第2章 タカシの夢はお笑い芸人? (その6)
だが、結局はそれだけだった。
そこから会話が始まるものでもなかった。
彼女は、鞄を置くと、トイレにでも行くのか、教室を出て行った。
(ん! な、何て、好い匂いなんだろう・・・。)
彼女が立ち去った後に、孝はそう感じた。
そう、彼女の匂いがそこら辺りに散らばっていた。
孝は、必要も無いのに、そこで何度も細かく息を吸う。
もちろん、口からではない。鼻から空気を吸い込んだのだ。
そして、それは、彼女の匂いが消えてしまうまで続けられた。
何とも、孝のどこかを妙にくすぐるような匂いだった。
それが彼女を意識した瞬間だった。
それからは、どうしたことか、孝はそれまでよりも早くに塾に入るようになる。
それまでは、授業開始の3分前ぐらいに駆け込むのが常だったが、その日を境に、なんと20分も前からその教室に入っていた。
そして、仲間の席を取る。
当然、そうしたことに気が付かない仲間ではない。
「おい、タカシ、最近はエラク気合入ってるな。」
仲間は異口同音にそうした意味のことを言ってきた。
「ああ・・・、もう、2年の2学期に入ろうとしてるんだからな。
これからが勝負だろ? マラソンで言えば、30キロを過ぎたところだしな・・・。」
孝はそう受け答えをする。
学校の先生だったか、塾の先生だったかは忘れたが、誰かが言っていた言葉をそのままコピーしたものだ。
もちろん、本音はそうではなかった。
あれ以来、彼女はまるでここが自分の席だと決まっているかのように、毎回同じ最前列の席に座るようになっていた。
そう、孝の真横の席である。
仲間が先に来て席を押さえてくれた場合、その時々によって孝の席が微妙に変わることがあった。
以前のように最後に駆け込んだ場合は、当然のことながら空いている席にしか座れない。
つまりは、彼女の真横の席ではない場合が考えられた。
それが分かっていたから、孝は、その日以来仲間の一番先にやってくるようになったのだ。
それだと、自分で席を決められるからだ。
それでもだ。だからと言って、彼女と何かが話せてはいなかった。
彼女は、毎回、いつもの席にやってきては鞄だけを置いて教室を出て行く。
自分の席で授業の開始を待つことをしなかった。
で、殆どの生徒が席に着いた頃、ようやく自分の席に戻ってくる。
その繰り返しだった。
だから、それこそ「ああもすうもない」状況が続いていた。
あの日以来、彼女との会話は一度も無かった。
孝は「それでも構わない」と思っていた。
こうして毎回隣の席に彼女が座っていてくれるだけで満足している部分があった。
彼女の匂いを間近で感じられるだけで嬉しかった。
ワクワク、ドキドキできたからだ。
(きっと、この子だったら、好きな子がいるに違いない。)
そうとも思っていた。
だから、下手なことをして、この隣の席から逃げられても嫌だった。
そうするのも彼女の自由だったからだ。
彼女は美人というより可愛いタイプだ。
いつも私服でやってくるが、その服だって、派手でもなければ決して地味でもない。
それこそ、どこにでもいるごく普通の女の子という感じなのだ。
他の子のように、目立つような化粧をしている訳でもなく、よくは分からないが口紅さえ塗ってはいないのではないかと思えたほどだった。
つまりは、日頃見ている女の子と比べると、とても清楚な感じだった。
(こんな子に限って、好きな子がいるんだ。きっと、そうに違いない。)
孝は、無理矢理にでもそう思うことにしていた。
「高嶺の花」で良いとさえ思っていた。
(つづく)