第六話 ……げこげこ?
危機を察した彼女は配置についていた狙撃ポイントから、隣の建物へと飛び移る。隣を駆け上る慌ただしい足音をやり過ごし聞きながら、細い配管に掴まり息を乱し吐く。
制服の第一ボタンに搭載していた小型通信機、そこに届いていた鼻からの次の指示が雑音と共にぷつりと途絶えた──。
配管を音を立てず滑り降りながら静かに侵入した空き部屋。二階の位置からすぐさま、知らない色のカーテンを少し開ける。
雷飯天と看板の書かれた中華料理店、その隣の隙間、賑わう街路向こうの暗がりに、青く煙りただよう異様な静けさを彼女は忍び見つめる。
されど忍び難し。小隊の一員として指示のない今、自分は動くべきなのか彼女は考える。
考える……されど、考えている場合ではないそんな気がする。こそこそ身を潜め、ここで自分一人だけが、青く煙りだしたその不鮮明な状況を見守りじっとしているのが辛かった。
不測の事態に陥った時、忍びの者の真価は試される。
それは選択を伴う、危うさか安牌か沈黙か、それとも逃走か。自分の頭で瞬時に、あるいは熟慮し、優先する何かを選び取らなければならない。
時には焦燥に湧き出たその乾いた固唾を飲み込み、何かを切り捨てなければならない時もある。
息を潜めた土門美沙は、肩からかけ携帯していた腰元のポシェットを開いた。
だが、その中にあった投擲武器となる特製の泥団子は残り二つ。さらさらと指をすり抜け流れ落ちる砂に、土門は無力さを握りしめる。
「十男のすなずなーが死んだ……。どうする、どうする……うごく? たすける? きっと──あ……」
土門美沙は、隊を率いる鼻役を務める器ではない。いつも優秀で冷静な藤林夜翠の指示がなければ、彼女は自分一人では何もできないことを今更ながら身に沁みて知ってしまう。
状況も分からない。通信は途絶えた。向こうの路地裏を漂っていた青い煙が明けた時には、もう──誰の姿もそこにはなかった。
コック服の男たちも、護衛対象も、藤林夜翠も、古林綾女も、あの図体のでかいクソもちすらも──。
不安が現実になる。空っぽになった暗がりを、外の光を遮るカーテンの隙間からこそこそと覗いている自分がいる。
見知らぬ暗い部屋に立つ彼女の頭が、真っ白になる──。
判断の遅さが招いたのは、敵の行方も味方の行方も何も分からない置き去りの結末であった。
土門美沙は、動かない。
動けない。
こんな時にどうすればいいのか、経験の浅い彼女には分からなかった。
だが、その時──腰元に蠢く奇妙な気配を感じた。
土門美沙はポシェットに詰めていた砂の中に手を突っ込み、まさぐった。
そして逆さになっていた細く青い枝を手に掴み、埋もれる砂中からそれを持ち上げた。
『ニンムヘンコ──ゲルゲコ、コホっ──』
「!……げこげこ?」
ポシェットの砂の中にいつの間にか紛れ込んでいた、青い蛙が、任務の変更を唱え鳴いていた。
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▽
蛇腹市緑町、寂れた商店街通りにあるコロッケ屋「ときめき」の前にて。
黒いワンピース、黒いベレー帽、黒いマスク。彼女はよほど黒という色に信頼を置いているのだろうか。
コロッケ屋の最前列に並ぶ黒尽くめの女性客は、今突然、後ろに忍び寄った静かな殺気に反応した。
振りかぶった鉄鞭が、黒尽くめの女の脳天へと向けて下された。
鋭く破裂する音が鳴る。しかし、割っていたのは赤い風船。鉄鞭を振り下ろす右手へと返る手応えは、虚しくも空だった。
グレーのニット帽の男は、サッカー選手のように首を必死に振り、辺りを探すも誰もそこにはいない。シャッターの閉まった、惰性の極みにある寂れた商店街だった。
風船の破裂音が、風穴が空いたような昼の商店通りへと吹き抜けて響く。
店主のお婆さんにじーっと睨まれてしまっていたニット帽の男は、その嫌な視線に耐えられず。
仕方なくミスを起こし生じたその不審さを取り繕うように、誰もいないコロッケ屋の前へと一歩進み並んだ。
(風船!? 消えた……!? 嘘だろあの98点の動きで勘付かれた!? とすると2点の詰めは……チッ、昨日買ったニット帽がお肌にちくちくしやがったからだチキショー!! って見てんじゃねぇぞクソババア……チッ、バレた忍びがされると一番嫌な顔しやがって……その不味い油のコロッケはいくらダッ──!?)
客が並ぶと、視線を逸らしたお婆さんはまたコロッケを揚げ出した。
するとグレーのニット帽の男が、小銭を探そうとおもむろにポケットに手を入れた瞬間──
黄色いゴムの管が「きゅっきゅっ」と音を立て、ニット帽の男の首に巻きついた。
さらにまたゴムの擦れる音を鳴らし、折り曲げたペンシルバルーンの先端を男の口へと突っ込んだ。
口を塞ぎ、首を絞め、引き摺り込んで敵を黙らせる。
後ろから忍び襲ってきた輩に、どこかで息を潜めていた黒尽くめの女が、意趣返しをするような静かなる反撃を開始した。
ペンシルバルーンを用いた鮮やかな体術と忍術で、ニット帽の男を返り打ちにすることに成功した。
気絶させた男を、閉鎖した店前のシャッターに静かに寝かせ、首を絞めながら作った鼠の風船のアートをその憩う手に持たせた。
(こいつは散開した時にいた銀鼠ノ小隊で見た相貌の男……何故任務中に私を後ろから襲っている? ……Nに昼時のコロッケを咎められた? ……)
黒尽くめの女は、僅かだが見覚えのあるそのニット帽の男の顔を凝視しながら訝しんだ。
女が不可解なミステリーの只中で立ち止まり考え込んでいたその時──。
商店街を少し外れたなんでもないアスファルト道に、何かが鋭い音を立てて落ちた。
コロッケ屋の隣のシャッター前から離れた女は、今何かが落ちたその場へと走った。
そしてアスファルトの上で弱ってヘソを見せていた、青い何かをその手のひらに優しく掬い上げるように彼女は乗せた。
『ニジュウ、ウソ、テキ、ギョイギョイ、ゲコ……ゲココ……』
土に汚れた青い蛙は、酔いながらもたどたどしく鳴いている。そしてそれが、何かを伝えようとしているのが中忍である彼女には分かった。
「ん? この鳴き声これは……百地大地、【ペットかわずや】の子口? 飛ばされたのは土門美沙の土の印……緋ノ小隊」
彼女は見抜いた。その飼い主、青い蛙の生まれ故郷まで。そして今年度受け持ったばかりのよく知らぬ生徒の印のことまで。
「二重式は……敵の方か。御意──外のマヌケの排除に移る」
天から降った一粒の泥団子に包まれていたメッセージは、鳴き伝えられた。
彼女はその白い小さな腹を指で撫で、竹筒に入れていた非常用の飲み水を、お疲れの青い蛙へと浴びせた。
「お〜〜〜〜っいや、コロッケ? 代金! ──ンッ?」
商店通りの外まで追いかけて来た腰を辛そうに叩くお婆さんに、彼女はお礼の札を一枚手渡した。
代金と引き換えに元気に戻ったお婆さんから、まだ温かなコロッケの六つ入った包みを受け取る。
作戦の変更を伝達され理解した中忍のサザ先生は、風を切るようにどこかへと素速く走り出した。




