動物コード
第一章 海底観光線
二〇二六年六月十八日。
俺――たつは、伊豆の港から出る海中観光ツアーに参加していた。
乗り物は、海底に敷かれた誘導レールの上を走る小型観光潜水艇だった。前面と側面には大きな窓があり、岩礁や魚の群れを間近に眺められる。
未来的というより、遊園地のアトラクションを頑丈にしたような乗り物だった。
乗客は二十人ほどいた。
出発前、五十代くらいの運転手が客室へ顔を出した。
「本日の操縦を担当する高瀬です。途中で多少揺れる場所がありますので、必ず座ったままでお願いします」
穏やかな声だった。
小さな子どもが「サメは見られますか」と尋ねると、高瀬は笑って答えた。
「運がよければね。でも、サメより珍しいものが見られるかもしれませんよ」
そのときの俺は、それを観光客向けの冗談だと思っていた。
異変が起きたのは、出発から三十分ほど経ったころだった。
最後列に座っていた四人の男たちが、酒を飲みながら騒ぎ始めた。
金色に染めた髪。黒いジャージ。首に巻いた太い鎖。腕から刺青をのぞかせた男もいる。
男たちは前の座席を蹴り、振り返った乗客を大声で威嚇した。
車内放送から高瀬の声が流れた。
「後方のお客様、危険ですので着席してください」
男の一人が立ち上がった。
「うるせえな。直接言いに来いよ」
男は操縦室へ続く扉を蹴った。
鈍い音が車内に響く。
「お客様、やめてください」
高瀬の声が変わった。
騒ぐ客を注意しているというより、相手が何者なのかを知っているような声だった。
男たちは扉の横にある非常解除装置を操作した。
高瀬が内側から扉を押さえたが、四人がかりでこじ開けられた。
「席へ戻れ! ここで操作を誤れば、全員が危険だ!」
高瀬の叫びが聞こえた。
男たちが操縦室へ押し入る。
乗客は誰も動けなかった。
俺も同じだった。
止めなければならない。
そう思っているのに、身体が座席に縫いつけられたように動かなかった。
「お前、俺たちを知ってるだろ」
操縦室から男の低い声が聞こえた。
高瀬は答えなかった。
「何を持ち出した?」
「何の話か分からない」
「とぼけるな」
「今すぐ出ていけ。乗客は関係ない」
次の瞬間、車体が大きく傾いた。
乗客の悲鳴が重なる。
俺は座席から投げ出され、床に肩を打ちつけた。
「離せ! 運転中だ!」
高瀬が叫んだ。
男の一人が、壁に備え付けられた非常用ハンマーを手に取った。
何をするつもりなのか理解したときには、もう遅かった。
鈍い音がした。
高瀬が操作盤の上へ倒れた。
車内が一瞬、静まり返る。
直後、潜水艇が急加速した。
赤い警告灯が点滅し、けたたましい警報音が鳴り始めた。
窓の向こうから岩壁が迫ってくる。
「止めろ!」
男たちが叫んだ。
「お前らがやったんだろ!」
乗客の一人が怒鳴り返した。
俺は床を這うようにして操縦室へ向かった。
男たちは、さっきまでの威勢を失っていた。
俺が操縦室へ入った直後、大きな衝撃が走った。
客室との間にある防水扉が変形し、途中まで閉じる。
俺は操縦室側に取り残された。
高瀬は頭から血を流し、操作盤の上へ倒れていた。
「高瀬さん」
肩を揺らしても反応はなかった。
操作盤には見慣れない表示が並んでいる。
速度を落とそうと大きなレバーを引いたが、動かなかった。
「誰か、操作が分かる人はいませんか!」
防水扉の隙間から客室へ叫んだ。
返事はなかった。
乗客たちは後方の緊急避難艇へ移動していた。
この潜水艇には、事故の際に後部を切り離し、海面へ浮上させる仕組みがあるらしい。
後方から重い機械音が聞こえた。
画面に文字が表示される。
〈避難艇切り離し〉
俺も行かなければならない。
防水扉を押したが、変形した扉はびくともしなかった。
「待ってください! 俺もいます!」
叫んだ直後、後部の避難艇が切り離された。
潜水艇が激しく揺れる。
普通の乗客たちは避難艇へ移ったはずだった。
しかし、操縦室へ押し入った四人の姿は、いつの間にか消えていた。
避難艇の乗員表示を見ても、四人分の人数が合わない。
どこへ消えたのか、そのときの俺には分からなかった。
正面に岩壁が迫る。
俺は操作盤へ向き直った。
画面の隅に、黄色い文字が点滅していた。
〈非常退避線へ進入しますか〉
ほかに選択肢はなかった。
震える指で画面を押す。
海底のレールが二つに分かれ、潜水艇は細い支線へ入った。
その直後、高瀬の身体の下から黒い薄型の箱が滑り落ちた。
手のひらほどの大きさだった。
何か重要なものかもしれない。
俺は考える余裕もなく、それを上着のポケットへ押し込んだ。
支線は暗い海底の奥へ続いていた。
地図には何も表示されない。
やがてレールが上向きになり、潜水艇が急上昇を始めた。
「頼むから、壊れないでくれ……」
レバーを握りながら、何度も呟いた。
車体が水面を突き破った。
暗かった操縦室に、まぶしい日の光が差し込む。
助かった。
そう思ったのも束の間だった。
目の前に広がっていたのは、見覚えのない海岸だった。
レールは水面から砂浜の手前まで続いている。
潜水艇は砂を巻き上げながら進み、やがて停止した。
俺は動かなくなった高瀬を残し、外へ出た。
助けを呼ばなければならない。
海辺には、一人の女がいた。
折り畳み椅子に座り、本を読んでいた。
第二章 海辺のみお
人を見つけた。
それだけで、張りつめていたものが一気に緩んだ。
