚してくる者は皆、これぞという高価な香水を持ってくるのよ」
「それでは、名だたる香水もあったでしょう」
「いいえ、だめ、ぜんぶだめよ」
マルゴー姫は大きく頭を振りました。結い上げた髪がまたひとつほどけ、空の上で火山が爆発したみたいに、ちりちり髪が広がりました。
「どれも似たりよったりで、お話にならないわ。愛を表す薔薇の香り、純潔を現す百合の香り、切なさを現すすみれの香り、どれもこれも飽き飽きよ。あんなものがいいのなら、みんな、西の森の鶯の糞をつければいいのだわ。そうしたらお望みの香りが全部混ざっているのだもの」
調香師はくすりと笑って、自分も砂糖のお湯を飲みました。
「その点、あなたの香水は違うわ、カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェ。あなたの香水は何で出来ているのかさっぱり分からないの。ミューの伯爵夫人が持っている「虹」という香水がわたくしは一等好き。温度や湿度によって、七色に香りが変わるのですもの。次の傑作はお母様秘蔵の「金色の畑」だわ。何十年も経っているのにもぎたてのオレンジの香りがするのよね。もう一つ上げるとしたら、ディメテル大叔母様が持っている「海岸の思い出」かしら。あの香水を嗅ぐとどういうわけか、目の前に青い海が広がっていくの」
調香師はあっけに取られました。マルゴー姫はえんえんと、調香師がかつて創った香水たちの名前を挙げ、その感想を口にしました。そのおしゃべりは一晩でも二晩でも止め処無く続くように思えました。
慌てて、調香師は「よく分かりました」とマルゴー姫のおしゃべりを制しました。
「いいえ、分かっていません」
マルゴー姫は再び機嫌をそこね、口を尖らせました。
「こんなにもあなたの香水に夢中なのに、あなたはちっともわたくしの香水を作って下さらないのよ。おかげで、わたくしは、わたくしがどんな香りのどんな女なのかちっとも分からないのです」
だから、と、マルゴー姫は手袋をしたままの指先で、調香師を指差しました。
「だから、わたくしは決めたの。あなたに香水を作ってもらえるまで、あなたの側を離れません」
調香師はあっけに取られて、マルゴー姫を見上げました。
マルゴー姫はざあざあと雨を受け止めるテントの中で、少しだけ勝ち誇ったような笑みを浮かべると、白いマグカップの中の砂糖水をぐいっと飲み干しました。
あきれたことに、調香師が出した条件を、マルゴー姫はひとつ残らず受け入れてしまいました。
一つ目は、匂いをさせないこと。いかなる匂いも、かたつむりの殻の中に持ち込むことは許されません。近くの川で身体を洗い、川に溜まる珊瑚を含んだ白い泥で身体と髪を洗い、砂漠で砂あびをし、汗を出して、また川で身体を洗います。そんなことを十日間続けて、徹底的に無臭になるのです。
二つ目は、髪を切ること。髪の毛は、長ければ長いほど何らかの匂いを絡め取りやすいものです。マルゴー姫の、真紅の薔薇に例えられそうな長くて豊かなチリチリの髪の毛であれば尚更です。これを切らなければ話になりません。
三つ目は、服をすべて脱ぐこと。調香師と同じ、白いシャツに、白いパンツに、白いフードをすっぽりと頭からまとうこと。
これらの条件をお姫様が満たすなど、調香師にとっては想像もしなかったことでした。特に二番目の条件は、お姫様が城に戻ろうと決意するきっかけになってくれるはずでした。ところが十日経った朝、マルゴー姫はすべての条件を整えて、調香師の前に戻ってきたのでした。
「言う通りにしましたわ、カルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェ」
チリチリの髪を短く切ったせいで、いまやマルゴー姫は真紅の薔薇の姫君ではなく、真っ赤なポンポンダリアみたいでした。
「さあ、これでわたくしもかたつむりの中に入れますわね。わたくしの香水が出来るまで、あなたと一緒に暮らします。ええ、決して城に戻らないと誓いますわ」
そう高らかに宣言して、マルゴー姫は調香師以外誰ひとりとして立ち入ることのなかったかたつむりの殻の中へと、ずんずん入っていきました。絶望のあまりに頭を抱えた調香師を、ぽおんと押しのけて。
