第1章 爺さんの店は何屋さん? (その29)
「た、助かった・・・。」
おっさん、店を出た途端に思わずそう呟く。
勝田時計店の奥さん、人は決して悪くはないのだが、強いて言えばお喋りが過ぎる傾向がある。
人が1言えば、奥さんは3を言う。それほどまでに口数が多い。
おまけに、今もそうだったが、他人の噂話が大好きなのだ。
適当なタイミングで離れないと、蟻地獄に嵌まり込んだ蟻のようにいつまでも抜け出せなくなる。
誰でもそうだが、「他人事」はなんやかんやと言いたくなるものだ。
自分が言われたら激怒するようなことでも、「他人事」ならば平気で言える。
それが人間だと言ってしまえばそれまでだが、商店会の専務理事という中立的な立場が求められるおっさんにとっては、まさに関与したくない話題である。
で、おっさん、隣の店に入る。
理髪店「米山」である。
「ま、毎度・・・。」
おっさん、そう声を掛ける。
「いらっしゃい! な、なんだ、小池さんか・・・。」
店主の米山信二がマスク越しに言ってくる。
お客かと思ったようだった。
丁度、ひとりのお客の頭を洗っているところだった。
「後にしようか。」
おっさん、本気でそう思った。
今、洗髪しているということは、まだその客に時間がかかるだろう。
「込み入った話か?」
米山が訊いてくる。
もちろん、その手は止めていない。
「お客さんもおられるし・・・。」
おっさんは、無関係なお客に聞かせる話でも無いと思うから、そう言って店を出ようとする。
「い、いや、カンちゃんだし・・・。」
「ん? カンちゃん? カンちゃんって、あのカンちゃん?」
「ああ・・・、その管です。」
頭を洗われていた客が声だけで言ってくる。顔を上げられる状況ではないらしい。
「あああ・・・、久しぶり。元気なのか?」
おっさん、その客が誰なのかが分かって、店を出るのをやめてしまう。
「元気だよ。懐は風邪を引いて寒気がしてるけど・・・。」
「あははは・・・、相変わらずだなぁ~。で、今日は、またなんで?」
「なんでとはご挨拶だなぁ~・・・。ご覧の通り、散髪しに来たんだ。」
「で、でも・・・、家は、こっちの方じゃあなかったろ?」
「うちの店が忘れられなくって・・・。そう言うことだよな?」
米山が嬉しそうに言う。
実は、この管という男。
この地方で10店舗ほどを展開している洋菓子製造・販売会社の社員さんなのだ。
昨年まで、この商店街にある店の店長をしていたのだが、転勤ということで、他の店に移っていた。
だから、おっさんや米山とも顔見知りだった。
「ちょっと所用があって、この近くまで来たから、以前の店の様子も気になってたし・・・。ついでに、散髪もって・・・。」
管は、洗髪台に顔を伏せた姿勢のままでそう言ってくる。
「おいおい、ついでかよ?」
米山がそう言って管の頭を軽く叩く。
それだけ気心が知れた間柄ということなのだろう。
「だから、用事があるんだったら、その場で言って呉れたら良いぞ。」
米山が種明かしが済んだ手品師のように言ってくる。
「い、いや、大したことじゃあないんだが・・・。
すぐそこにある正栄ビルに新たな店が出来ることになって・・・。
その引越し蕎麦と挨拶文を配ってるんだ。」
「ええっ! 商店会の専務理事さん自らが?」
米山が茶化すように言う。
(つづく)