俺は砂に足を取られながら、女の方へ走った。
「すみません!」
女が本から顔を上げた。
年齢は俺より少し上に見えた。薄い色のシャツに長いスカートを合わせ、黒い髪を後ろで束ねている。
俺の姿を見た瞬間、女は椅子から立ち上がった。
「助けてください。事故に遭ったんです」
女は答えなかった。
濡れた服。血のついた手。息を切らしながら近づいてくる見知らぬ男。
警戒されて当然だった。
俺が一歩進むと、女は同じだけ距離を取った。
何も話さない。
何かを指したり、追い払ったりもしない。
ただ、その視線は俺の顔と血のついた手を何度も行き来していた。
「本当に困ってるんです。海の中で事故が起きて……」
女は黙ったままだった。
日本語が通じていないのかもしれない。
顔立ちは日本人に見える。だが、ここがどこなのかも分からない以上、決めつけることはできなかった。
俺はその場で立ち止まり、両手を見える位置まで上げた。
知っている英語を必死に思い出す。
「エクスキューズ・ミー。プリーズ、ヘルプ・ミー」
そこで初めて、女が口を開いた。
「日本語で大丈夫」
力が抜けそうになった。
「日本語、分かるんですか」
「うん」
「じゃあ、どうして何も……」
女は少し迷ってから、俺の手を見た。
「怖かったから」
その声は冷たいというより、緊張で固くなっていた。
「すみません。俺、かなり怪しいですよね」
「かなり」
女はそう答えたあと、少しだけ視線をそらした。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
「でも、怪我してるの?」
「これは俺の血じゃありません」
女の顔がわずかにこわばった。
俺は慌てて続けた。
「運転手の人の血です。海の中で男たちに襲われて……」
俺は海岸に止まった潜水艇を指した。
「ほかの乗客とは離れ離れになりました。運転手の人は、まだ中にいます」
女は潜水艇を見つめた。
先ほどまでの警戒とは違う緊張が、その横顔に浮かんでいた。
「その人は、生きてるの?」
小さな声だった。
「分かりません。でも、呼びかけても反応がなくて……」
高瀬が倒れた場面を思い出し、息が詰まった。
「俺、何もできなかったんです」
女は黙って俺を見た。
警戒は消えていない。
それでも、もう俺から離れようとはしなかった。
「寒くない?」
不意に尋ねられた。
その言葉で、自分の身体が震えていることに気づいた。
「少し」
「少しには見えないけど」
女は椅子の上に置いていた薄い上着を手に取った。
俺へ渡そうとして、途中で動きを止める。
まだ近づくのは怖いらしい。
女は少し考えたあと、砂の上へ上着を置き、自分から数歩離れた。
「使って」
「いいんですか?」
「そのままだと倒れそうだから」
俺はゆっくり近づき、上着を拾った。
女を怖がらせないよう、すぐ元の位置まで戻る。
「ありがとうございます」
女は答えなかった。
けれど、ほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
「ここ、日本なんですか?」
俺が尋ねると、女は怪訝そうに眉を寄せた。
「日本だよ」
「日本のどこですか?」
「どこって?」
「何県ですか?」
「何県?」
「都道府県です。東京とか大阪とか、そういう」
女は困ったように俺を見た。
「そんな分け方、聞いたことない」
背中に冷たいものが走った。
日本語は通じる。
ここは日本だという。
それなのに、都道府県が存在しない。
「あなた、本当にどこから来たの?」
先ほどよりも、声に関心が混じっていた。
「伊豆です」
「イズ?」
「静岡県の伊豆です」
女は首をかしげた。
「どっちも知らない」
冗談を言っているようには見えなかった。
俺はポケットを探った。
スマートフォンは海水に濡れ、画面もつかなかった。
「電話も使えない……」
俺が呟くと、女が自分のスマートフォンへ目を落とした。
すぐに貸してくれるわけではなかった。
それでも、放って帰ることもできないようだった。
「名前は?」
女が尋ねた。
「たつです」
「たつ君?」
「はい」
「私は、みお」
「みおさん」
名前を教えてくれたことが、妙に嬉しかった。
みおは俺の顔を見たあと、また潜水艇へ目を向けた。
「家族に連絡する」
「家族?」
「母と祖父が近くにいるから。私一人で決めるより、その方が安心だし」
みおは電話をかけた。
「お母さん? 今、海辺にいるんだけど」
電話の向こうから何か聞かれ、みおは少し離れた場所にいる俺を見た。
「知らない男の人が、海から来た」
思わず顔を上げる。
みおは俺の反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「変な意味じゃなくて、本当に海から。乗り物が止まってて、中に人がいるみたい」
しばらく話したあと、みおの表情が真剣になった。
「うん。分かった。そうする」
電話を切ると、みおはこちらへ向き直った。
「母が、いったん家に連れてきてもいいって」
「いいんですか?」
「母と祖父もいるから」
みおは念を押すように続けた。
「まだ全部信じたわけじゃないよ」
「分かってます」
「でも、そのまま置いていくのも無理だから」
みおはそう言ってから、少し恥ずかしそうに目をそらした。
「車まで歩ける?」
「大丈夫です」
俺がすぐ歩き出そうとすると、みおがわずかに身構えた。
