ホワイトデーの動機(1)
日に日に春の気配が迫ってきている三月のとある日曜日、倉科マイは母親に呼ばれて二階にある自室を後にした。昼の時分、マイは昼食だろうと思って階段を下りて行ったのだが、玄関先には来訪者の姿があった。
「あれ? ユウじゃん」
靴を履いたまま玄関先に佇んでいたのはマイの家の隣の隣に住んでいる小笠原ユウという少年だった。ユウとマイは小学校三年生以来の付き合いで、現在はクラスメートでもある。
ユウは何よりも惰眠を貪ることを好むため、休日に姿を見かけることは滅多にない。希少な出来事に驚いたマイは止まっていた足を再び動かし、階段を下りきった。玄関に辿り着いたマイと入れ替わるように、来客の対応に出て来ていた母親がニヤニヤ顔でリビングへと戻って行く。母親の訝しい態度に首を傾げた後、マイは改めてユウを振り返った。
「どうしたの? ユウがうちに来るなんて珍しいね」
もしかすると珍しいどころの騒ぎではなく、ユウが自発的に訪ねて来たのはこれが初めてかもしれなかった。あまりにも珍しい出来事だったので、真顔に戻ったマイはどんな事情があるのかと身構える。ユウの口から出てきた言葉は、別の意味でマイの想像を絶するものだった。
「お菓子の作り方、教えてほしいんだけど」
「……は?」
意外すぎる申し出に、マイは唖然とした。
ものぐさなユウは普段から家事を一切しない。料理なんてもっての外であり、ユウの両親が留守にした時にはマイが食事を作りに行ったほどである。そんな人物が料理(しかも菓子類)を作りたいと言い出すなど、マイには想像もつかない珍事だったのだ。
「ダメ?」
マイが明確な返事をしなかったので、ユウが言葉を重ねてきた。なんとか驚きを治めたマイはユウが甘党であることを思い出し、何となく納得して頷く。
「いいよ。それで、何作りたいの?」
「クッキー」
「クッキーね。うん、いいんじゃない?」
物にもよるがクッキーは材料の種類が少なく、生クリームなどを使わないので比較的簡単に作ることが出来る。お菓子作りの入門には最適だと思ったマイは細かなことは言わず、とりあえずユウに上がるよう指示を出した。階段を上り、二階にある自室へユウを招き入れた後、マイは本棚からお菓子類の本を数冊引き抜いてクッキーのページを開ける。
「型抜きとかアイスボックスとか色々あるけど、どれがいい?」
「……違いが分からない」
ユウは眉根を寄せ、床に広げられている本を見比べている。マイはユウのために簡単な解説を加えた。
「アメリカンのプレーンはラング・ド・シャみたいな食感になるよ。型抜きは見た目がキレイだよね。アイスボックスは市松模様とか、色んな模様が作れるの。絞り出しは一番手間がかからないかな」
「ラングドシャ?」
「ああ、えっと、軽くて口の中で溶けるみたいな感じのやつ」
「ふうん。色々あるんだな」
ユウは感心したように相槌を打った後、再び本に見入った。しかし本を眺めているだけでは結論が出なかったようで、ユウは再びマイを仰ぐ。
「マイはどれが好き?」
「うーん、そうだなぁ。食べる分にはアイスボックスが好きかな」
「じゃあ、それで」
ユウがあっさりと同調したので、マイはそれでいいのかと呆れた。マイの視線には気が付かなかったようで、ユウは熱心に材料覧を眺めている。
「バターと砂糖と卵……二千円で足りるよな?」
「買い置きがあるかもしれないから、買い物は確認してからの方がいいよ」
算段しているユウに言い置き、マイは台所へ行くべく立ち上がった。するとユウが慌てた様子で制止の声を発したので、部屋を出ようとしていたマイは扉を背にして振り返る。
「何?」
「材料費は俺が出すから」
「へ? 何で?」
「俺が頼んでるから」
「何言ってんの。無塩バターとかなんてお菓子作りでもしなきゃ使わないんだから。使い切らないともったいないでしょ?」
「……まあ、確かに」
「足りない物だけ買えばいいんだよ。確認してくるからユウはここで待ってて」
主婦思考のマイに押し切られる形で、ユウは渋々頷いた。ユウを部屋に残して廊下へ出たマイは、今度こそ階下の台所へと向かう。リビングには母親がいて、マイが台所を漁り始めると不審そうに声をかけてきた。
