第三十二話 千任蛙の息子
B-1燻蒸庫。リカルドの吐き出す狂気じみた声が反響する。
謂れのない歓迎と憎悪のベクトルを向けられた大地は「人違いだ」と吐き捨て、その初対面のモヒカン男の横を通り過ぎようとした。
だが──。
『大地ぃ……ぅぐっ……。大ちゃん……そこにいるの?』
不意に、乱雑に置かれた古ぼけたラジオのスピーカーから、ノイズ混じりの声が流れた。
すると、歩き出していた大地の動きがぴくりと止まる。
聞き覚えのある声。父の、そして母の、自分を呼ぶ声に思わず反応し、一度足を止めざるを得なかった。
「おや、どうしたぁ? どうして足を止めているううう! ははははははは!!」
リカルドは笑わずにはいられない。偽りの醜い姿ですかしていたその男が、置物のように大人しくなった姿に。
「あいにく俺は貴様を舐めない。あの刹那とかいう女より強いとあっちゃぁ、真っ向勝負は割に合わないからな。……安心しろ、俺は友人が多くてね。こういう工作は朝飯前だ」
大地は動かない。その拳を握りしめたまま、リカルドの下卑た言葉を黙って聞き届ける。
「ははははは! ……動くなよ。鬼にも聞き分けがあるならな?」
リカルドは今おもむろに見せつけたスマホの画面を、トントンと、注目を促すように爪でつつく。見知らぬ廃工場の中のような雰囲気のそこには──縄で縛り上げられた父、百地圭介と、母、百地恵らしき姿が一緒に映っていた。
鋭利な爪が小気味よく画面をつつき、そこに映る者たちを穿つような傷が付く。
大地は悪辣なリカルドの言葉通り、まるで金縛りにあったようにその場を一歩も動かない。終始黙り、動こうとしなかった。
その優しい脅しに屈し、聞き分けのいい態度に変わった男のことを、リカルドはまた嗤った。そして、その大きく肥えた直立の像を、あらゆる角度から鑑賞するように睨み、ぐるぐると周りを歩き始めた。
やがて、物足りなく感じたリカルドは、手に取った一房の葡萄を握り潰した。その滴る血のような汁を近づいた大地の頭上から、屈辱の証としてじっくりと搾り、浴びせかけた。
「ははははは、しかしそうだな……。これでは興が乗らん。まずはその醜い〝正体〟を晒せ。化けの皮を脱げよ、百鬼ぃ?」
しかしこれでもまだ穢し足りない。その頭に次々と渦巻き出した悪の企みが尽きないリカルドは、さらに従順の証を見せるように、その醜い化けの皮を被る男へと命令した。
「……これでいいか」
大地の身体を肥やしていた冥力の歪みが消えて、鋭く研ぎ澄まされたまことの素顔が露わになる。
「ほぉー……これはあながち良いキャンバスをお持ちだ。熱狂する馬鹿なファンがいるのも頷けるな。──忍具も全部捨てろ」
印により変化した百鬼の面を、笑い拝んだリカルドは、優位さに乗じて重ねて命令する。
「捨てたぞ」
大地はまたも命令通りに、懐に忍ばせていた忍具を抜き出し、音を立てて一つ一つ床へ放り投げた。
自分の命令一つで、その男の手元から一つ一つ武器が溢れ落ちていく音がする。目と鼻の先で、最強の忍者と謳われるその美しい〝百鬼〟たる存在が、容易く崩れていく様に、リカルドはやはり笑わずにはいられない。服従する男が精一杯に演じるその滑稽な芝居に、腹を抱えるだけでは足りず、天に仰け反るような高笑いを浮かべた。
仰ぐ顔まで抑え笑うあまりに、指先から鋼のように鋭い爪を突き出し立てた。
「はははははははよくできましたぁ! ……では、ここからが〝ご褒美〟だ。おっと動くなよ、動くとズレるからな」