俺は足を止めた。
「先に歩いてください。距離を空けます」
「そこまでしなくてもいいけど」
みおはそう答えたが、少しだけほっとした顔をした。
「じゃあ、ついてきて」
みおは折り畳み椅子を持ち、海岸脇の道へ歩き始めた。
俺は数歩離れ、その背中を追った。
途中でみおが振り返る。
「本当に歩ける?」
「はい」
「無理なら言って。車まで、そんなに遠くないから」
そっけない言い方だった。
それでも、みおは何度か振り返り、俺がついてきているかを確かめていた。
第三章 日本の日本
海岸を離れると、見たことのない街が現れた。
道路の両側には、西洋の古い町を思わせる石造りの建物が並んでいる。
壁は黒ずみ、窓の割れた建物もあった。
古びた時計塔の横には鳥居が立ち、洋館の一階では、のれんを出した蕎麦屋が営業していた。
制服姿の学生や、買い物袋を提げた老人が普通に歩いている。
無人島だと思っていた場所には、人が暮らしていた。
だが、俺の知っている日本の街ではなかった。
「ここ、本当に日本なんですか」
俺が尋ねると、みおが振り返った。
「まだ疑ってるの?」
「だって、俺の知ってる街と全然違います」
「たつ君の知ってる日本の方が、私には分からないよ」
みおはそう答え、少しだけ考え込む顔をした。
俺が嘘をついていると思いながらも、完全には否定できなくなっているようだった。
「建物が西洋みたいです」
「古い街だから」
「かなり壊れてますけど」
みおが眉を上げた。
「住んでる人の前で言わない方がいいよ」
「すみません」
「昔、大きな海震があったの。修理できない建物が残ってるだけ」
素っ気ない。
けれど、質問にはきちんと答えてくれる。
駐車場には、見たことのない車が並んでいた。
どれも軽自動車より小さく、丸みを帯びた箱のような形をしている。
みおは白い二人乗りの車へ向かった。
車体の後部には、巨大なモバイルバッテリーのような黒い箱が差し込まれている。
「これ、車ですか?」
「そうだけど」
「この箱は?」
「電池」
「これだけで動くんですか?」
「動くよ」
みおが運転席の扉を開ける。
俺は車内をのぞき込んだ。
中央の操作盤には、USBによく似た端子がいくつも並んでいる。
「これ、USBですか?」
「何、それ」
「知らないんですか?」
「たつ君の質問、本当に多いね」
呆れた口調だったが、海辺にいたときほど表情は固くなかった。
「だって、全部初めて見るんです」
「私も、たつ君の話は全部初めて聞くけど」
「俺の世界では、車はガソリンか大きな電池で動きます」
「ガソリンって何?」
今度は俺が黙る番だった。
みおは俺の顔を見て、小さく笑った。
「さっきから、すごい顔するね」
「みおさんも同じ顔してましたよ」
「してない」
「してました」
「してないよ」
初めて、普通の言い合いができた気がした。
みおは助手席の扉を開けた。
「乗って」
俺は助手席へ手をかけたところで、動きを止めた。
「みおさん」
「何?」
「家へ行く前に、警察へ連れていってもらえませんか」
みおの表情が少し引き締まった。
「警察?」
「高瀬さんのことを伝えないといけないんです。ほかの乗客も心配です。それに、自分がどこにいるのかも確かめたい」
みおはすぐには答えなかった。
「警察へ行ったら、長く話を聞かれると思うよ」
「それでも行きます」
「家で休んでからじゃ駄目?」
「先に伝えないと、後悔します」
俺が答えると、みおは俺の顔をしばらく見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった。警察へ行こう」
「ありがとうございます」
「ただし、途中で倒れないでよ」
「努力します」
「努力じゃなくて、倒れそうならちゃんと言って」
みおは運転席へ乗り込んだ。
俺が助手席へ座ると、足元から温かい風が流れてきた。
「暖房、入れてくれたんですか?」
「濡れたままだから」
みおは前を向いたまま答えた。
「別に、特別なことじゃないよ」
車はほとんど音を立てずに走り出した。
石造りの建物の間を、小さな電気自動車が進んでいく。
「みおさんは何歳ですか」
俺が尋ねると、みおは横目でこちらを見た。
「急に何?」
「俺より年上だと言ってたから」
「二十九」
「俺は二十六です」
「聞いてない」
「そうですか」
しばらく沈黙が続いた。
交差点を曲がったところで、みおが小さく言った。
「三つなら、そんなに変わらないけど」
その言葉が、妙に嬉しかった。
「たつ君って、友達から何て呼ばれてるの?」
「たっつーって呼ばれることがあります」
「たっつー」
みおは試すように口にした。
「変ですか?」
「ううん。たつ君より呼びやすい」
みおは前を向いたまま続けた。
「じゃあ、たっつーでいい?」
「はい」
「嬉しそう」
「してません」
「してるよ」
みおの声に、わずかに笑いが混じった。
警察署は、古い西洋風の裁判所のような建物だった。
石の階段の上に「第九沿岸区警察」と刻まれている。
駐車場では、警察官が車両から黒い電池を取り外し、携帯用の充電器へつないでいた。
俺は車を降りながら尋ねた。
「警察の車も同じ電池なんですか?」
みおが深く息を吐く。
「たっつー」
「はい」
「今は車より、自分の心配をした方がいいよ」
「その通りです」
みおは呆れたように首を振った。
