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『同じ場所の話なのに、誰とも話が合わない』──昨日、あそこに行ったよね?

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/03/17

 最初に違和感を覚えたのは、昼休みの休憩室だった。


 紙コップのコーヒーを持って入ると、窓際にいた佐伯がこちらを見て、昨日あそこ行っただろ、と言った。


 あそこ、という言い方に少し引っかかったが、心当たりはあった。昨夜、会社帰りに駅の北口を回って帰った。最近は工事で導線が変わっていて、遠回りになるのが面倒で、あまり通りたくない場所だった。


 だから私は、北口のほう、と返した。


 佐伯は妙な顔をした。

「北口じゃなくて、あそこだよ。裏の」


 裏、と言われて、ああ、駐輪場の横の細い道かと思った。そこも通った。薄暗く、街灯が一本だけ死んでいて、夜は足元が見えにくい。


「通ったよ。自転車が何台か倒れてた」


 すると佐伯は、笑いかけてやめたような、半端な顔になった。

「倒れてた、って。そういう話じゃなくてさ」


「じゃあ何」


「見たんだろ?」


 見た、という言い方で、私は足を止めた。


 昨夜のことを思い出す。細い道の途中、工事用の白い仮囲いの向こうに、古い二階建ての建物が見えた気がした。あんなところに建物があっただろうかと思って、少しだけ立ち止まった。窓は暗く、ガラスの一枚にだけ街灯が映っていた。誰かが立っているようにも見えたが、疲れていたし、すぐに視線を逸らした。


 それのことを言っているのかと思って、私は小さくうなずいた。

「まあ、一応」


 佐伯の顔色が変わった。

「やっぱり見たんだ」


 その言い方が、妙に嬉しそうでもあり、怯えてもいて、気味が悪かった。

「何を」


「いや、こっちが聞いてるんだけど」


「いや、だから何を見たって?」


 会話が一度そこで引っかかった。佐伯は私を見て、私も佐伯を見る。お互いに、相手がわざと外しているような気分になった。


 先に目を逸らしたのは佐伯だった。

「……もういい。見たなら、今日は北口通るなよ」


「だから北口じゃなくて裏だろ」


「同じだよ」


「同じじゃないだろ」


 そう言った瞬間、佐伯はほんの少し眉を寄せた。冗談ではなく、本気で、何を言っているんだという顔だった。


 その日の午後、雨が降った。


 小さな雨だったが、夕方には風も出て、駅前のアスファルトが黒く濡れた。私は少し残業してから退社し、結局また北口へ向かった。遠回りをしたくなかったのと、昼の会話が気になって、あえて確かめたくなったからだ。


 駅の北口を出て、ロータリーを回る。バス停、コンビニ、閉店した花屋の跡。見慣れた景色しかない。そこから裏手へ抜け、駐輪場の横の道に入る。昨夜見たはずの仮囲いはそのままだった。白いパネルが続き、工事名の書かれた看板が雨に濡れていた。


 だが、昨日見えたはずの二階建ての建物は見当たらない。


 気のせいだったのか、と思ったときだった。


 仮囲いの切れ目の奥で、誰かが立っているのが見えた。


 作業員にしては無防備な、暗い色の服だった。こちらを向いているのかどうかも分からない。距離のせいで、輪郭が曖昧だった。


 私は足を止めた。


 すると、その人影が、手を上げた。


 呼んでいるように見えた。


 次の瞬間、背後で自転車のブレーキ音がして、振り返ると佐伯がいた。傘も差さず、息を切らしている。

「お前、何で来たんだよ」


「何でって……」


「見えるのか」


「何が」


「そこ」


 そこ、と佐伯が指した先は、仮囲いではなかった。道の反対側、古いコインパーキングのさらに奥。雑居ビルとビルの間にある、幅の狭い階段のほうだった。


 私は言った。

「いや、そっちじゃなくて」


 佐伯の指が止まった。

「は?」


「私はこっち見てたんだけど」


「こっちって、工事現場?」


「工事現場の奥」


「奥なんかないだろ」


 今度は私が、は、と返す番だった。


 仮囲いの向こうを見やる。さっきまで立っていたはずの人影はいない。だが奥行きは確かにあった。仮設の足場と、その向こうの暗がり。建物があるかどうかまでは分からないが、少なくとも空き地ではない。


「あるだろ。見えるだろ」


「何が」


「だから奥が」


 佐伯はゆっくり首を振った。

「あそこ、平地だぞ。更地。来月から駐車場増やすって話の」


 雨音だけが、やけに大きく聞こえた。


 お互い、少しずつ声が低くなる。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、相手の言っていることが、どうしても理解できない。そんなときの、変な静けさだった。