リカルドは長い舌で舐めずった己の左の頬にある痛々しい裂け傷を、爪先でそっと撫で上げる。
「夜は長い、ただでは殺さねェ。先ずはその憎たらしく整った顔面を、オレ様とお揃いに引き裂いてやるううう!!!」
怒り充血した眼、ひん剥き睨む冷酷な青い瞳孔。気を極限まで昂らせた狂狼が駆ける。
目を瞑り沈黙した美しく愚鈍な獲物へと、駆ける飢えた狼はもう待ち切れない。狂気に尖らせた獣の爪が容赦なく、今真っ直ぐに、そのまっさらな顔面に向かい迫った。
だが、次の瞬間──。肉薄する無知な獣の正面へと見開かれたのは、黒く鋭い眼。
「ぎゃばっ!!??」
そして、研ぎ澄まされ放たれたその刹那の殺意を感じる間もなく、吹き飛んでいたのは醜い獣男、リカルドの方だった。
醜く変化していた狗の鼻先を、ぐにゃり──圧され叩き出された狂狼は、麻袋の山に一直線に激突し血反吐をぶちまける。
「ぎっ、ぎ様……なんで動いてやがる!!? ぼっ、オレをっ……狂狼のリカルド様を舐めているのかぁああ!!! 罰だ罰だバツだッッ!!! 今すぐに八つ裂きにしてやるッッお前の親は、俺の手中に……ッ!」
「舐めているのはお前だよ、狼もどき。千任蛙が、泣き言を鳴くかよ。──ちったぁ、忍びやがれ……!」
狼男が画策した不出来な人質作戦に従う芝居は、もう終わりでいい。
千の任務をこなした伝説の忍びは柔じゃない。死んでも情けない泣き言など吐かない。
千任蛙の息子、百鬼の大也は屈しない。痛快に殴り飛ばしたその拳へぬるい息を吹きかけながら、潰れた鼻を抑えて喚く愚かな狼男へと、ワラい返した。
▼
▽
リカルドのスマホ画面に映し出されていた、寂れた廃工場の一角。壁にスプレーで描かれた犬の首と【Grey Howl】と書かれた英字は、離れた彼らの繋がりを示しているのだろうか。
薄暗いアジトのようなそこには、縄で椅子に縛り付けられ、痺れ薬まで飲まされた哀れな夫婦の姿があった。
「おい、そこの小僧……。エチケット袋はないか。……出来の悪い痺れ薬のせいで、吐きそうだ」
虚ろな目をしていたはずの人質の男が、突然、面倒そうに口を開いた。
近くにいた見張りの構成員の一人は、動けないその中年の男のことを鼻で笑った。
「エチケットだぁ? はははやっと口を割ったと思えば何言ってやがるこのおっさん? 黙れ! 臭い口がっ。吐きたきゃその辺にみっともなくぶちまけろよ! ……まったく、ゲロでも屁でもなんでもしやがれってんだ、慣れてんだよそんなもん。楽して金さえ貰えりゃそれでいいんだよ馬鹿親が」
とは言うものの、吐く瞬間など誰も進んで見たくはない。見張りの男は目を離し、人質から少し離れて怠そうに背を向けた。言葉通りに勝手に吐けとでも言いたげだ。
「あぁ……そうかい。なら、盛大に」
百地圭介が深く息を吸い込んだ、次の瞬間。ぶくぶくと蛙の鳴嚢のように大きく膨らんだ彼の頬。そのはち切れんばかりに変容したがま口から、噴火のごとく、熱々に煮え滾るがま油が大量に射出された。
「がぎゃああああああっ!!??」
奇妙な音と気配に振り返った時にはもう遅い──。肌に粘り纏わりつく熱帯びた冥力に焼かれ続け、GHの構成員の一人が顔を抑えて転げ回る。
「圭ちゃん!」
「応っ!」
隣で一緒に縛られていたはずの妻、百地恵は、いつの間にか、まるで蛸のように難なくするりと、手首の縄を既に解いていた。彼女はその解いた縄を、すぐさま流れるような動作で夫の圭介へと放り投げる。