それでも、俺を置いて先へ行くことはなかった。
第四章 動物コード
受付で事情を説明すると、二人の警察官が現れた。
年配の井上という警察官と、三十代前半に見える相馬という刑事だった。
井上警察官は、俺の濡れた服と血のついた手を見た。
「まず身元を確認します。動物コードを提示してください」
「動物コード?」
俺が聞き返すと、井上警察官は怪訝そうな顔をした。
「本人確認用のコードです。端末でもカードでも構いません」
「持ってません」
「端末を紛失したということですか?」
「動物コードというものを知りません」
井上警察官と相馬刑事が顔を見合わせた。
相馬刑事が落ち着いた声で尋ねる。
「お名前は?」
「たつです」
「生年月日をお願いします」
俺が答えると、相馬刑事が端末へ入力した。
顔と指紋も読み取られた。
何度検索しても、結果は同じだった。
「該当者なしです」
相馬刑事が告げた。
井上警察官が自分でも端末を確認する。
「出身地域は?」
俺は住んでいた県名を答えた。
「その地域名は登録されていません」
「県の名前です」
「県?」
「都道府県です」
二人とも、その言葉を知らない顔をした。
相馬刑事が椅子へ座り直した。
「たつさん。この国の行政区分は、第一地域から第四十二区域までです。県や府という制度はありません」
海辺で感じた違和感が、はっきりと形を持った。
ここは、俺の知っている日本ではない。
井上警察官が説明した。
この世界では、出生時にすべての人間へ、動物名と数字を組み合わせた識別番号が与えられる。
住所、医療記録、免許、納税、犯罪歴。
すべてがその番号に結びついている。
それが動物コードだった。
相馬刑事が、みおへ確認する。
「みおさんのコードをお願いします」
みおは自分の端末を差し出した。
画面には〈鷺・四一八・六二〉と表示されている。
「これを持っていない人間は、普通いないんですか」
俺が尋ねると、相馬刑事が答えた。
「少なくとも、私は会ったことがありません」
そのとき、別の警察官が部屋へ入ってきた。
「海岸の車両を確認しました。中から男性一名の遺体を発見しています」
喉が締めつけられた。
端末に高瀬の顔が表示される。
「この方で間違いありませんか」
「はい。高瀬さんです」
俺はうつむいた。
「俺たちを守ろうとして、殺されました」
警察官が画面を操作する。
「遺体から古い動物コードが検出されています。狼・〇三一・七七。ただし、この人物は十二年前に死亡登録されています」
部屋の空気が変わった。
相馬刑事が画面をのぞき込む。
「死亡登録された人間が、別の場所で生きていた……」
井上警察官が相馬刑事を制した。
「まだ別世界と決まったわけではない」
井上警察官は俺を犯罪者扱いしているのではなかった。
簡単には信じられない話を、警察官として慎重に確認しているだけだった。
俺とみおは、別々の待合室へ移された。
事情聴取というより、保護と隔離を兼ねた措置らしい。
一時間ほどして、みおの祖父が警察署へ来た。
源一という七十代の男で、かつてこの警察署に勤務していたという。
源一は相馬刑事と話したあと、俺たちを地下の相談室へ移した。
被害者や家族のために使われる、防音された部屋だった。
扉の外には相馬刑事が立ち、ほかの警察官が入ってこないようにしていた。
源一は椅子へ座るなり、俺へ尋ねた。
「海の中で、地図にないレールを通ったのか」
「知ってるんですか?」
「昔、似た事件を調べたことがある」
源一は机へ古い手帳を置いた。
「動物コードを持たず、存在しない地名を話す者が、何年かに一度現れる。警察内部では、漂着者と呼ばれていた」
「俺以外にも?」
「いた。ただし、全員すぐに警察の管轄から外された」
「どこへ連れていかれたんですか」
「境界管理局だ」
源一の表情が険しくなる。
「表向きは、災害や特殊区域を管理する機関だ。実際には、別世界から来た人間と境界技術を管理している」
廊下から相馬刑事の声が聞こえた。
「管理局の車両が到着しました。あと十分です」
みおが立ち上がった。
「たっつーを渡すの?」
源一は首を振った。
「管理局へ引き渡されれば、二度と外へ出られない可能性がある」
「だったら逃げないと」
「普通に出れば、すぐ見つかる。みおの車にも位置情報が残っている」
相馬刑事が相談室へ入ってきた。
「管理局には、たつさんを病院へ搬送したと伝えます」
「信じますか?」
俺が尋ねると、相馬刑事は無線機を机へ置いた。
「正面から救急車を出します。みおさんの車にある位置端末も、その救急車へ載せます」
「相馬さんはどうなるんですか」
みおが尋ねた。
相馬刑事は苦く笑った。
「処分は受けるでしょうね」
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
俺が聞くと、相馬刑事は答えた。
「動物コードがないというだけで、あなたを犯罪者にはできません」
相馬刑事は部屋の扉を開けた。
「この建物は、隣の旧裁判所と地下通路でつながっています。管理局が病院へ向かっている間に、そこから出てください」
俺たちは地下資料庫へ向かった。
古い棚の奥に、錆びた鉄扉が隠されていた。
扉の先には暗い通路が続いている。
「旧裁判所の西側倉庫に、登録前の整備車両があります」
相馬刑事が源一へ懐中電灯を渡した。
「動物コードに登録されていないので、すぐには追跡されません」
