第二十九話 覚悟の一本橋
徐々に暗色に沈んでいくオレンジ色の陽光が、栗毛の女の駆け抜ける廊下の窓を翳らせ彩り、タイムリミットを報せる。
階段を登り着いた鶴橋綾子は、ついにその屋上の扉を開けた。
奪い返した隠された宝石は、あと一つ。かき集めた全ての宝石が騒ぎ示す、その頂にある大きな反応を残すのみ。だが──。
『四十五分。時間切れじゃ』
無情な宣告が、夕闇に響いた。
鶴橋が声の方を仰ぎ見ると、屋上の給水タンクの上に寝そべっていた白髪の女、漆阿がゆっくりと立ち上がった。
「時間厳守は基本じゃが、ここは門外。大目に見てやるとして──さて、いよいよ……どうするかの?」
漆阿が不敵に目を細める。
鶴橋は愛用の忍具、番匠鳥を最後の宝石を所持する標的へと構える。
そして一拍置いて──鋭利な鉄の嘴を開いた番匠鳥の中から、内にセットしていた忍法の種火となる宝石を全て抜き出し、それらを手のひらの上に並べて見せた。
「私は楽に勝てる戦いしかしない。その一粒の為に戦うとなれば、きっと大損だ……はぁ」
お手上げだ、と言わんばかりに空になった得物を捨てて両手を広げる。
それは単なる屈服と降参ではない。宝を一つのみ残したこの状況、天に立った得体の知れない冥力を宿す相手、そして残された武装と自身の実力から導き出された答えは──大損。
一時の感情やコンディションの振れ幅でどうこうなるものではない。鶴橋綾子の眼が見抜いたあまりにも冷徹な計算の結果だった。
「おや? はっは、面白いことを言いよる」
盗んだ一粒の宝石を陽光に翳し見せびらかしていた漆阿は、タンクの上から軽やかに飛び降りた。そして、鶴橋の目の前に着地した。
「……息を切らしておらんな。どうやら、ただがむしゃらに駆けずり回っていたわけではなさそうじゃ? 賢明な判断よの」
漆阿は鶴橋が集めて両手のひらに置かれた宝石の数々と、若い彼女の顔色を見つめて、幾度か頷いた。
「……賢明?」
「弟子たちがここにいるはずだと、少し前、風の噂で聞いての。もしかすると一刻を争う……おぬしに構っている暇はどうやらそれほど無いのじゃ」
先ほどまでの遊びの空気が漆阿の言葉と共に僅かに引き締まる。唐突に出てきた弟子というワード、そして白髪の女が手持つ一粒の宝石、その近づく冥力に呼応し、今もなお騒ぎ続ける手のひらの宝石たち。
鶴橋の脳裏には、一人、いや二人。この妖怪のような白髪の女に認められるほどの力を持つ。そんな者の顔が、浮かび上がった。
「その顔、心当たりがありそうじゃの? ──そう、ワシは漆阿。伏龍惣国、三神拳の漆阿。とも呼ばれておるの? ふふふ」
改めての自己紹介。おどけた様子で漆阿は指の腹の上に乗せ、輝きを増した緑の宝石をピンと前方へと弾いた。
「ふっ、伏龍惣国!? さっ、三神拳ンンッ!? なわっ!?」
鶴橋は慌てて放物線を描いた緑の宝石をキャッチした。同時に、その名を聞いた瞬間に絶句した。
「伏龍惣国、確か……一度入れば二度と出られないと噂の……そんな秘境にある……いにしえ、伝説級の存在が跋扈する忍びたちの墓場っ……! なぜ、そんな場所の大物が!? 今、ここにっ!?」
「ハッハ、随分と噂とおむすびが転がって大きくなっておるのぅ? 大袈裟じゃ大袈裟。家出した弟子に、ちと用があっただけじゃぁー。ハッハッハ(墓場とは心外じゃの?)」
大袈裟なリアクションを見せる赤眼鏡の娘のことを、漆阿は愉快そうに笑い飛ばした。
【伏龍惣国】、【三神拳】。
日本の甲斐国そのどこかにある秘境に門を構えるその場所は、惣国と称されるほどの力を持ち、歴史長らく独自の自治を許されている。
三神拳とは、伏龍惣国を治める三人の首領のことであり、同時にそれぞれ【冥】【漆】【剥】の技の極意を極めた者にのみ与えられる称号を指す。
歴史に名を馳せた伝説級の忍びたちがこぞって潜ったとされる狭き門。そこに一度首を潜らせ再び出てくる者は、龍と成るか、屍となり尽きるか、そのいずれかの運命を辿ると忍びたちの間で噂されている────。
