『同じ場所の話なのに、誰とも話が合わない』──昨日、あそこに行ったよね?
最初に違和感を覚えたのは、昼休みの休憩室だった。
紙コップのコーヒーを持って入ると、窓際にいた佐伯がこちらを見て、昨日あそこ行っただろ、と言った。
あそこ、という言い方に少し引っかかったが、心当たりはあった。昨夜、会社帰りに駅の北口を回って帰った。最近は工事で導線が変わっていて、遠回りになるのが面倒で、あまり通りたくない場所だった。
だから私は、北口のほう、と返した。
佐伯は妙な顔をした。
「北口じゃなくて、あそこだよ。裏の」
裏、と言われて、ああ、駐輪場の横の細い道かと思った。そこも通った。薄暗く、街灯が一本だけ死んでいて、夜は足元が見えにくい。
「通ったよ。自転車が何台か倒れてた」
すると佐伯は、笑いかけてやめたような、半端な顔になった。
「倒れてた、って。そういう話じゃなくてさ」
「じゃあ何」
「見たんだろ?」
見た、という言い方で、私は足を止めた。
昨夜のことを思い出す。細い道の途中、工事用の白い仮囲いの向こうに、古い二階建ての建物が見えた気がした。あんなところに建物があっただろうかと思って、少しだけ立ち止まった。窓は暗く、ガラスの一枚にだけ街灯が映っていた。誰かが立っているようにも見えたが、疲れていたし、すぐに視線を逸らした。
それのことを言っているのかと思って、私は小さくうなずいた。
「まあ、一応」
佐伯の顔色が変わった。
「やっぱり見たんだ」
その言い方が、妙に嬉しそうでもあり、怯えてもいて、気味が悪かった。
「何を」
「いや、こっちが聞いてるんだけど」
「いや、だから何を見たって?」
会話が一度そこで引っかかった。佐伯は私を見て、私も佐伯を見る。お互いに、相手がわざと外しているような気分になった。
先に目を逸らしたのは佐伯だった。
「……もういい。見たなら、今日は北口通るなよ」
「だから北口じゃなくて裏だろ」
「同じだよ」
「同じじゃないだろ」
そう言った瞬間、佐伯はほんの少し眉を寄せた。冗談ではなく、本気で、何を言っているんだという顔だった。
その日の午後、雨が降った。
小さな雨だったが、夕方には風も出て、駅前のアスファルトが黒く濡れた。私は少し残業してから退社し、結局また北口へ向かった。遠回りをしたくなかったのと、昼の会話が気になって、あえて確かめたくなったからだ。
駅の北口を出て、ロータリーを回る。バス停、コンビニ、閉店した花屋の跡。見慣れた景色しかない。そこから裏手へ抜け、駐輪場の横の道に入る。昨夜見たはずの仮囲いはそのままだった。白いパネルが続き、工事名の書かれた看板が雨に濡れていた。
だが、昨日見えたはずの二階建ての建物は見当たらない。
気のせいだったのか、と思ったときだった。
仮囲いの切れ目の奥で、誰かが立っているのが見えた。
作業員にしては無防備な、暗い色の服だった。こちらを向いているのかどうかも分からない。距離のせいで、輪郭が曖昧だった。
私は足を止めた。
すると、その人影が、手を上げた。
呼んでいるように見えた。
次の瞬間、背後で自転車のブレーキ音がして、振り返ると佐伯がいた。傘も差さず、息を切らしている。
「お前、何で来たんだよ」
「何でって……」
「見えるのか」
「何が」
「そこ」
そこ、と佐伯が指した先は、仮囲いではなかった。道の反対側、古いコインパーキングのさらに奥。雑居ビルとビルの間にある、幅の狭い階段のほうだった。
私は言った。
「いや、そっちじゃなくて」
佐伯の指が止まった。
「は?」
「私はこっち見てたんだけど」
「こっちって、工事現場?」
「工事現場の奥」
「奥なんかないだろ」
今度は私が、は、と返す番だった。
仮囲いの向こうを見やる。さっきまで立っていたはずの人影はいない。だが奥行きは確かにあった。仮設の足場と、その向こうの暗がり。建物があるかどうかまでは分からないが、少なくとも空き地ではない。
「あるだろ。見えるだろ」
「何が」
「だから奥が」
佐伯はゆっくり首を振った。
「あそこ、平地だぞ。更地。来月から駐車場増やすって話の」
雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
お互い、少しずつ声が低くなる。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、相手の言っていることが、どうしても理解できない。そんなときの、変な静けさだった。