みおが頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺も続こうとしたが、相馬刑事が止めた。
「礼は、無事に終わってから聞きます」
鉄扉が閉じた。
俺たちは警察署の地下から、暗い通路へ入った。
第五章 死者の記録
旧裁判所から脱出したあと、俺たちは整備用の小型車で源一の家へ向かった。
家は、古い石造りの住宅街にあった。
みおの母は驚きながらも、俺へ温かい食事と着替えを用意してくれた。
高瀬の血を洗い流している間も、あのとき何もできなかった自分の姿が頭から離れなかった。
風呂から出ると、みおがタオルを差し出した。
「大丈夫、たっつー?」
「高瀬さんのことを思い出してました」
「顔色、まだ悪いよ」
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、そんな顔しない」
みおはそう言いながら、俺のそばに残った。
俺は脱いだ上着のポケットから、潜水艇で拾った黒い箱を取り出した。
「これが高瀬さんの身体の下に落ちていました」
源一が箱を受け取り、目を見開く。
「境界車両の記録媒体だ」
源一の作業部屋には、古い端末や無線機が残されていた。
箱を専用の読取機へ差し込むと、大量の記録が表示された。
運転手の本当の名前は、高瀬隆一。
この世界の出身者だった。
高瀬は境界管理局で、海底レールの保守技師として働いていた。
十二年前、漂着者が秘密施設へ収容されている事実を知った。
管理局は漂着者を保護していたのではない。
動物コードを持たない人間が、なぜ世界の間を移動できるのか。
それを調べるため、本人の意思を無視した実験を続けていた。
高瀬は証拠を持ち出し、境界レールを使って俺の世界へ逃げた。
管理局は逃亡を隠すため、高瀬を死亡扱いにした。
俺の世界では偽造した身元を使い、海中観光線の運転手として暮らしていたらしい。
記録には、事故当日の四人の男も映っていた。
管理局の工作員名簿に、同じ顔が並んでいる。
男たちは不良客を装い、高瀬に近づいた。
高瀬を連れ戻し、記録媒体を回収するためだった。
「四人はどこへ消えたんですか」
俺が尋ねると、源一が記録を指した。
「小型の境界転送器を使ったんだ。高瀬を襲った直後、自分たちだけこちらへ戻った」
普通の乗客は、切り離された避難艇で俺の世界へ残った。
境界を越えたのは、操縦室を含む先頭部分だけだった。
「管理局は、あの人を最初から殺すつもりだったんですか」
俺が尋ねると、源一は首を振った。
「記録を見る限り、連れ戻す命令だった。だが、現場の工作員が暴走した」
だからといって、罪が軽くなるわけではない。
記録の最後には、高瀬が残した音声があった。
『境界管理局は、漂着者の保護を理由に力を持ちすぎた』
疲れた声が部屋に流れる。
『動物コードは、本来、人間の身元を守り、世界の境界を安定させるためのものだった。だが今は、人間を分類し、閉じ込める道具になっている』
映像の中の高瀬は、まっすぐ前を見ていた。
『私は、この記録を外へ出す。たとえ私が止められても、記録だけは残さなければならない』
音声が終わった。
部屋が静かになる。
みおが俺を見た。
「たっつーは、元の世界へ帰りたいんだよね」
「帰りたいです」
「なら、この記録を管理局へ渡して、帰してもらう方法もある」
「管理局が素直に帰してくれると思いますか」
「思わない」
みおは強い声で答えた。
「でも、たっつーが死ぬ必要はない」
「高瀬さんも死ぬ必要はなかった」
俺は画面を見つめた。
「俺が生きてここへ来られたのは、高瀬さんが最後まで車両を動かしていたからです。何も知らなかったことにして帰るのは嫌です」
みおはしばらく黙っていた。
やがて俺の前へ温かい飲み物を置く。
「熱いから気をつけて」
「みおさん」
「何?」
「手伝ってくれるんですか」
みおは目を合わせずに答えた。
「放っておいたら、一人で行くでしょ」
「たぶん」
「それで捕まる」
「たぶん」
みおは深く息を吐いた。
「だったら、ついていく」
「危険ですよ」
「知ってる」
「どうして、そこまで」
みおは俺を見た。
「高瀬さんのことを知らなかったふりにできないのは、たっつーだけじゃないから」
それから、少しだけ声を落とした。
「それに、たっつーを一人にしたくない」
胸の奥が、強く鳴った。
けれど、みおはすぐに視線をそらした。
「変な意味じゃないから」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
その夜、記録の送信先を調べた。
高瀬は管理局の全記録を、海岸近くにある廃止済みの境界鉄道保守駅から外部へ送ろうとしていた。
黒い記録媒体には暗号がかかっている。
内容を正式な証拠として送信するには、保守駅に残る認証装置が必要だった。
翌朝、俺とみおは保守駅へ向かった。
源一は相馬刑事との連絡役として家に残った。
車を走らせながら、みおが尋ねた。
「怖くないの?」
「怖いです」
「そう見えない」
「怖くないふりをしてるだけです」
「昨日も?」
「昨日は、怖すぎて何もできませんでした」
高瀬が殴られたとき、動けなかった。
その後悔は、胸の奥に残り続けている。
みおは前を向いたまま言った。
「今は動けてるよ」