さて、それからというもの、すっかり調香師の暮らしは変わってしまいました。これまでは一週間に一本、少ない時には一ヶ月に一本ほどしか完成品を作らなかった調香師が、毎日のように一本づつ、香水を完成させるようになりました。何しろ、調香師としては一日でも早くマルゴー姫に出て行ってもらいたいのですから、もうやけっぱちです。いつもはかたつむりみたいにのろのろと動く足取りも、最近はとんぼのように素早く俊敏になっています。
それなのにマルゴー姫ときたら、調香師が苦労して創った香水瓶をくんとひと嗅ぎして、必ずこう言うのです。
「すてきだわ。でもわたくしの香りではないみたい」
そうして、調香師の寝室に下がっている注文カードをゆっくりと見回して、そのうちの一つをぷちりとむしるのです。
「この頭が痺れるような悩ましい香りは、今王様の一番のお気に入りとして名高いリッツェン公爵夫人に相応しい香りですわ。名前はそう、蘭と蝶々」
そうしてマルゴー姫は、美しい字でラベルを仕上げると、さっさと完成品の香水を専用の小瓶に移し変えてしまうのです。小瓶は、この家と同じかたつむりの形をしています。外側がプリズムにカットされているので、傾きによって宝石のようにきらきらと輝きます。
調香師が抗議をしようと口を開くと、マルゴー姫は挑発的な目をして、調香師を睨みつけるのです。
「あなたにとって、わたくしはこんなに艶かしい女?」
調香師は恥ずかしくなり、慌てて頭を振ります。
「小ずるくて、何かを企んでそうな女?」
いいえ、いいえ、と、調香師は否定します。
「ではやり直しです。ライ麦のパンと、はちみつのスープを作っておきましたから、外で食べてゆっくりお休みなさい」
こんな日が、幾日も、幾日も、繰り返されました。
寝室の天井からぶら下がっていた注文カードは、面白いくらいに減っていきました。マルゴー姫のために調香師が創った香水は、マルゴー姫によって本当に相応しい持ち主のもとへとどんどん送られていきました。香水の仲買人は思わぬ協力者の登場に飛び跳ねて喜び、しまいにはすべての仕事を姫に任せてしまいました。
調香師の寝室はマルゴー姫によって快適に整えられ、陳列された香料の瓶たちも、すっかり磨き上げられてきれいになりました。
「……すてきだわ」
いつだって、マルゴー姫は調香師の香水を褒めちぎりました。
「でもわたくしの香りではないみたい。まるで朝日の庭園で、すべての花がいっせいに開いたような瑞々しい香りだわ。この香りはそうね、きっと今年隣国に嫁ぐことになる、わたくしの妹、エメラード姫にこそ相応しいわ。名前はそう、早春の露」
「いいえ、マルゴー姫、これは傑作です」
時には、調香師が食い下がることもありました。
「あなたに相応しいと思って創った香水です。これ以上のものは出来ません。どうかもう一度確かめてください」
でも、マルゴー姫は首を振りました。
「あなたの香水は、いつだって傑作です。これ以上のものが、明日にも出来ますとも。それに、わたくしは、わたくしの香りが欲しいのであって、一番できのいいものが欲しいわけではありませんよ」
「でも」
「あなたにとって、わたくしはこんなに若い女?」
調香師は言葉に詰まって、口ごもりました。
「何にも知らない、小娘みたいな女?」
いいえ、と調香師は首を振りました。
「ではやり直しです。新鮮な卵が手に入りましたから、今日はオムレツです。二人で外で食べましょうね」
いつしか、マルゴー姫は、少女ではなくなっていました。
調香師とマルゴー姫がかたつむりの中で暮らし始めて、どれだけの年月が過ぎたでしょう。二人はゆっくりと年老いていきました。マルゴー姫が自分の香水を入れる予定で持って来たかたつむりの香水瓶は、いつしかトェピェの定番の瓶となりました。
国中の娘たちが、今では等しくトェピェの香水を手にしています。
貴族も王族も平民の娘も、トェピェの香水を耳の後ろにつけるとき、とても大人になったような気持ちがします。何しろ、国一番の調香師であるカルロッソ・ゴナ・エレレ・トェピェが調香し、王様の姉君であるマルゴー姫が自分のために選んでくれた、世界に一つだけの香りです。