「じゃあ、お前が昼に言ってた、見たって何のことだよ」
私がそう言うと、佐伯は少し迷ってから、階段のほうを見た。
「女だよ」
「女?」
「四階の踊り場に、立ってる」
私は反射的に階段を見る。細い、非常階段のような鉄の階段が、ビルの外壁に沿って伸びている。だが四階どころか、途中から上は影で潰れていて見えない。
「見えないけど」
「今はな」
「今は、って」
「昨日はいた。白い服で、手を振ってた」
私はぞっとした。
「昨日、私も手を振られた」
言ってから、二人とも黙った。
同じことを言っているように見えた。だが、指している場所は違う。佐伯は階段。私は仮囲いの奥。
なのに、どちらも「昨日、そこにいた誰かに手を振られた」と言っている。
気味の悪さに耐えきれず、私はスマートフォンを取り出した。
「写真撮る」
「何を」
「今の場所」
私は仮囲いを写した。次に佐伯が階段のほうを写した。互いの画面を見せ合う。
そこまでは、普通だった。
私の写真には、白い仮囲いと、雨に濡れたアスファルトが写っていた。佐伯の写真には、細い階段と、錆びた手すりが写っていた。
問題は、その次だった。
「拡大して」
そう言われて、私は自分の写真を拡大した。仮囲いの切れ目、その奥。暗がりの中に、白っぽい輪郭がある。人の顔のようにも見える。
佐伯が息をのんだ。
「それ」
「何」
「四階の女だ」
私は佐伯の写真を拡大した。階段の途中、踊り場の影の中。白いものが立っている。遠くて不鮮明だが、たしかに何かがいる。
私は言った。
「それ、仮囲いの奥にいたやつだ」
雨が強くなった。
その場に立っているのが嫌になって、私たちは近くのファミレスに入った。窓際の席に座り、濡れた上着を脱ぐ。店内は明るく、油とコーヒーの匂いがした。さっきまでの場所と地続きとは思えないほど、まともな世界だった。
だが会話は、そこでも噛み合わなかった。
「前からなんだよ」と佐伯が言う。「あそこ、たまに見えるやつがいる」
「だからどっちのあそこ」
「駅裏の、例の場所」
「例の場所って何」
「お前、さっきから何なんだよ。あそこはあそこだろ」
「いや、それじゃ分からないって」
佐伯は苛立ったように水を飲み、テーブルにグラスを置いた。
「じゃあ住所で言う。北町二の三」
私は口を開いたまま、数秒止まった。
「……そこ、うちのアパートだ」
佐伯の顔が固まった。
「は?」
「駅裏じゃない。北町二の三って、線路越えた先だろ」
「違う。駅の北口出て、花屋の跡の裏」
「それは北町一の八だ」
そこで二人ともスマートフォンの地図を開いた。画面を見比べる。駅は同じ。北口も同じ。花屋の跡も、コンビニも、雑居ビルも、確かに同じ位置にある。だが住所表示だけが、なぜか食い違っていた。
私は自分の画面を見せる。
「ここ。北町一の八」
佐伯も自分の画面を見せる。
「ほら、北町二の三」
画面上で、指しているピンはまったく同じ場所だった。
それでも表記だけが違う。
「おかしいだろ」
「おかしいのはお前のほうだ」
そう言い返した声が、思ったより小さかった。
そのとき、注文もしていないのに、店員が水を二つ持ってきた。若い女の店員だった。無表情で、テーブルにグラスを置く。
ふと見ると、名札が裏返っていた。
佐伯が何気なく、すみません、と呼び止めた。
「この辺って、昔、何かありました?」
雑な聞き方だった。だが店員は足を止め、少しだけ首をかしげた。
「何か、とは」
「工事現場のあそこです。前、建物ありましたよね」
店員は私を見た。次に佐伯を見た。ほんの一拍置いて、静かに言った。
「ありましたよ」
私は身を乗り出した。
「何がありました?」
「公園です」
私は息を止めた。佐伯が低く言う。
「病院じゃなくて?」
店員は微笑んだ。
「病院でしたよ」
その瞬間、背中が冷えた。
私は確かに聞いた。最初に彼女は「ありましたよ」と言い、その次に私へ「公園です」と答え、佐伯へ「病院でしたよ」と答えた。
同じ場所について、連続で。
しかも口調には一切迷いがなかった。
佐伯もそれを理解したらしく、椅子を引く音がした。
「いや、ちょっと待ってください。どっちですか」
店員はまた、ほんの少しだけ首をかしげた。
「同じ場所の話ですよね?」
私は喉が渇くのを感じた。
「同じ場所です」
「でしたら、どちらでも合っています」
「何が」
「見え方の話ですから」
それだけ言って、店員は下がった。