その短い言葉に、少しだけ救われた。
保守駅は、崩れかけた古い礼拝堂の地下に隠されていた。
石造りの礼拝堂には日本語の避難標識が掲げられ、祭壇の裏から金属製の階段が続いている。
地下へ降りると、海底レールの制御室があった。
俺が記録媒体を端末へ差し込む。
画面に認証完了の文字が表示された。
その瞬間、上階で扉が壊される音がした。
「見つかった」
みおが息をのむ。
黒い制服を着た管理局の職員たちが、階段から降りてきた。
先頭にいたのは、高瀬をハンマーで殴った男だった。
金色だった髪は黒く戻されている。
あのときの粗暴な様子は消え、冷たい表情を浮かべていた。
「記録媒体を渡してください」
男は事務的な声で告げた。
「それは国家機密です」
「高瀬さんを殺した人間が言うことか」
俺が答えると、男の目が細くなった。
「殺害は命令ではありませんでした」
「命令じゃなければ許されるのか」
職員たちが近づいてくる。
みおが俺の腕を引いた。
「たっつー、こっち!」
制御室の奥に、保守用通路があった。
俺たちは暗い通路を走った。
後ろから足音が迫る。
通路の途中で床が崩れ、みおが足を滑らせた。
身体が下の配管へ落ちかける。
俺は反射的に、その腕をつかんだ。
「みおさん!」
「たっつーまで落ちる!」
「離しません!」
俺の身体も、少しずつ引きずられる。
管理局の足音が近づいていた。
ここでみおを置いて逃げれば、俺だけは助かるかもしれない。
だが、その考えが浮かんだ瞬間、強く否定していた。
「今度は、誰も置いていかない」
俺は力を振り絞り、みおを引き上げた。
二人で床へ倒れ込む。
みおは息を切らしながら、俺の服をつかんでいた。
「どうして戻ったの」
「みおさんを置いて逃げられない」
「私は、たっつーの世界の人間じゃない」
「関係ないです」
足音が近づく。
俺たちは再び立ち上がり、通路の先へ走った。
そのときのみおの目は、もう海辺で俺を警戒していたときのものではなかった。
第六章 境界管理局
保守通路の先は、旧警察通信塔の地下へつながっていた。
そこで待っていたのは、相馬刑事と源一だった。
相馬刑事は警察署から持ち出した端末を、古い通信設備へ接続している。
「高瀬さんの記録を、全区域の警察と司法機関へ送ります」
「管理局に止められませんか」
俺が尋ねると、相馬刑事が答えた。
「通常の通信なら止められます。これは災害時用の有線回線です。古すぎて、管理局の監視から外れている」
源一が記録媒体を受け取った。
「高瀬はそれを知っていた。だから、この場所を送信先に選んだ」
地下室の扉が激しく揺れた。
管理局が追いついた。
相馬刑事が送信を開始する。
画面に進捗が表示された。
十二パーセント。
二十一パーセント。
扉がへこむ。
「あと三分です」
相馬刑事が告げた。
そのとき、別の通路から一人の男が入ってきた。
灰色の制服を着た五十代の男だった。
境界管理局長の榊と名乗った。
榊局長は部下を制止し、静かに俺たちを見た。
「我々を、単純な悪だと思っているのでしょう」
榊局長は、境界管理局が生まれた理由を語った。
三十年前、世界の境界が不安定になり、人間が突然消える事故が相次いだ。
別世界に存在する同じ人間と接近すると、双方の記憶や身体に異常が生じる場合がある。
それを防ぐために作られたのが、動物コードだった。
動物コードは単なる身分証ではない。
一人一人の存在を、その世界へ固定するための記録でもあった。
「我々が境界を管理しなければ、二つの世界は互いを侵食する」
榊局長が言った。
「漂着者を自由に行き来させれば、より大きな事故が起こる」
「だから、本人の意思を無視して閉じ込めたんですか」
みおが問い詰めた。
「安全を守るには、研究が必要でした」
「研究じゃない。実験でしょう」
榊局長は答えなかった。
「高瀬さんを殺したことも、世界を守るためですか」
俺が尋ねると、榊局長がこちらを見る。
「殺害は命令していない。しかし、あの男は管理を破壊しようとした」
「人を守ろうとしただけだ」
「理想だけでは世界は守れない」
送信は五十八パーセントまで進んでいた。
榊局長が部下へ目配せする。
二人の職員が動いた。
一人が相馬刑事へ向かい、もう一人がみおの腕をつかんだ。
「みおさん!」
俺が駆け寄ろうとすると、高瀬を襲った工作員が立ちはだかった。
男の手には小型の拳銃がある。
「動くな」
みおは腕をつかまれたまま、俺を見た。
「たっつー、送信を止めないで!」
「でも――」
「高瀬さんが命を懸けたんでしょ!」
職員がみおを連れていこうとする。
俺の近くには、海底レールへ降りる避難口があった。
そこから逃げれば、俺だけは助かるかもしれない。
元の世界へ帰る可能性も残る。
それでも、足は避難口へ向かなかった。
「みおさんを置いて、帰れるわけがない」
俺は工作員へ体当たりした。
銃声が響き、弾が壁へ当たる。
相馬刑事が工作員を押さえ込み、源一が非常灯を消した。
暗闇の中で、俺はみおを連れていこうとする職員へ飛びかかった。
床へ倒され、何度も殴られた。
それでも、みおの手を離さなかった。
「たっつー、もういい!」
みおが泣きそうな声で叫ぶ。
「よくない」
「死ぬよ!」
「みおさんがいなくなる方が嫌だ!」
言葉が口から出たあと、自分でも驚いた。
みおの動きが止まる。
暗闇の中で、その手が俺の手を強く握り返した。