圭介は受け取ったそれを、自分を縛っていた油の染みた縄と後ろ手で器用に結び上げた。すると何故か、縄は一回り細くなり、圭介も縄の拘束から瞬く間に抜け出すことに成功していた。
「なっ……縄が解けた!? なんでだ!? シーズーゥゥお前ェェ!! ヌルい事してんじゃねぇゾッ!! ちゃんと縛ったのかオイッ!?」
「俺のせいにしてんじゃねぇ、フンド!! これで抜け出せた奴なんていねぇ!! てめぇこそ立ちションして目ェ離してんじゃねぇ!!」
「チッ……分かった兄弟喧嘩は後だ! シェパードがやられた、とりあえずコイツらぶっ殺すぞ! 人質なんて関係ねェ!!」
「あぁっ兄弟……シェパードにはナァッ!! まだ三万貸したまんまなんだよオラァッ!!」
歪み合い混乱する残りの敵に向け、圭介はしっかりと結んだその一本の長縄を、勢いよく無造作に投げつけた。
「そんな細い紐で何ができる! 犬の散歩もできやしべっっ──!??」
ひょろひょろと空を走るのは武器とも言えない頼りない縄。そんな物で止められる訳がないと、鼻で笑うフンドとシーズーは、ナイフを片手に構わず前へと突っ走った。
だが、宙を舞った縄の様子がおかしい。それは二人の視界に近づくにつれて、何故か次第に大きくなっている。
『気のせいじゃない、あり得ない!?』──そう気づいた時にはもう、象の鼻ほどに膨らんだ燃え滾る太縄が、愚かな前進を続けていた彼らの身を強く打った。
燃える象の如きその逞しい長縄が、敵を二人まとめて薙ぎ払い蹂躙した。
「漆技がま口【油百景】そして」
「冥技【心象膨大変】っふふ」
「「合わせて妙技【火遁象大縄変化】!!」」
歳を取っても二人の息はぴったり。
最強の息子が敬愛する伝説の忍び千任蛙と、その傍らに勇み立つはぐれ姫。
恋路戦場死地修羅場。あらゆる手で潜り抜けて来た、この二人に勝るものはない。
▼
▽
殴り飛ばしたリカルドから大也が抜け目なく奪い取ったスマホが、犬の吠え声の着信音と共に震えた。
『大地ィ! おいこら、大地!』
「……ん?」
『ん? じゃないわい。お前、何をやっとる』
スマホのスピーカーから響くのは、大也が見た先ほどまでの映像の切り抜きでは、人質だったはずの父、百地圭介の声だった。
一瞬また、よくできた忍びの声真似による欺きかと疑った大也であったが、耳元からスマホを離し、画面を目で確認したところ──。
そこに映っていたのは、さっきよりも鮮明な父の姿と、お茶目にピースをする母の姿であった。
どうやら合成映像ではない。大也は苦笑いを浮かべながら二人に返答した。
「……親父とママこそそこで何やってんだよ。小銭稼ぎか? カフェは? かわず屋は? 経営難? 本当に捕まってたのかよ?」
『ごほんッ……そんな些事はどうでもいい。こっちは平らげたから心配いらん。だらだらしてないで、その任務さっさと片付けてこんかい! それと一度顔見せに帰ってこい』
『その任務、何があっても絶対守り抜きなさいよ大ちゃん! そうっ──』
『『圭ちゃんと、ママみたいに!!』』
「はは、──了解っ」
拳でガッツポーズを作る両親の目を画面に見ながら、大也は通話を切った。そして、倒れていたリカルドへ鋭く冷たいその視線を戻した。
「……だとさ。悪いが、片付けるしか選択肢はないらしい」
「っ!? ざけるなァ!!」
なんとか立ち上がったリカルドは、後ろに狼狽えるように退がりながらも、後ろの尻尾で器用にも謎の小型機器のスイッチを押し込んだ。
直後、天井のノズルから淡い青色のガスが噴射され、燻蒸庫内を瞬く間に満たしていく。
