第1章 爺さんの店は何屋さん? (その10)
おっさん、事務所に鍵を掛ける。
そして、「只今、外出中」という札をドアノブにぶら下げる。
本当は、こうして事務所を無人にはしたくないのだが、事務員が自分ひとりなので、これも致し方ないと思う。
(さて、どこから配り始めるかな?)
そうは思ったものの、おっさんの足は蕎麦屋の長さんの店がある方向へと向いている。
それには大きな理由があった。
その長さんの店の先に正栄ビルがあったからだ。
そう、あの角田という爺さんの店である。
もちろん、おっさんはまだその店が開いているのを見たことが無い。
それでも、今日事務所に挨拶に来たぐらいだ。
何らかの開店準備がなされているかもしれない。
それを見れば、ある程度、どんな店なのかが分かるのではないかという期待もあったのだ。
長さんの店の前を通り過ぎる。
そして、程なくして正栄ビルが見えてくる。
「んん? ま、まだシャッター下ろしたままかよ・・・。」
おっさんは期待が外れたことを思い知る。
完全に降りているのではないが、中の様子が分かるほどにはシャッターが上がっていないのだ。
どうやら、まだ開店はしていないらしい。
と、そのシャッターを軽く持ち上げるようにして、会長が出てきた。
おっさんがその正面に差し掛かったときだった。
「ああっっ! か、会長・・・。」
おっさん、思わずそう声を掛ける。
これから、「例の蕎麦券、配りに行きますから」と伝えたかったからかもしれない。
「おお、小池さん・・・。ど、どうしてここに?」
会長は会長で、まさかそこで小池のおっさんと出くわすとは思っていなかったらしく、声を掛けられたことに驚いたような顔をした。
「ええ、今、例の券を配ってるところで・・・。」
おっさんは、些か事実を歪曲して言った。
まだ、どこにも配ってはいない。これからなのだ。
「ああ、そうかそうか・・・。それは、ご苦労さん・・・。」
会長はおっさんの言葉を信じたらしく、にこやかな顔でそう応じてくる。
「中で、話されたんです?」
おっさんは、そっちの方に関心があった。
「ま、いろいろとな・・・。じゃあ、それ、よろしくお願いしますよ。」
会長は、そう言っただけで、その場から自分の店の方向へと歩き始める。
「あああ・・・、は、はい・・・、わ、分かりました・・・。」
おっさんは、何か言いたそうな顔をしたものの、既に歩き始めた会長の後姿に何も言えなかった。
愛想程度に、それだけを言って会長を見送ることになる。
(そ、そうだ!)
小池のおっさん、何を思ったか、会長が出てきたばかりのシャッターの下から店の中を覗き込むようにする。
そして、中の人影に向かって声を掛ける。
「あのう・・・、商店会の小池ですが・・・。」
「あ、はい・・・、どうぞ。」
奥から、若い声がそう答えて来る。
どうやら、掃除機を掛けているらしい。
「ん?」
おっさんは意外な気がした。てっきり、あの爺さんがいるものだと思っていたからだ。
「つ、角田さんは?」
おっさんが訊く。
「ああ、山羊さんは2階です。呼びましょうか?」
若い声の主は、掃除機を止めてそう言ってくる。
「んん? 八木さん?」
「あ、いえ、皆がそう呼ぶので、つい・・・。角田さ~ん! お客さんですよ。」
若者は、声を張り上げるようにして、2階へと叫んだ。
(つづく)