相馬刑事が警察無線へ叫ぶ。
「送信完了! 証拠は全区域へ届きました!」
非常灯が戻った。
画面には百パーセントと表示されている。
廊下から大勢の足音が聞こえた。
相馬刑事が事前に連絡していた、複数区域の警察官たちだった。
一つの警察署だけなら、管理局は圧力をかけられる。
しかし、全区域と司法機関へ同時に証拠が届けば、隠すことはできない。
榊局長は抵抗しなかった。
「あなたたちは、境界の危険を理解していない」
連行される直前、榊局長が俺へ言った。
「動物コードを持たないあなたは、この世界に長くいられない。境界の影響で、存在が不安定になる」
源一は否定しなかった。
俺の指先は、すでに時折透けるように揺らいでいた。
元の世界へ戻らなければならない。
高瀬の車両が開いた境界は、あと一時間ほどで閉じる。
俺とみおに残された時間も、あと一時間しかなかった。
第七章 帰還
俺たちは海辺へ戻った。
潜水艇の先頭部分は警察によって回収され、境界レールへ戻されていた。
高瀬の遺体と記録媒体は、こちらの世界で警察が保管している。
修理された車両へ乗れば、俺だけは元の世界へ帰れる。
みおは海辺に立ち、何も言わずに潜水艇を見ていた。
最初に出会った場所だった。
あの日の折り畳み椅子が、砂の上へ置かれている。
「みおさん」
俺が名前を呼ぶと、みおは背を向けたまま答えた。
「早く乗った方がいいよ」
「みおさんも一緒に――」
「今は行けない」
動物コードを持つ人間が別世界へ渡ると、身体を固定する記録が失われる。
境界を越えた瞬間に消えるわけではないが、長く滞在することはできない。
安全に渡るための技術は、まだ完成していなかった。
「また会えますか」
俺が尋ねると、みおはしばらく黙っていた。
代わりに源一が答えた。
「管理局の記録では、理論上、三年後の同じ日に近い条件がそろう。ただし、境界が本当に開く保証はない」
「三年……」
みおの声が震えた。
「それでも、待ちます」
俺が答えると、みおが振り返った。
目に涙が浮かんでいる。
「簡単に言わないで」
「簡単じゃありません」
「私は最初、たっつーが怖かった。何を言われても、答えたくなかった」
「はい」
「英語で話しかけられたとき、さすがに変な人だと思った」
「日本語が通じないと思ったんです」
「最初から通じてたよ」
「知ってます」
「それなのに、どうしてこんなことになったの」
俺にも分からなかった。
出会ってから、まだ長い時間が過ぎたわけではない。
それでも、みおを置いて帰ることが、身体を引き裂かれるようにつらかった。
「みおさんが、俺を見捨てなかったからです」
「母に電話しただけ」
「上着を貸してくれた」
「倒れそうだったから」
「暖房を入れてくれた」
「風邪をひかれたら困るから」
「警察でも待っていてくれた」
「放っておけなかっただけ」
「俺を守ってくれた」
みおが唇をかむ。
「たっつーだって、何度も戻ってきた」
「置いていけなかった」
「どうして?」
俺は一歩近づいた。
今度は、みおは離れなかった。
「好きだからです」
みおの目から涙がこぼれた。
「こんなときに言う?」
「今言わないと、三年間言えないかもしれない」
「ずるい」
「すみません」
みおは泣きながら笑った。
「本当に、最初から変な人」
「ナンパじゃないです」
「今はナンパみたいなこと言ってる」
「それは否定できません」
みおが俺の服をつかみ、胸元へ額を押しつけた。
「私も、たっつーを放っておけない」
小さな声だった。
「守りたい。帰ってほしくない」
俺はみおを抱きしめた。
時間を止められるなら、何でもしたかった。
だが、身体の輪郭が再び揺らいだ。
源一が離れた場所から告げる。
「もう限界だ」
みおが顔を上げた。
「三年後、絶対に来て」
「来ます」
「開かなかったら?」
「その次も待ちます」
みおは首から、小さなカードを外した。
自分の動物コードが記録された身分証だった。
「持っていって」
「困るでしょう」
「再発行できる」
みおはカードを俺の手へ握らせた。
〈鷺・四一八・六二〉
「夢じゃなかった証拠」
俺はカードをポケットへ入れ、潜水艇へ乗り込んだ。
窓の向こうに、みおが立っている。
車両が動き始めた。
海へ入る直前、みおが英語で叫んだ。
「シー・ユー・アゲイン!」
俺は思わず笑った。
「今は日本語でいいですよ!」
みおも泣きながら笑った。
「また会おう、たっつー!」
車両が海へ沈む。
光が遠ざかり、やがて何も見えなくなった。
次に目を開けたとき、無線から救助隊の声が聞こえていた。
俺は元の世界へ戻っていた。
事故から八時間が経過していた。
避難艇に乗った乗客は、全員救助されていた。
高瀬を襲った四人は行方不明。
乗客名簿には記録があったが、身分証はすべて偽造されていた。
俺は警察へすべてを話した。
別の日本。
都道府県のない国。
動物コード。
境界管理局。
そして、みお。
当然、すべてを信じてもらうことはできなかった。
海底を捜索しても、境界レールの支線は見つからない。
潜水艇の先頭部分も、高瀬の遺体も、黒い記録媒体も、こちらの世界には戻っていなかった。
残った物的証拠は、みおのカードだけだった。
材質も記録方式も、こちらの技術では説明できないという。
だが、異世界の存在が公表されることはなかった。