「ははははは! 愚か者が! 人質などなくともリカルド様は周到なのだよ! 毒に喘いで、くたばりやがれ!!」
『……そういうの、二番煎じって言うんだぜ。──蛙の息子をヤるなら、もっと濃いお茶持ってこい』
ガスマスクを装着し高みの見物を決め込んでいたリカルドの目が、驚愕に見開かれる。
大也は徐々に霧散するもやついた毒ガスの中で、平然と深呼吸をする素振りさえ見せていた。
児戯。彼が繰り出す全ての策が、この男の前では子供の遊びに等しい。狡猾な狼が丹念に仕込みあげた毒も人質もまやかしも敵わない。この洗練された鬼の前には──。
「もういい……もういい、もういいッッ!!! どいつもコイツも使えねェ屑がっ!! 何が百鬼だ、何が最強だ!! 凡人が信仰するそんなものはマヤカシだ!! あぁ、喰らってやる……ッ喰らってやる喰らってやる……とっておきで殺してやる!!! 最後に地獄に落ちるのは──オマエだヒャッキィィ!!!」
おもむろに取り出した実のような黒い一粒を、怒りに震える指先で摘んだリカルドは、ソレを思い切って噛み砕いた。
仰ぐ天を揺らす咆哮と共に、彼の筋肉が骨格がミシミシと音を立てて膨張していく。肌を面を覆うほどに毛量を増した毛は逆立ち、瞳は血の赤に染まった。
リカルドの全身が今までにない、桁外れの狂気と冥力に満ちていく──赤黒く穢れた牙を見せ、狼は歪みワラう。
「ガァアアアアアアア!!!」
何回りも肉体をビルドアップした狼男が、庫内を暴風のように暴れ続ける。鋭利な爪が目の前の獲物を襲い続ける。
次々と裂ける麻袋、壁をまるでアルミのように裂く、荒い冥力の通った強靭な爪。
避け続ける忍びを追い回した狼は、心臓と攻め手を休めず素速く飛び掛かり、ついにその憎き男の身を捉えた。
「切り札は早く使え。……今度、生まれ変わったらな」
しかし、天から繰り出した大きな獣の拳は、ピタリと時が止まったように、受け止める大也の手のひらの上で静止した。
「っッ!?? ザケルナァぁぁ――――!!!」
禁忌の強化をしても未だ残るリカルドの理性。だが、その僅かなる正気のリソースは、ただ憎き憎き目の前の忍びの男へと向けられた。
獣が赤き牙を剥き、前へ前へと必死に首を泳がせ伸ばす。地に据えられた大也の首筋に食らいつこうとした、その瞬間──。
喰らいつく牙を前へと挑むステップで躱し、瞬く間に懐へと潜り込んだ大也の右肘が、天を衝くような鋭さで獣の鳩尾へと突き入れられた。
「剥技【波悶天活殺】────じゃあな、哀れな狼」
「がハッ────!!?」
襲いかかる敵に慈悲はない、容赦はしない。腹の深きにめり込んだ衝撃は、身に余るほど巨大に肥えた一匹の獣が増幅したその悪意ごと、底の底から波打った。
勝つ忍びあり。敗れた忍びあり。
ドサリと鈍い音を地に震わせ、天の光を背に駆けた巨狼は、落ちた。
冷たい地を占めた巨体は、ぴくりとも動かない。対峙したその忍びが、哀れな狼に情けをかけるとするならば、理性の消えた獣と成り果てる前にあの世へ送ってやることだけだった。
天まで屠る如き力で、空気を震わせた剥技のイチゲキ。伝う波動に割れた庫内の照明が、キラキラと明滅を繰り返し──やがて暗幕を下ろすようにひっそりとその〝終わり〟を告げた。
戦いが一つ終わっても、任務はまだ終わりじゃない。
頬を染めたたったひと傷の痛みと怒りから、運命のツキに狂った狼男。その獣を静かに喰らった百鬼は振り返らない。誘われるさらなる深淵へと、黙々とその歩みを進めていった────。




