太陽のにおい(3)
夏は厚手の洗濯物もよく乾く。朝一番で庭に干した洗濯物は昼には乾いてしまい、マイは夕立を気にして早めにとりこみにかかった。まだ時間帯が早いので直射日光は厳しいが、洗濯物が早く乾くことは気持ちがいい。とりこんだばかりのタオルからは太陽の匂いがしていて、マイは爽快な気分でタオルに埋めていた顔を上げた。
「あれ? ユウ?」
ふと視線を移した先で珍しい姿を発見したため、マイは縁側で声を上げた。マイが発した声が聞こえたようで、ユウはすぐにこちらを向く。倉科家の垣根越しにユウと向き合ったマイは彼が手にしている小さな包みに目を留めた。
「本屋?」
「そう」
「なんか、ユウが昼間歩いてるところ見るの久しぶり」
「そうか?」
「そうだよ。全然焼けてないし」
マイが指摘するとユウは腕を持ち上げて、半袖から覗いている自分の肌を見下ろした。それから顔を上げ、確かに焼けてないなと言って笑う。
(あ、ユウが笑った)
隣の席に座っていても、腕枕に顔を埋めていることの多いユウが表情の変化を見せるのは稀である。たぶん覚えていないだけなのだろうが、ユウの笑顔を初めて見たような気になったマイは思わず彼の顔を凝視してしまった。するとユウは途端に笑みを消し、ぶっきらぼうな口調で「なんだよ」と尋ねてくる。いつものユウに戻っただけだったが、マイは何故か慌ててしまった。
「そ、そうだ。上がってきなよ」
話を逸らすような形でマイが誘ってしまったため、ユウは首を傾げている。そんなユウの反応に「しまった」と思ったマイはさらに慌ててしまった。
「麦茶でも出すから。暑いでしょ?」
「……じゃあ、おじゃまします」
マイは玄関に回ってユウを招き入れようとしたのだが、ユウは垣根の隙間から進入してきた。庭からだと玄関へ回るより早かったので、そのまま二人は縁側から家の中へ入る。二階の自室に戻るなりベランダに布団が垂れ下がっていることに気が付いたマイは、ユウに適当に腰を落ち着けるよう指示を出してから窓を開けた。夏の日差しをたっぷりと浴びた布団はカラカラに乾いていて、顔を寄せると太陽のにおいがする。今夜は気持ちよく眠れそうだと思いながら、マイは布団をベッドの上へと放った。
「ちょっと待ってて。今持ってくるね」
ユウを部屋に残して階下へと急いだマイはよく冷えた麦茶に氷を放り込み、グラスを二つ持って自室へと戻った。
「お待たせ」
よほど喉が渇いていたのか、グラスを受け取るとユウは一気に麦茶を干した。渇きが癒えたことがよっぽど気持ちよかったのか、ユウはどこか気の抜けた微笑みを浮かべている。これは正真正銘初めて見る表情で、マイはユウの表情の変化にぽかんと口を開けてしまった。
(うわー、そんな表情もするんだ)
普段の彼が見せる表情といえば八割方が無表情、二割ほどの感情の変化も疲れや不快感を示すものだ。そのユウが、幸福そうに笑っている。
(あれ? でも……)
ユウのギャップに驚いていたマイはふと、以前にも彼の幸せそうな表情を見たことがあるのを思い出した。あれは確か、春の教室。室内は春の日差しに暖められていて、開かれていた窓からは花の香りを乗せた春風が吹き込んできていた。誰もがアクビを噛み殺していた五時間目、ユウは腕枕に顔を埋めていて……。
(ああ、なんだ)
何ということはない。今のユウが見せている表情は、彼が眠りに就いている時と同じものなのだ。
「ユウ?」
ふと、ユウがとりこんだばかりの布団に熱い視線を注いでいることに気付き、マイは首を傾げた。マイが問いかけている間にベッドに上がりこんだユウは持ち主が見ている前で布団へと倒れこむ。目前で起こった出来事に目を疑ったマイは悲鳴に近い声を上げた。
「な、何してんの!?」
「太陽の匂いがする」
目をとろけさせながら独白のような返事を寄越したユウは、そのまま瞼を下ろしてしまった。すぐにベッドから規則正しい寝息が聞こえてきて、どうこうする暇もなかったマイは絶句する。しかしユウの気持ち良さそうな寝顔を見ているうちに、細かなことはどうでもよくなってきてしまった。
(そんな幸せそうな顔見せられたら起せないじゃない)
一番風呂に入り損なったような悔しさはあるものの、そんなことはユウの幸せに比べれば些細なことである。ユウの無防備な寝顔にはそう思わせてしまうほどの幸せが満ちていて、気の済むまで寝かせておくことにしたマイは静かに自室を後にした。
ユウがマイの部屋で眠ってしまったので、最後の夕食は倉科家でとることになった。食事を終えてもユウが帰るとも言い出さなかったので、夕食後は二人して縁側に移動する。まだ気温が下がりきっていないので夜風も生ぬるかったが、団扇があれば凌げない暑さではない。団扇を扇ぐ力で逆に体を熱くさせてしまわないよう調節しながら、マイは何となく口火を切った。
「ねぇ、ユウ」
「何?」
「ユウってさ、寝るのが好きなの?」
「どうでもいいじゃん」
「どうでもよくないよ」
マイがきっぱりと言い放つとユウは訝しげに顔を傾けてきた。彼の顔が若干困惑しているように見えるのは、マイがいつもと違う反応をしたせいだろう。しかしマイはユウからの返事を待っていたので、言葉を重ねることはしなかった。ユウはしばらく考えているように沈黙していたが、やがて口を開く。
「何で?」
「聞きたいから」
「……だから、何で?」
「興味。ユウがどんなこと考えてるのか知りたいの」
「興味、ねぇ……」
「ユウの寝顔、幸せそうだった。だから好きなのかなって思ったの」
「うん、幸せ」
「あ、やっぱり? でもさ、暑くて苦しそうな顔して寝てる時もあるじゃない? それでもやっぱり幸せなの?」
「……何でそんなに見てるんだよ」
思いがけずマイに観察されていたことを知って、ユウは呆れたようだった。ユウが言葉を途切れさせて夜空を仰いだので、マイも自家の縁側から見える狭い空を見上げる。
「洗濯物とりこんでるとき」
「え? 洗濯物?」
ユウが唐突に喋り出したので真意が掴めず、マイはキョトンとして彼に目を向けた。ユウはぼんやりと空を眺めたまま話を続ける。
「マイ、幸せそうな顔してた」
「あー、うん。カラッと乾いて気持ちいいよね」
「夏の昼寝も、そんな感じ」
「……もうちょっと説明してほしいな」
「太陽がまぶしくて、緑がキラキラしてると幸せだろ? 暑いけど、ときどき冷たい風が吹くと気持ちいいし、思いっきり汗かいてからシャワー浴びるのも、気持ちいい」
「あ、それなら分かる。気持ちいいと幸せだよね?」
マイが同意を示すとユウは口をつぐんで頷いた。下手くそな説明ではあったものの、ユウが初めて胸の内を明かしてくれたことを嬉しく思ったマイは口元をほころばせる。素直な気持ちは自然と言葉になり、マイの口から零れ落ちた。
「私、ユウのことけっこう好きかも」
「……は?」
唐突でストレートな好意の言葉を投げかけられたユウは驚いたように目を瞠っている。そんなユウの反応が愛らしくておかしくて、マイは声を上げて笑った。