事故は、四人組による運転手襲撃と潜水艇の故障として処理された。
俺は元の生活へ戻った。
それでも、毎年六月十八日になると、あの海岸へ向かった。
一年目も、二年目も、境界は開かなかった。
最終章 ただいま
三年が過ぎた。
二〇二九年六月十八日。
源一が教えてくれた日だった。
観光潜水艇の事故が起きた施設は、すでに閉鎖されていた。
俺は夜明け前から海岸で待った。
午前七時を過ぎても、何も起きない。
三年前の計算が間違っていたのかもしれない。
境界が開く保証など、最初からなかった。
そう思ったとき、水面の下から低い振動が伝わってきた。
海の中に細い光が走る。
存在しないはずのレールが、水面へ向かって伸びてきた。
その上を、小さな車両が進んでくる。
車両全体が淡い光に包まれていた。
扉が開く。
みおが降りてきた。
三年前より、髪が少し伸びていた。
手には、あの日の折り畳み椅子を持っている。
俺は声を出せなかった。
みおも立ち止まったまま、俺を見ていた。
やがて、みおの方からゆっくり歩き始める。
「今度は、無言で逃げないんですか」
俺が尋ねると、みおは目を潤ませながら笑った。
「三年も待ったから」
「遅くなりました」
「本当に遅いよ、たっつー」
「ただいま」
みおは俺の胸へ飛び込んだ。
「おかえり」
みおが乗ってきた車両には、境界を渡る人間の身体を一時的に安定させる装置が搭載されていた。
この装置が動いている間だけ、みおは俺の世界に滞在できる。
境界管理局は、高瀬の記録が公表されたあと解体されていた。
榊と高瀬を襲った工作員たちは裁判にかけられ、収容されていた漂着者も解放された。
新しく設立された境界調査委員会が、二つの世界を安全につなぐ方法を研究していた。
「今日は迎えに来たの?」
俺が尋ねると、みおは首を振った。
「今日は会いに来ただけ。たっつーにも準備があるでしょ」
「また三年待つんですか」
「もう待たないよ」
みおは笑った。
「今度からは、委員会が境界を開ける。自由には無理だけど、行き来はできるようになった」
数か月後、俺は家族や友人へ事情を説明し、元の世界を離れた。
すべてを信じてもらえたわけではない。
それでも、もう一度みおと別れる選択はできなかった。
俺のために、特別な動物コードが用意された。
〈海燕・〇〇一・一〉
二つの世界を渡った、最初の正式な移住者を示す番号だった。
みおの世界へ移住すると、みおの母と源一は、俺を家族として迎えてくれた。
みおとは何度も喧嘩をした。
俺が車の仕組みについて質問しすぎて怒られたこともある。
みおが一人で危険な調査へ行こうとして、俺が本気で怒ったこともある。
それでも、眠る前には必ず仲直りした。
二年後、俺たちは結婚した。
式は、古い石造りの街に残る小さな礼拝堂で行った。
祭壇の横には鳥居があり、誓いの言葉は日本語だった。
それから長い年月を、二人で過ごした。
海辺の近くに家を建て、娘も生まれた。
高瀬隆一の名は、境界を越えた人々を救った技師として記録に残った。
ある夏の日、娘が海辺の椅子に座りながら尋ねた。
「パパとママって、どこで会ったの?」
俺が答える前に、みおが警戒するような顔をした。
「余計なことを言わないでよ」
「海から来たんだ」
娘が目を丸くする。
「パパが?」
「乗り物に乗って、海の中から」
みおがため息をついた。
「それで、いきなり私の方へ走ってきたの」
「助けてほしかったから」
「血だらけで、すごく怪しかった」
「英語まで使った」
娘が声を上げて笑う。
「えーっ、日本語、通じなかったの?」
みおが少し意地悪そうに笑った。
「最初から通じてたよ」
「だったら、もっと早く答えてくれてもよかっただろ」
「怖かったんだから仕方ないでしょ」
「ずっと無言だったもんな」
「知らない人に急に話しかけないよ」
娘が俺とみおを交互に見た。
「でも、いまはパパのこと大好きなんでしょ?」
みおの頬がわずかに赤くなった。
「そういうことは聞かなくていいの」
「えー、教えてよ」
「本人が隣にいるから言わない」
俺は笑いながら、みおへ尋ねた。
「今なら?」
みおは俺の顔を見た。
「今なら、英語を使う前に答える」
「じゃあ、好きかどうかも答えてください」
「調子に乗らないで」
娘が楽しそうに笑った。
「ママ、パパのこと大好きなんだね」
「もう、勝手に決めないで」
みおはそう言いながらも、俺から離れようとはしなかった。
いつもの言い合いをしながら、俺たちは笑った。
みおの首には、再発行された動物コードのカードが下がっている。
俺の胸元にも、この世界で与えられたカードがあった。
鷺・四一八・六二。
海燕・〇〇一・一。
番号が俺たちを結びつけたわけではない。
世界が違っても、身元を証明できなくても、みおはあの日、俺を見捨てなかった。
俺も、みおを置いて逃げなかった。
それだけで十分だった。
夕日が海へ沈んでいく。
娘が波打ち際へ駆けていくのを見ながら、みおが俺の肩へ頭を預けた。
「ねえ、たっつー」
「何?」
「今なら、走って近づいてきても逃げないよ」
俺はみおの手を握った。
「もう走らなくても、隣にいるから」
みおは何も答えず、俺の指へ自分の指を絡めた。
少し離れた場所から、娘の声が飛んでくる。
「パパ、ママ! こっち来て!」
「今行くよ」
みおが答えた。
俺たちは手をつないだまま立ち上がり、娘の待つ海辺へ歩いていった。