「何してるのよ、うるさいわね」
母親が台所まで出向いてきたので、マイは戸棚を探りながら事情を説明した。ユウにお菓子作りを教えるのだと聞くとマイの母親は急に文句を収める。
「じゃあ、お母さんは買い物に行ってくるから。五時までには台所空けてね」
ひどく好意的な母親の言葉を聞いたマイは眉根を寄せて顔を上げ、常々疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「お母さん、ユウに甘くない?」
「だってユウちゃん、素直でカワイイじゃない。同じ男の子でも秋雄とは大違い」
ユウと比較されている秋雄はマイの兄である。大学生で一人暮らしをしている兄のことはさておき、マイは母親の言い分に呆れかえった。
「はいはい。卵、使ってもいいですか?」
「いいわよ。買ってくるから」
母親から了承を得たマイは確認作業を終え、部屋に戻ることにした。リビングの扉を後ろ手に閉め、マイはため息を吐く。
(ユウっておばさんにもモテるんだ)
やっぱりユウのことはよく分からないと呟きながらマイは二階の自室に戻った。床に座ってお菓子の本を眺めていたユウが顔を上げたので、マイは確認の結果を伝える。
「三十個くらいだったらうちにあるので足りそうだよ。もっと数、いる?」
「いや、そのくらいでいい」
まだ材料費のことを気にしているのか、ユウは渋い表情のままだった。また細かいことを言い出されないうちにと、マイはユウを促して部屋を出る。リビングへ行くとすでに母親の姿はなく、台所に立ったマイはさっそく器材を取り出した。
冷蔵庫から取り出したばかりのバターは硬かったので、マイはユウに手の熱で柔らかくするよう指示を出した。ボウルの中のバターをユウが揉んでいる間に、マイは薄力粉や砂糖の準備をする。お互いの作業をしながら、マイとユウは雑談を始めた。
「ユウさぁ、最近寝すぎじゃない?」
「……そうか?」
「そうだよ。この間のバレンタインの時だってさ、寝起き悪すぎ。夏はそんなでもなかったのに、何で?」
「冬は……無理。布団から出たくない」
「……まあ、その気持ちは分かるけど。あんまり寝てばっかいると脳みそ溶けるよ?」
「溶けないって」
ユウは苦笑しながらバターが柔らかくなった旨をマイに伝えた。マイはボウルの中を覗き込み、ユウに次の指示を出す。
「手、洗って。泡だて器で混ぜて」
ユウにそう告げた後、マイ自身は冷蔵庫から取り出してきた卵を割った。卵の殻を使って卵白と卵黄とに分けていると、ユウが感心したような視線を向けてくる。
「器用だな」
「いいから、早くバターを混ぜる。そこに塩出しておいたから一つまみ加えてね」
「……はい」
マイに素っ気なく返されたユウは大人しく作業に戻り、バターをかき混ぜ始めた。バターがクリーム状になったところでパウダーシュガーを加え、再び混ぜるという作業を幾度か繰り返し、卵黄と薄力粉を加えて混ぜ合わせれば生地の完成である。
「生地を袋に移して、こうやって丸めて、冷蔵庫で少し硬くしたら後は焼くだけ」
生地を冷蔵庫に納めたマイはユウを振り返り、初めてのお菓子作りの感想を求めた。ユウは半笑いを浮かべ、小さく首を振る。
「手間がかかる」
「それが楽しいんじゃん」
マイがきっぱりと言い切ると、ユウは尊敬すると呟いた。
「そういえば、何で急にお菓子作りする気になったの?」
マイが何気なく問いを口にするとユウは表情を改めた。どんな動機が語られるのかと、マイも真顔に戻って身構える。しかしユウが発した言葉は質問の答えではなかった。
「やっぱり俺、金払う」
「……いいって言ってんのに」
ユウが材料費の問題を蒸し返したのでマイは呆れていたが、やがて妙案を思いついたのでポンと手を打った。
「それならユウ、ヨーグルト買ってきて。プレーンのやつね」
「ヨーグルト?」
「うん、ヨーグルト。クッキー代はそれでチャラ」
「……分かった。行ってくる」
ユウが素直に踵を返したので、マイも玄関先まで見送りに出る。戻って来たらインターホンで知らせることをユウと確認しあった後、マイは台所に戻って卵白の泡立てを開始した。