私たちはしばらく黙っていた。店内のざわめきが遠かった。隣の席では家族連れが笑っていて、厨房から皿の触れ合う音がしている。なのに、自分たちの席の周囲だけ、何か薄い膜で隔てられているようだった。
私はようやく口を開いた。
「……見え方って何だよ」
佐伯は答えなかった。代わりにスマートフォンを見ていた。その顔色が、さっきより悪い。
「どうした」
「今、母親から来た」
「何が」
佐伯は画面をこちらへ向けた。メッセージが一通だけ来ていた。
――さっき、あんたの会社の近く通ったら、例の公園、まだ工事してたよ。病院、なくなってずいぶん経つのに、変なのね。
私は何も言えなくなった。
公園。病院。なくなった。まだ工事してた。
矛盾しているのに、一文として成立している。しかも誰もその矛盾に気づいていない書き方で。
佐伯が震える指で、母親に電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、出たらしい。
「母さん、あのさ。今どこの話してる?」
数秒、沈黙。
「だから、例の場所だよ。駅裏の」
佐伯の顔が硬くなる。
「そこ、公園なの? 病院なの?」
電話の向こうで、母親は笑ったらしかった。佐伯の表情が歪む。
「何で笑うんだよ」
また数秒。
そして佐伯は、電話を耳から離した。通話はまだつながっている。向こうから女の声が漏れてくる。
『だって同じ場所でしょう。何を言ってるの』
その声は、電話の向こうから聞こえているはずなのに、すぐ横でも聞こえた気がした。
私は反射的に窓の外を見た。
道路の向こう、雨の歩道に、白い服の女が立っていた。
濡れているのに、輪郭だけが妙にはっきりしている。こちらを見て、静かに手を振っている。
佐伯も気づいたらしく、喉の奥で何かが詰まる音がした。
私は立ち上がれなかった。
あれは仮囲いの奥にいたものだ、と私は思った。
いや、階段の踊り場の女だ、と佐伯は思ったはずだ。
たぶん、どちらも間違っていなかった。
女が、口を動かした。
窓越しなのに、声だけははっきり聞こえた。
「ねえ」
私は佐伯と同時に顔を向けた。
女はまた笑った。
「同じところの話をしてるのに、どうして会えないの?」
その夜、私たちは別々に帰った。
連絡を取り合おうとは言ったが、結局そのあと佐伯とは一度も話が合わなかった。
電話をかけても、佐伯は必ず、今どこだ、と聞く。私は自宅だと答える。すると佐伯は、よかった、まだ会社なんだな、と安堵したように言う。意味が分からない。私が何度説明しても、会話の芯だけがずれる。
三日後、佐伯は無断欠勤した。
上司に言われてアパートを訪ねたが、部屋は空だった。荷物はほとんど残っているのに、本人だけがいない。管理会社は、昨夜のうちに退去したのではないかと言った。そんなはずはない、と私が言うと、担当者は困ったように首をかしげた。
「でも、ここ、もともと空室ですよ」
部屋番号も、建物名も、住所も合っていた。
合っているのに、話だけが合わない。
その帰り道、私は駅の北口を通った。
花屋の跡地の裏。白い仮囲いはなくなっていた。
代わりに、小さな公園ができていた。濡れた滑り台と、鉄の階段のついた遊具がある。
私はしばらく立ち尽くした。
遊具の上、ちょうど四階の踊り場くらいの高さの場所で、白い服の女がこちらを見ていた。
私はたぶん、何か言わなければいけなかった。
ここは公園か、とか。
病院はどこへ行った、とか。
佐伯を見なかったか、とか。
でも、そのどれも、同じことを指していない気がした。
女は静かに、昨日の続きみたいな声で言った。
「大丈夫。今度は、ちゃんと同じ場所で話せるよ」
私は逃げた。
それから北口には行っていない。
けれど会社で、ときどき同じ質問をされる。昨日、あそこ行っただろ、と。
私は毎回、どこのことですかと聞く。
すると相手は少しだけ不思議そうな顔をして、こう言うのだ。
「同じ場所のことだよ」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この話は、「同じ場所の話をしているのに会話が合わない」という違和感から生まれました。
人は同じ言葉を使っていても、見ているものが同じとは限りません。
場所も、出来事も、記憶も、少しずつ違うことがあります。
ただ、それが本当に“少し”の違いなのかどうかは、
案外、誰にも確かめようがないのかもしれません。
もし誰かと「あそこ」の話をするときは、
念のため確認してみてください。
そこは、本当に同じ場所ですか?