▼
▽
寝静まる夜。緑川市旧街道の鬱蒼とした林を抜けた先。一本橋の真ん中に、月光を背負って突っ立つ巨躯の男がいた。名を、白楼。
その橋へと辿り着いた大地は足を止めることなく問いかけた。
「……何の用だ」
白楼は答えない。石のように瞬き一つ動かさず、在りつづけた。
やがて、大地がその横を通り過ぎようと足を踏み出した、その瞬間だった。
「──ぬんッ!!」
腹の底から唸った空気を震わせる咆哮。同時に、男の全身から冥力が迸り、周囲の樹木が葉を揺らし騒いだ。
「……打って来い」
白楼はただ一言、仁王立ちのまま静かに命じた。
「何言ってる。壊し屋を自負するあんたの漆は、ド下手だったろ」
立ち塞がる気迫と冥力、山のように大きな存在を前にしながらも、大地はそう言った。
ふと目をやった、男の腰に提げられた酒瓶の陶器の中は水の音に満ちている。
手がつけられた形跡がない。そもそも男は大地の記憶する限り、下戸だったはず。ともすれば酔った勢いの絡みではない。
大男の厚い胸に秘し宿した何らかの強固な意志。それが、夜に紛れ道をゆく百地大地の前へと、今、障壁として立ち塞がっていた。
「構わんッ」
白楼は譲らない。突っ立つその男の静かな眼光は、大地のことを睨んで離さない。
だが、防御技の漆の苦手な壊し屋の彼が、胸を貸すなど一体どういう風の吹き回しか。
分かりかねた大地は、その意を分かる必要もなかった。今はただその橋の先へと、向かうことしか彼の頭にはなかった。
「冗談はやめろ。……そこをどけ」
これ以上、謎の仁王立ちと無駄な時間に付き合うつもりはない。
大地は己のヘソに突っ込んだ親指を、時計回りに勢いよく回した。
ドクン、と鼓動が跳ねる。
橋の上に昇り立つ白煙と共に、その肥えた姿を鋭く研ぎ澄まし変貌した大也は、白楼に負けぬ冥力を解放した。
纏う冥力の背比べをするように、眼前の巨躯たる存在を威圧し返した。
だが、白楼は眉一つ動かさない。
「……この先を行けば、お前はおそらく負ける。その勝負、伏龍惣国が預かってからでも、遅くはない」
大也の真の姿、そして解放された力を前にしてもなお白楼は淡々と告げた。この橋を渡った先に待つのは、その熱く激らせた己の自信をも打ち砕く、未だ見ぬ敗北の色なのだと。
渦巻き干渉し合う互いの冥力、静寂に睨み合う二人は、譲らない。──そう決して一度灯したその意志を譲らない。
「あぁっ、そうかよっ!!」
やがて痺れを切らした大也が叫び、地を蹴った。
一気に肉薄し放たれた渾身の拳。だが、その拳は白楼の土手っ腹には突き刺さらず、寸止めされた。
──瞬間。あたりの風が死んだように止まった。橋の下を流れる川面には、ぽつり、ぽつり、生まれた波紋の数々が幾重にも交わり広がっていく。
「悪いが……後には引けねぇ。その死地、──押し通す」
「……手加減は、するな。潰せ」
「あぁっ!」
二人の影が橋の上で交錯し、やがてそれぞれに歩を進め、離れていく。
静かなる闘志を宿した言葉を交わし、すれ違い、久々の再開を果たした二人がついに、一本の木の橋を渡りきった。
白楼がおもむろに取り出そうとした酒瓶の内が、突如、沸騰するように騒ぎ出し、粉々に砕け散った。
さらにその直後──悲鳴を上げるように一本橋がバラバラと崩落し、その支えてきた歴史ごと川底へと飲み込まれていく様が見える。
「……気合い凄まじき三技ノ剥。いや、極意を昇華せし三技ノ冥」
白楼は、独り夜空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から這い出で、漆黒を支配し覗く黄月。まるで天から地を見下ろす鋭い龍の眼のように冷酷に、笑っていた。
「次の時代の龍と成るのは、百地、風魔どちらか……この勝負──」
飲む酒はない──。大男は、濡れたその右手を、妖しき月光の降り注ぐ天へと突き上げた。