「じゃあ、お前が昼に言ってた、見たって何のことだよ」


 私がそう言うと、佐伯は少し迷ってから、階段のほうを見た。

「女だよ」


「女?」


「四階の踊り場に、立ってる」


 私は反射的に階段を見る。細い、非常階段のような鉄の階段が、ビルの外壁に沿って伸びている。だが四階どころか、途中から上は影で潰れていて見えない。


「見えないけど」


「今はな」


「今は、って」


「昨日はいた。白い服で、手を振ってた」


 私はぞっとした。

「昨日、私も手を振られた」


 言ってから、二人とも黙った。


 同じことを言っているように見えた。だが、指している場所は違う。佐伯は階段。私は仮囲いの奥。


 なのに、どちらも「昨日、そこにいた誰かに手を振られた」と言っている。


 気味の悪さに耐えきれず、私はスマートフォンを取り出した。

「写真撮る」


「何を」


「今の場所」


 私は仮囲いを写した。次に佐伯が階段のほうを写した。互いの画面を見せ合う。


 そこまでは、普通だった。


 私の写真には、白い仮囲いと、雨に濡れたアスファルトが写っていた。佐伯の写真には、細い階段と、錆びた手すりが写っていた。


 問題は、その次だった。


「拡大して」


 そう言われて、私は自分の写真を拡大した。仮囲いの切れ目、その奥。暗がりの中に、白っぽい輪郭がある。人の顔のようにも見える。


 佐伯が息をのんだ。

「それ」


「何」


「四階の女だ」


 私は佐伯の写真を拡大した。階段の途中、踊り場の影の中。白いものが立っている。遠くて不鮮明だが、たしかに何かがいる。


 私は言った。

「それ、仮囲いの奥にいたやつだ」


 雨が強くなった。


 その場に立っているのが嫌になって、私たちは近くのファミレスに入った。窓際の席に座り、濡れた上着を脱ぐ。店内は明るく、油とコーヒーの匂いがした。さっきまでの場所と地続きとは思えないほど、まともな世界だった。


 だが会話は、そこでも噛み合わなかった。


「前からなんだよ」と佐伯が言う。「あそこ、たまに見えるやつがいる」


「だからどっちのあそこ」


「駅裏の、例の場所」


「例の場所って何」


「お前、さっきから何なんだよ。あそこはあそこだろ」


「いや、それじゃ分からないって」


 佐伯は苛立ったように水を飲み、テーブルにグラスを置いた。

「じゃあ住所で言う。北町二の三」


 私は口を開いたまま、数秒止まった。


「……そこ、うちのアパートだ」


 佐伯の顔が固まった。

「は?」


「駅裏じゃない。北町二の三って、線路越えた先だろ」


「違う。駅の北口出て、花屋の跡の裏」


「それは北町一の八だ」


 そこで二人ともスマートフォンの地図を開いた。画面を見比べる。駅は同じ。北口も同じ。花屋の跡も、コンビニも、雑居ビルも、確かに同じ位置にある。だが住所表示だけが、なぜか食い違っていた。


 私は自分の画面を見せる。

「ここ。北町一の八」


 佐伯も自分の画面を見せる。

「ほら、北町二の三」


 画面上で、指しているピンはまったく同じ場所だった。


 それでも表記だけが違う。


「おかしいだろ」


「おかしいのはお前のほうだ」


 そう言い返した声が、思ったより小さかった。


 そのとき、注文もしていないのに、店員が水を二つ持ってきた。若い女の店員だった。無表情で、テーブルにグラスを置く。


 ふと見ると、名札が裏返っていた。


 佐伯が何気なく、すみません、と呼び止めた。

「この辺って、昔、何かありました?」


 雑な聞き方だった。だが店員は足を止め、少しだけ首をかしげた。

「何か、とは」


「工事現場のあそこです。前、建物ありましたよね」


 店員は私を見た。次に佐伯を見た。ほんの一拍置いて、静かに言った。

「ありましたよ」


 私は身を乗り出した。

「何がありました?」


「公園です」


 私は息を止めた。佐伯が低く言う。

「病院じゃなくて?」


 店員は微笑んだ。

「病院でしたよ」


 その瞬間、背中が冷えた。


 私は確かに聞いた。最初に彼女は「ありましたよ」と言い、その次に私へ「公園です」と答え、佐伯へ「病院でしたよ」と答えた。


 同じ場所について、連続で。


 しかも口調には一切迷いがなかった。


 佐伯もそれを理解したらしく、椅子を引く音がした。

「いや、ちょっと待ってください。どっちですか」


 店員はまた、ほんの少しだけ首をかしげた。

「同じ場所の話ですよね?」


 私は喉が渇くのを感じた。

「同じ場所です」


「でしたら、どちらでも合っています」


「何が」


「見え方の話ですから」


 それだけ言って、店員は下がった。


 私たちはしばらく黙っていた。店内のざわめきが遠かった。隣の席では家族連れが笑っていて、厨房から皿の触れ合う音がしている。なのに、自分たちの席の周囲だけ、何か薄い膜で隔てられているようだった。


