気になる事情
監督の集合命令がかかり、準備運動、軽いランニングを終えた後、光輝がすぐさまマウンドへと追いやられた。
視線を逃れようと俯き加減で、マウンドに走り寄った光輝だったが、ボールを手にした瞬間、彼の周りの空気が一変した。それは彼の表情からと、身体の隅々まで行き渡った緊張感から作りだされるもののように感じた。
両腕を振りかぶり、安定した腰はぶれることなく、まるでしなりのいい弓のようにその右腕を振りおろした。その指先から放たれたボールは軽快な音と共に、見事にキャッチャーミットに吸い込まれた。
ピシッ!
速い……
ギャラリーからはため息が漏れた。
中学生離れしたその身体から繰り出される威力は、想像以上だった。
昼間に見た綺麗なあの爪先から、ボールに無駄の無い力がこめられ、その鍛えられた身体はその為だけに存在する。
やはり彼は……選ばれた人間。
さっきまで、わたしの傍で人の視線を避けていた人物と同一人物には思えなかった。
野球をすることにより、人格が変わる彼の特徴を知ることが出来た瞬間だった。
次の日
「青木君、噂通りだね。わたし、野球のことなんか知らないけど凄いってのがよくわかったよ」
夕べ徹夜で作ったストラップを光輝の机の上にさり気なく置きながらそう話しかけた。
疲れたように机の上にとっぷしていた光輝が、ストラップに目を向けて起き上がる。
「え? もう作ってくれたの?」
「うん」
「ヤッター。早速付けとこ。ありがとね。真樹ちゃん」
こちらを向いてまた、秒殺スマイルを浮かべたので、すかさず視線を逸らして
「あのさ。わたし、真樹ちゃんって呼ばれるの、あまり好きじゃないんだけど」
「そうなの? じゃあ、黒川さん?」
「その名字も好きじゃないし……黒とか暗い気がするから」
「何それ……俺も青木光輝って何か早口言葉みたいで嫌いだけどね。まあ、最近変わったばっかだけど」
最近変わったばっか?
「名前……変わったの?」
「うん。ほら、よくあるでしょ。親の離婚ってやつ」
光輝が無表情で、ストラップの紐に指先を通しクルクルと回す。
「うちも母子家庭だよ」
「そうなの?」
「うん」
同じ家庭環境のせいだろうか、この時、光輝との距離がグッと近くなった気がした。
それから光輝は何も言わず、ただ、指先でストラップをクルクルと回すだけで、別の話題に変えようかと思ったけど、話し掛けられたくない雰囲気に思え、そのままこちらからは何も言わなかった。
こんな二月と言う中途半端な時期に転校してきた意味が少しだけ分かった気がした。
しかも、野球の有名校だと言うT学園から、野球部どころか他の部さえ胸を張れる成績など一つもないこの公立中学への転校だ。
よほどの事情があったのだろう。