第2章 タカシの夢はお笑い芸人? (その24)
「そ、それはそれで、お父さんにとっては良かったんじゃないの?
お爺ちゃんやお婆ちゃんに何かを言われたとしても、そのバイト、お父さんは辞めるつもりなかったんでしょう?
だったら、それですべて丸く収まったってことで・・・。」
孝は、父親が両親から何も言われなかったことをそう受け止めていた。
もちろん、その前提には「自分がその立場だったら」というほぼ同世代の男の子としての感性があった。
「やっぱり、お爺ちゃんに“ラジコン飛行機を買って欲しい”という必要はなかったと?」
父親は、自分の考えとその点が違うんだと言わんばかりな問質し方をしてくる。
「うっ、う~ん・・・、そ、そう思うよ。」
孝は自分の考え方を曲げようとはしない。
「お爺ちゃんにおねだりをするよりも、そうして自分でバイトをして買ったほうが良いと?」
「う、うん・・・。」
「ど、どうして?」
「“どうして?”って言われても・・・。第一、お父さんも、結果としてはそうしたんでしょう?」
「だから、“後悔をした”って説明してるんだ。」
「ぼ、僕だったら、後悔なんてしないよ。きっと・・・。」
「本当に、そう思うか?」
「う、うん・・・。」
この点だけは孝にも自信があった。
ぐちゃぐちゃ言われるぐらいだったら、自分でバイトでも何でもして稼いだ金で買うほうがマシだと・・・。
子供が頭を下げて頼んでいるのに、親は何やかんやと如何にも大人の理屈を並べ立てて、その結果として「だから、駄目だ」との結論へと導こうとする。
いや、強制的にその結論へと追い込んでくる。そう、まるで、牧羊犬が自分の意のままに羊の群れを動かすようにだ。
つまりは「駄目!」という結論ありきで子供との交渉に臨んでくるのだ。
それが分かっているのだから、子供としてはできるだけそうした場面は回避すべきだろうし、事実、そうした対決の場面を意識して避けようとしている子供は多い。
そうした傾向は、何も何かをおねだりするときに限らない。
学校の勉強についての思いや、友人関係、恋愛問題からはじまって、自分の将来や家族との関係までと幅が広がっている。
つまりは、親との会話そのものが非常に軽薄になりつつあった。
孝は、自分にもこうした傾向があることだけは自覚していた。
(つづく)