 私はようやく口を開いた。

「……見え方って何だよ」


 佐伯は答えなかった。代わりにスマートフォンを見ていた。その顔色が、さっきより悪い。

「どうした」


「今、母親から来た」


「何が」


 佐伯は画面をこちらへ向けた。メッセージが一通だけ来ていた。


 ――さっき、あんたの会社の近く通ったら、例の公園、まだ工事してたよ。病院、なくなってずいぶん経つのに、変なのね。


 私は何も言えなくなった。


 公園。病院。なくなった。まだ工事してた。


 矛盾しているのに、一文として成立している。しかも誰もその矛盾に気づいていない書き方で。


 佐伯が震える指で、母親に電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、出たらしい。


「母さん、あのさ。今どこの話してる?」


 数秒、沈黙。

「だから、例の場所だよ。駅裏の」


 佐伯の顔が硬くなる。

「そこ、公園なの? 病院なの?」


 電話の向こうで、母親は笑ったらしかった。佐伯の表情が歪む。

「何で笑うんだよ」


 また数秒。


 そして佐伯は、電話を耳から離した。通話はまだつながっている。向こうから女の声が漏れてくる。


『だって同じ場所でしょう。何を言ってるの』


 その声は、電話の向こうから聞こえているはずなのに、すぐ横でも聞こえた気がした。


 私は反射的に窓の外を見た。


 道路の向こう、雨の歩道に、白い服の女が立っていた。


 濡れているのに、輪郭だけが妙にはっきりしている。こちらを見て、静かに手を振っている。


 佐伯も気づいたらしく、喉の奥で何かが詰まる音がした。


 私は立ち上がれなかった。


 あれは仮囲いの奥にいたものだ、と私は思った。

 いや、階段の踊り場の女だ、と佐伯は思ったはずだ。


 たぶん、どちらも間違っていなかった。


 女が、口を動かした。


 窓越しなのに、声だけははっきり聞こえた。


「ねえ」


 私は佐伯と同時に顔を向けた。


 女はまた笑った。


「同じところの話をしてるのに、どうして会えないの?」


 その夜、私たちは別々に帰った。


 連絡を取り合おうとは言ったが、結局そのあと佐伯とは一度も話が合わなかった。


 電話をかけても、佐伯は必ず、今どこだ、と聞く。私は自宅だと答える。すると佐伯は、よかった、まだ会社なんだな、と安堵したように言う。意味が分からない。私が何度説明しても、会話の芯だけがずれる。


 三日後、佐伯は無断欠勤した。


 上司に言われてアパートを訪ねたが、部屋は空だった。荷物はほとんど残っているのに、本人だけがいない。管理会社は、昨夜のうちに退去したのではないかと言った。そんなはずはない、と私が言うと、担当者は困ったように首をかしげた。


「でも、ここ、もともと空室ですよ」


 部屋番号も、建物名も、住所も合っていた。


 合っているのに、話だけが合わない。


 その帰り道、私は駅の北口を通った。


 花屋の跡地の裏。白い仮囲いはなくなっていた。


 代わりに、小さな公園ができていた。濡れた滑り台と、鉄の階段のついた遊具がある。


 私はしばらく立ち尽くした。


 遊具の上、ちょうど四階の踊り場くらいの高さの場所で、白い服の女がこちらを見ていた。


 私はたぶん、何か言わなければいけなかった。

 ここは公園か、とか。

 病院はどこへ行った、とか。

 佐伯を見なかったか、とか。


 でも、そのどれも、同じことを指していない気がした。


 女は静かに、昨日の続きみたいな声で言った。


「大丈夫。今度は、ちゃんと同じ場所で話せるよ」


 私は逃げた。


 それから北口には行っていない。


 けれど会社で、ときどき同じ質問をされる。昨日、あそこ行っただろ、と。


 私は毎回、どこのことですかと聞く。


 すると相手は少しだけ不思議そうな顔をして、こう言うのだ。


「同じ場所のことだよ」


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


この話は、「同じ場所の話をしているのに会話が合わない」という違和感から生まれました。


人は同じ言葉を使っていても、見ているものが同じとは限りません。

場所も、出来事も、記憶も、少しずつ違うことがあります。


ただ、それが本当に“少し”の違いなのかどうかは、

案外、誰にも確かめようがないのかもしれません。


もし誰かと「あそこ」の話をするときは、

念のため確認してみてください。



そこは、本当に同じ場所ですか?


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― 新着の感想 ―
面白かったです。 こういう系好きだけど、「超常関係なく理論的にあり得る」となった方が怖いんですよね。 「密室殺人の犯人は幽霊でも超能力者でもありませんでした。不法侵入してたストーカーが犯人です」みた…
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