豪華な髪飾りをつけるよりも、美しいドレスをまとうよりも、香水を耳につけるときのほうが、少女たちは胸が高鳴りました。だって、香水は少女たちを何時いかなる時にも美しくしてくれる、透明のヴェールのようなもの。たとえ一糸纏わぬ姿になったって、香水だけは裏切らずに、彼女たちを優しく後押ししてくれるのですから。
いつしか、彼らの国は花の国と歌われるようになりました。芳香に満ちた、美しい娘たちのいる夢のような国だと、周囲の国々から称えられるまでになりました。
でも、このかたつむりの殻の中は、今も昔も、無臭です。
調香師は、時々、不思議に思います。マルゴー姫の燃えるような赤い髪が灰のように白くなり、そばかすだらけの怒りんぼうな顔がマシュマロみたいに穏やかに垂れた今、ますます、不思議だなあと思うのです。
誰よりも香水を愛し、誰よりも香りに精通したこのお姫様が、ずっと何の香りも纏おうとしないことに。
最近では弟子たちがもっと大きなかたつむりの殻の工房であらかたの香水を作ってくれるようになりましたので、調香師のもとにやってくる注文カードはめっきり少なくなりました。マルゴー姫はゆり椅子に揺られ、のんびりと刺繍を楽しむことが増えてきました。
調香師は香木を削りながら、あの頃のことを考えます。マルゴー姫が来る以前の、渦巻きの中心で丸くなっていた、あのころの孤独な自分のことを。
今やかたつむりの殻は、居住空間のほうが大きいくらいです。二人並んで、足を伸ばして眠る大きなベッドもあります。一週間に一度だけ、かたつむりの殻の中でオムレツを食べるぜいたくを、調香師は自分に許しています。
調香師がぼんやりしていると、マルゴー姫がゆり椅子を止めました。折りしも、かたつむりの薄い殻の上に、ぽつぽつと雨音が響き始めていました。
「この国で香水を持っていないのは、わたくしだけになりましたね」
調香師と同じことを考えていたのか、マルゴー姫が面白そうに言いました。調香師は少しバツが悪くなって咳払いをすると、
「もしも」
と切り出しました。
「もしも私が、今からあなたにふさわしい香水を作り出したとしたら、あなたは城に戻りますか」
マルゴー姫はふうわりと微笑みました。何を言っているのです、という微笑みでした。それだけで、調香師は随分と安心して、大きく息をつくことができました。
雨はしとしとと、何かおしゃべりでもするように、かたつむりの殻の屋根を叩き続けました。年老いた二人は長いことその音を聞いていましたが、やがていつの間にか、本当にいつの間にか、赤ん坊がことりと寝てしまったようにして雨が止みましたので、どちらともなく顔を上げました。
「砂糖湯でも飲みましょうか」
「そうですね、外で飲んだら、気持ちがいいでしょうね」
二人は無臭の砂糖湯を入れると、ゆっくりした足取りで、右回りのかたつむりの殻を外に向かって歩き出しました。
急に雲間から光が差したせいでしょうか。かたつむりの殻の中は、白く霞みがかかったように輝いています。
調香師がドアを開けると、湿った風がさあっと通り過ぎていきました。
すべての細い草花に、雨の名残の涙が、ひとしずく、ふたしずく、残っています。
土から湧き上がるえもいわれぬ香りが、調香師の鼻腔をくすぐりました。
「ああ――――」
調香師は、突然にひらめいて、目を見開きました。そして、マルゴー姫を見ました。
確かに、この香りであるようでした。調香師は確信したくてたまらなくなり、思わずフードを取り去りました。そして、全身でその香りを嗅ぎ取りました。
「どうなさったのですか」
マルゴー姫は目をしょぼしょぼさせて、調香師を不思議そうに見つめ返しています。
調香師は、その香りをまとうマルゴー姫を見つめました。
ふくよかで、生命に満ちた香り。
「いいえ」
と、照れながら答えると、調香師は隣のその人の手を、ぎゅっと握りました。マルゴー姫はそ知らぬ顔をして握り返し、美味しそうに砂糖湯を飲みました。
二人は、そうして夕陽が降り注ぐ中を、長いこと手を握り合って立っていました。